第1章 秘密①

母親のいない金曜日、少しの食料を持って部屋を出る。

高級住宅地と呼ばれる場所に立つ、31階建てのマンションに引っ越してきたのは、去年の夏休みだった。

前に住んでいた部屋よりは狭いけれど、二人で暮らすには充分な広さのあるこのマンションは、一つのフロアに五つ部屋がある。

静まり返る通路に出て、私は一歩だけ歩を進めた。


薊妃望17歳、高校三年生。

所謂受験生の私が週末の度に通うのは、塾でも友達の家でもない。


エレベーターから数えて二つ目。私の住む部屋の右隣。

同じように並ぶ扉の前に立ち、インターホンを押した。

1、2、3、4、5……。

ガチャ。

「……あ、」

通路に響いた音に顔を上げた瞬間、私はその部屋に引きずり込まれた。

先週よりも2秒早く開いた扉の奥は、相変わらず煙草臭い。

明かりも点いていない玄関で、未だに慣れない苦味に顔を顰める。

だけど、構うことのない舌が、私のそれを強引に絡め取った。

「おせーよ、ヒノ」

唇の隙間で、男が偉そうに喋る。

「いつもと一緒だよ」

「だからいつもおせーんだよ」

「ん、オッサン、髭剃って」

「うるせ」

「チクチクして痛い」

息を吸う間もなく重ねられる唇のせいで、立っているのもやっとな私を、オッサンが抱き寄せて見下ろす。

伸びた前髪のせいで、その顔が隠れて表情が見えない。

ただ、口元が妖しく歪むのだけがわかる。

「お前、痛いの好きだろ?」

そう言ったオッサンの手が服の中に入り、私の肌に触れた。

器用に動く指先と舌が、私の中の何かを煽る。

扉の向こうの日常が、ゆっくりと切り離される。

「あ、あ、あ、ン、あ」

だらしなく漏れ続ける声を、塞ぐことは許されない。

「ヒノ、もっと喘げよ?」

そうやって楽しそうに言ったオッサンが、私の中に入ってくる頃には、自分がどこに居るのかもわからなくなる。

与えられる刺激に、私はただ目の前の身体にしがみついた。

確実に私を導くその動きに、抵抗することなんて知らない。

「ヒノ、髪」

囁かれた言葉に、教え込まれた通りオッサンの長い前髪を上げた。

現れた瞳に吸い込まれるように、私の限界が近づく。

「あ、オッサン、気持ちぃ」

「ヒノ、舌出せ」

「ん」

溶けるように交わる互いの唾液に、私は声も出せずに上りつめた。

「お前、やっぱいいな」

力を失くした身体を、オッサンがさらに深めるように抱き寄せた。



それは、この週末の始まりにすぎない。


きっかけなんて、忘れてしまった。

その意味なんて、考えたこともない。

理由なんて、私にもわからない。


オッサンとの関係を聞かれても、私は答えを知らない。

たぶん、オッサンに聞いても、たいした返事は期待できない。



だからこの関係は、誰にも言わない。

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