第1章 秘密④
朝起きてから夜眠るまで、誰とも会話をしない日がある。
1週間の中で数えたら、3日くらいはあるのかもしれない。
それが3日連続だったりすると、一瞬声の出し方を忘れたりもする。
「あーあーあー」
「……」
「わーわー」
「……なあ、さっきからなんの呪文?」
「……え? 私?」
振り返ると、ソファで本を読むオッサンが、難しい顔で私を見ていた。
新学期を迎えたばかりの土曜日の午後、カーテンの隙間から僅かに射し込む太陽の光を無視するように、私とオッサンはいつもと同じ静かな週末を過ごしていた。
「この部屋に俺とお前以外に誰か居るなら今すぐ教えろよ」
「……あ、私のことか」
「だから、俺はお前にしか話しかけねーだろ、バカ」
不機嫌そうに言うオッサンに、結局なんで話しかけられたのかもわからない。
「私、何かした?」
「したっていうか、さっきから一人でうるせーんだよ」
「……」
「人の読書タイムを邪魔する気か?」
オッサンが煙草を手に取りながら、私の髪をぐしゃぐしゃにする。
「やめてよ!」
「うるせーガキ」
「発声練習してたんだから、オッサンこそ邪魔しないでよ!」
「は?」
「昨日ここに来るまで声出してなかったから」
「……」
「何?」
呆れたように眉を顰めるオッサンを睨む。
「お前、相変わらず友達居ないのかよ」
「別にいいでしょ?」
「……」
「それに、話しかけられても困るもん」
「困るって?」
「……みんなが好きな話、私にはわからないから」
学校は好きだ。
毎日することが決められていて、それを一つずつクリアしていけば必ず評価してもらえる学校のシステムが好き。
単純だし、公平だし、努力した分が数字として返ってくるから、安心できる。
だから、仲間外れにされたり、聞こえるような距離で悪口を言われたりすることは、全く苦じゃない。
むしろそんなことにはもう慣れているから、たまに学校で声をかけられると吃驚して、何を言えばいいのかわからなくなる。
わからなすぎて固まっているうちに、“感じが悪い”と思われてまた嫌われる。
小学校からずっと、その繰り返しだ。
だから友達なんて一人も居ない。
でも別にそれが不便なわけではない。
一人で居る方がずっと楽。
何が面白いとか、何が欲しいとか、誰が格好いいとか、そういう話を私はできないから、それなら一日中口を開かずに、ただ黒板と向き合う方が私には合っている。
「俺と居るときはよく喋るのにな」
「……そうかな?」
「まあ、俺よりは喋るだろ」
「オッサン、無口だもんね」
「お前にだけは言われたくねーよ」
鼻で笑ったオッサンが、ソファを下りて床に座る私を抱きしめた。
「そういえば、シャンプー替わったね」
「今さらだろ」
「へ?」
「先週すでに替わってた」
「……そうだっけ?」
首を傾げると、オッサンが溜息を吐いた。
「お前の記憶力は老人かよ」
「まだ17だよ?」
「うるせーよ。てか、もうすぐ18か」
「……え? まだ17だよ?」
「だから次は18だろ? バカかよ」
「バカじゃないし! まだ17になったばかりだから、18はもっと先だもん!」
「……は?」
「は?」
意味のわからないオッサンに顔を顰めると、オッサンがさらに困惑した顔をした。
「お前、最近17になったのか?」
「うん。だから、そう言ってるよ」
「は?」
「は?」
「なんで言わねーんだよ」
「何が?」
「だから、誕生日だよ」
なんか私、怒られてるっぽい。
「え、だって別に言う必要もないかと思って」
「バカじゃね? 言えば欲しい物の一つくらい買ってやっただろ」
目の前の灰皿に煙草を押しつける指先を見つめる。
つまりそれって、どういうこと?
「誕生日だと、何かもらえるの?」
「もらえたりもするだろ。親とか友達とかからって、」
そこまで言いかけたオッサンが、突然私の顎を掴むと、自分の方へ振り向かせた。
「首、痛い」
「まさかと思うけど、あの女にプレゼントとかもらったことないのか?」
「あの女って、友美さん?」
「ああ」
「……どうして友美さんにプレゼントもらうの?」
「お前、まさか自分の誕生日知らないとか言わないよな?」
珍しく真剣な顔をしたオッサンが、失礼なことを聞いてきた。
「それくらい、知ってるよ」
「ああ、まあそうだよな」
「うん。だって小学校で教えてくれるでしょ?」
「は?」
「小学校の一年生のときに、誕生日の月になると先生から名前呼ばれたよ? オッサンの学校はなかったの?」
月の初めのHRで、その月の誕生日の子が前に呼ばれて、先生から花を一輪もらっていた。
「私、自分がいつ呼ばれるのか、毎月ドキドキしてたんだ」
そのときのことを思い出すと、自然と頬が緩む。
「……」
「オッサン?」
「……え、ああ、何?」
「ううん。なんか怖い顔してる」
右手を伸ばして、眉間に寄る皺を撫でた。
「あ、キスする?」
「は?」
「私が喋りすぎちゃったから怒ってる?」
そう聞くと、オッサンが溜息を吐いた。
「お前、人を性欲しかない人間みたいに言うんじゃねーよ」
「え? 違うの?」
「……」
「冗談だよ? ごめんなさい」
「クソガキ」
「へ? わっ、ンン!!」
押し倒されたのが先か、唇を塞がれたのが先かわからない。
だけど気づいたら、その男に見下ろされていた。
「発声練習の続きするか?」
「へ?」
「まあ、昨日の夜も充分ヤッたけどな」
ニヤリと笑った口元に、嫌な予感がしたときにはもう遅かった。
その男の手によって、私はまた恥ずかしいくらいの声を上げた。
「薊さん、矢野先生が職員室に来るようにって」
月曜日、机の前に立つクラスメイトの言葉に、席に着いたまま固まった。先生以外から話しかけられたの、いつぶりだろう。
「あ、ありが、」
言い終わる前に、私と同じ制服を着た女子生徒は、仲のいいグループの方へと歩き出していた。
また、タイミングを逃してしまった。
ノートを机の中に入れて、席を立つ。
矢野先生……あの先生か。
なんの用だろう。
ぼんやりと考えながら教室を出る直前、
「薊さんって前も矢野に呼び出されてたよね」
「うん。実はさ、デキてるんじゃない!?」
「やだ~キモイ!!」
「あははっ!!」
聞こえた声に、チラリと視線を向けた。
ああ、さっきの子か。
「でもさ、薊さんのお母さんって、薊さんの中学の担任と関係があったらしいよ」
「何それ!?」
「うちの親が言ってた!」
「うわ~やっぱりさ、そういう親の子はああなるんだね」
「本当、顔がいいからって性格悪すぎ」
どうでもいい。
根も葉もない噂話はもう、聞き飽きたから。
今さら、傷つくこともない。
それに、どれだけ悪く言われても、何人に嫌われても、私は学校が嫌いじゃない。
あの部屋に比べたら、何十倍もマシだ。
ゆっくりと吸った廊下の空気に、今朝触れた熱を思い出した。
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