第1章 秘密⑤
「明日、一度家に帰るから」
「……何しに?」
煙草を咥えたままのオッサンが、ベッドに身体を預けたままの私を見下ろす。
その腹筋には、綺麗な筋肉の道がある。体格が特別いいわけでもないオッサンは、世にいう細マッチョだと思う。
でも、美術の教科書にでも載ってそうな整った身体が、嫌いじゃなかったりする。
「出かけるの」
「出かける? 誰と?」
「友美さん」
「珍しいこともあるんだな」
オッサンがバカにしたように笑う。
でも確かに珍しい。
まず、私が週末の途中でオッサンの部屋を出ることが珍しい。
マンションの住人に見られるのが面倒なのもあるけれど、そもそも自宅に居るのが好きじゃない。
だから私の週末は、この部屋に初めて入った日から今日まで、テスト前や生理を除けば、オッサンの部屋でずっと過ごすことが普通になっている。
金曜の夜から月曜の朝まで、私もオッサンもこの部屋から出ることはない。
だから、私が途中で一度帰るなんてことは珍しい。
それから、友美さん。母親と週末に出かけるなんてことはもっと珍しいことだ。
「銀座の高級レストランに行くんだって」
「生意気だな」
「それからデパートで買い物するの」
「クソ生意気だな」
「お土産、持ってくるよ」
「夜には戻れるのか?」
煙草を灰皿に押しつけたオッサンが、ベッドの中に戻ってくる。
「うん。あの人は帰ってこないから」
オッサンの肌が、私に触れる。
ここに居ると、服を着る意味を忘れそうになる。下着だって、ほとんど意味を持たない。
「面倒くせー家だな」
「うん。面倒くさい」
私の家族は少し、変わっている。
母親である友美さんと私は、名乗る姓が違う。
友美さんの姓は「滝本」。
あの部屋の表札にも「滝本」の二文字が並ぶ。
でも私は、自己紹介をするときも書類に名前を記入するときも、「滝本」を使うことはない。
つまり、私が使う「薊」は父親の姓だ。
あの部屋に居ないどころか、私の記憶の中にも居ない父親の姓。
友美さんと父親が婚姻関係にあったのは、私が生まれる前のことらしい。
もっと言うなら、私が友美さんのお腹に居る数ヶ月の出来事だ。
だから私は、父親の顔も声も知らない。
知っているのは薊義志という名前と、その家が華道の家元であること。
それから、その母親。つまり私にとって祖母にあたる女性のこと。
その女性、お祖母様に言わせると、私は「間違えてできた子」らしい。
大学時代に父と知り合った友美さんが、父に取り入り計画的に私を作ったそうだ。
それでも一度は夫婦という形を取ったけれど、「薊」の生活に耐えきれなくなった友美さんは、父を捨てて薊家を出たらしい。
初めから二人の結婚をよく思っていなかった薊の人間は、素早く二人を離婚させた。
それから、当時21歳だった友美さんは、一人でお腹の子供を育てる決意をして、たった一人で私を産んだ。
だけどその半年後に、いらなくなった。
自分の家族とも仲が悪かった友美さんは、大学を辞めて友達も居なくなり、誰にも頼ることができなかったらしい。
お金だってもちろんなくて、ただ生活が苦しくなる一方だった。
だけど、男は居た。
友美さんの周りには常に、男の人だけは絶えなかった。
だから余計に、煩く泣く私がいらなくなったようだ。
「あのときは捨てるか殺すか、悩んだの」
小学校に入学した日、友美さんは私にそう話した。
そんな友美さんが今でも私と暮らすのは、心のどこかに私への愛情があるから。
なんて、綺麗な話ではない。
お金があるからだ。
そう、友美さんは薊の家に頼まれて私を育てている。
私をまともな人間に育てる代わりに、友美さんは薊の家から莫大なお金をもらっている。
友美さんにとって私は、勝手にお金が振り込まれる銀行口座だ。
友美さんは、私に「お母さん」と呼ばせない。
母親じゃないからだ。
でも、友美さんが悪いとも思わない。
薊の人間が友美さんのもとを訪れたのは、私が生まれて半年が過ぎた頃だった。
私を見つけた薊家は、幼かった私にDNA鑑定を受けさせた。
その結果、薊の一人息子である義志との血縁関係が証明された。
それにより、私の存在は薊家の中で大きな意味を持つようになった。
次期、跡継ぎ。
何がきっかけでわかったのかは知らないけれど、父親の身体は子供を作ることが難しいらしい。
それがわかり、薊家は慌てて私を捜した。
このままでは跡継ぎが居なくなるかもしれない。
私の存在は、薊家にとって大きなものになった。
だからといって、私の存在が歓迎されるわけではない。
今後父親が他の女性を妻として迎え、その女性との間に子供ができれば、私なんて邪魔でしかなくなる。
