第1章 秘密⑦

覚えていないのは本当だ。

何度か思い出そうとしたけれど、記憶は所々抜け落ちていて、誰かに聞かれても説明できないくらいあやふやだ。

それをオッサンに話したら、だったら思い出さなくてもいいと言われた。

思い出せないってことは、たいしたことじゃないか、碌でもないかのどっちかだって言われた。

そしてそれは、碌でもない方だから思い出したくないのだとオッサンは教えてくれた。

なんでわかるの? と聞いたら、俺は覚えているからだって、オッサンは言った。

だから、思い出さなくていいと。


その日私は、家の鍵と折り畳み傘を忘れた。

二学期が始まったばかりの金曜日、学校から帰ってきた私はこの週末をどう過ごすべきか困り果てていた。

母親はもう、家を出た後だ。

でも、考えて思い浮かぶほど私の周りに人間は居ないから、1分もしないうちに諦めて扉の前に座り込んだ。

昼から降り出した雨のせいで、制服は濡れてしまった。

昨日先生が「台風が来ている」と言っていたのに、うっかりしていた。

濡れた制服で座り込む私に、通りかかったマンションの住人が声をかけてきたけれど、「夜には母が帰ってくる」と嘘を吐いた。

でもそれも、深夜ともなれば通じない。


「……何してんの?」

日付が替わった頃に現れた隣の部屋の住人は、見るからに酔っ払っていた。

「親は?」

そのせいか、やたらと話しかけてきた。

「……あの、もうすぐ帰ると思います」

「それ何時?」

「えっと、」

「家来る?」

「え?」

男を見上げると、長い前髪の間からその瞳が少し見えた。

「家、来る?」

強くなる雨の音に、体温が奪われていくのを感じた。


初めて入ったその部屋はとにかく煙草臭くて、思わず咽せた私を男は笑った。

酔っ払っているせいか上機嫌な男は、私にベッドを使うように勧めて、自分はリビングでまたビールを開け始めた。

どうするべきか困ったけれど、確かにもう眠気が限界でベッドを借りることにした。


そして次にある記憶の中で、私は既にその男の腕の中に居た。

「痛い」と思ったのを覚えている。

それから、顔を歪ませた男が私を見下ろしていたことも。

でもその痛みが、目の前の男から与えられているものだとは、理解していなかった。

ただ、その男が私を求めていることだけは理解できた。

それが、酷く幸せに思えた。


途切れ途切れの記憶の中で、いつしか男は私の名前を繰り返すようになった。

なんで私の名前を知っているのかも、聞かれたのかも、教えたのかも覚えていない。

だけどこんな風に自分の名前を呼ばれることが初めてで、私はその男から与えられる全ての行為を受け入れた。


そこになんの疑問も持たないほどに、私は幸せを感じていた。

それは生まれて初めての感覚だった。


どうやって朝を迎えたのかは覚えていない。

でも、

「もう来るな」

そう言われたのを覚えてる。

「なんで?」

と聞いた私に、

「気持ちよすぎるから」

男は笑って答えた。

それから、

「このこと、誰かに言うか?」

煙草を咥えた男は、不思議なことを聞いてきた。

「……誰に言えばいいの?」

一体何を誰に言うのか疑問に思った。

私の話を聞く人なんて、この世界のどこに居るのか教えて欲しい。

「誰にも言わないよ」

そう答えると、男がベッドの中で見たのと同じ笑みを浮かべて、

「いい子」

ご褒美とでもいうように、私の唇を塞いだ。

あやふやな記憶の中で、煙草の味がするそれだけは、今でもはっきりと覚えている。

だって今もその味が、私を支配するのだから。


「オッサン、また髭伸びてる」

「週末だからな」

「意味わかんない」

「お前さっきから何考えてるの?」

「ん?」

「なんか考えてるだろ」

「うん。考えてる」

「余裕だねー」

オッサンの舌が、攻めるように激しくなる。

「ん! オッサンのこと、考えてたんだよ!」

「俺?」

「うん。オッサンと初めて会った日のこと考えてた」

「なんだそれ」

「オッサン前に、碌でもないから思い出せないって言ったでしょ?」

「あー言ったかも」

「でも私の覚えてる限りだと、そんなに悪い記憶じゃないよ?」

「あっそ」

「本当だよ? むしろ幸せだとか思うくらい、」

「ヒノ」

言葉を遮るようにオッサンが私の名前を呼んだ。

「何?」

その目が蔑むように私を見る。

「じゃあ、お前は俺がなんでお前を抱いたかわかってるのか?」

「そ、れは、気持ちいいからでしょ?」

「ああ。それだけだ」

「そんなの前から、」

「それだけって意味、マジでわかってる? いい歳した男が、一回りも離れた高校生のお前を抱いた理由が、気持ちいいからってだけなんだぞ? お前その意味、本気でわかってんのかよ?」


あの日を思い出すには、私の記憶はあやふやすぎる。

だけど思い出せない記憶を、オッサンは知っている。

だから私が抱えている秘密なんてのはほんの一握りで、本当に秘密を隠しているのは、その鋭い目で私を見つめる、この男なのかもしれない。

「オッサン」

「いい加減黙れよ」

「あのね、」

「ヒノ、挿れるぞ」

「あ!!!」

「あー、やば」

「ン、ねえ、オッサン」

覆い被さる男の頬を掴み、その前髪を上げる。

「なんだよ」

「なんで、名前知ってるの?」

「あ゛?」

「私の名前、なんで知ってるの?」

「あーそれね」

「あ、ン、ねえ、私、言ったっけ?」

緩やかに攻められる感覚に震えながら、オッサンを見つめる。

そんな私に、心底どうでもよさそうな顔をしたオッサンは、

「忘れた」

馬鹿にしたような笑みを見せながら、私の首を舐めた。


そういえば、もう一つわからないことがある。

「オッサン」

私はいつの頃からか、この男をそう呼んでいる。

その理由やきっかけを考えたけれど、わからなかった。

オッサンに聞いても、やっぱり教えてくれなかった。

思い出そうとしても、出てこない。

だって、


「オッサン」


そう呼び出したときにはもう、この男との大半の出来事を忘れてしまっていたのだから。


途切れそうになる意識の中で伸ばした手を、誰かが掴んだ。

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