結局私は、薊家にとっての最終手段でしかない。
「間違ってできた子」を迎え入れて育てようとは、これっぽっちも思わなかったのだろう。
ただ、備えておく必要はある。
「もしも」に備えて、道を外さずに「薊」を名乗るに恥ずかしくない人間に、私を育てる必要があった。
だから、友美さんに私を育てることを頼んだ。
私にかかるお金の全てを出すから、完璧に育てろと。
有名私立幼稚園から始まり、小学校と中学校はお嬢様ばかりが通う有名女子校。
今通う高校も、日本でもトップクラスの成績でないと入れない難関校だ。
学校だけじゃない。放課後は学校を出たその足で習い事に向かう。
月曜と木曜はフランス語、火曜は日本舞踊。本当はここに水曜の華道が加わるけれど、最近は月に一度くらいしか呼ばれない。
それ以外にも色々な習い事をしてきた。
学習面だけでなく、一般常識や女性らしい立ち振る舞いを身につけるために、マナー教室に通っていた時期もある。
その中で唯一、華道だけは薊の家に出向いて習っていた。
最初の頃は、ほぼ毎日華道の稽古だった。
だけど少しずつ回数が減り、他の習い事をするようになった。
そして今では、薊の家には月に一度しか行かなくなった。
全ては薊の指示。
それに添えなかった瞬間、資金援助は打ち切られる。
だから友美さんは必死だ。私を育てることに必死だ。
友美さんがそこまで必死に育てるのにはお金以外にも理由がある。
普段、友美さんと一切関わることのない薊家だけれど、年に一度だけ友美さんとお祖母様、それから私とで出かける日がある。
それはいつも高級料理店での昼食と、百貨店での買い物と決まっている。
話を聞くぶんには、とても贅沢で微笑ましい時間だ。
でも実際は違う。
友美さんの言葉を借りるなら、「審査」だ。
友美さんが、私をちゃんと育てているか、お祖母様自ら審査をする日。つまり、私の毎日はこの日のためにある。
友美さんに渡されるお金の中には「口止め料」も含まれているのだろう。
だから本来、友美さんは優位な立場に居るはずだ。
なのに友美さんの方が必死なのは、本当に私を育てる理由が「お金」しかないからだと思う。
お金を手に入れた友美さんの生活は、とても華やかで、とても可哀想なものだった。
私が学校に行っている間の時間、友美さんは自由だ。
実際に買い物や、エステに行っているのを知っている。
だけど、私が帰る頃には夕食を用意して家に居なくてはいけない。
洗濯も掃除も、朝食の支度もして、夜だってずっと家に居る。
でもそれは「母親」をしているのではなく、「監視」をしているのだと気づいたのは、ずっと前のことだ。
私が「いい子」であるように。
だけど、週末は違う。
学校も習い事も、週末はない。
理由を聞いたら「休み」だからだと教えてくれた。
友美さんが「母親」を「休む」からだと。
もう小さい頃からそうだった。
友美さんは、金曜の夜に出かけて月曜の朝まで帰ってこない。
だから金曜の夕飯と、月曜の朝食はあの家に存在しない。
もちろん、週末も。
私はその間、外に出ることを許されなかった。
冷蔵庫にあるものを、自分で選んで食べていた。
それが私の普通だった。
友美さんがどこで何をしているのかは知らないけれど、男の人と遊び回っていることはなんとなくわかっていた。
そしてそれが、友美さんがお金を必要とする理由の一つであることも。
そんな友美さんと17年間一緒に居る私は、「母親」がどんな存在なのか、未だによくわからない。
でも、彼女にとって私が「娘」ではないことは、知っている。
「お前のここに、キスマークつけといたら、あの女と婆さんはどんな顔するだろうな」
オッサンが、意地悪い笑みを浮かべながら私の首筋に顔を埋めた。
「殺されるだけだよ」
その髪に、指を差し込む。
「誰が?」
「私」
顔を上げたオッサンの瞳に、私が映る。
「それは困るな」
「なんで?」
「お前とヤれなくなるだろ」
「そんなのたいした問題じゃないよ」
「いや、俺にとっては重大だ、欲求不満で死ぬかもしれねー」
その顔をジッと見る。
「じゃあ、天国でもセックスしてあげる」
私の言葉に、オッサンが鼻で笑った。
「バーカ、地獄だろ」
息を止めるように、唇が重なった。
なんでオッサンに友美さんの話をしたのかは、実は覚えていない。
だから、オッサンがどう思っているのかも知らない。
ただ、このオッサンとの関係が、お祖母様と友美さんが必死になって作り上げている“薊妃望”にとっての「汚点」であることは確かだ。
それがまた、この男を興奮させる。
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