花辻の常世

笠森とうか

美藤/上

 都にそのひとあり、とうたわれた美藤は、誰とも縁談を結ばぬ美姫として名高い。来る日も来る日も途切れぬ求婚を一切の別なく追い返すものだから、ひとは彼女を「月の都姫」と呼んでいた。美藤にとって、求婚を受け入れないことに何か特別な理由があったわけではないけれど、求婚者たちの子を産むのは何となく嫌だったのだ。本当にそれだけだ。だから、いつか我儘を許されなくなったときが年貢の納め時だと覚悟を決めて、まんじりとそのときをただ待つ日々を送っていた。花を詠み香を合わせ、琴を吟じては手すさびに筆を遊ばせて、悠然と続いてゆく時の流れのままに、心の凪いだままに過ごしてきた。

 かくの如く生きてゆくのは貴人のひめとして当たり前のことであったし、皆程度は違えど同じような気持ちでいるのだろうと美藤は思っていた。親しい友こそなかったが、よく働く女房が常に傍近く控えていたから不自由はない。話し相手に困ることもなかったし、何より美藤はあまり会話を好まない性質だった。

 他人とかかわりを持つことは、しがらみを増やすことだ。だから、それは面倒くさい。仏門に帰依しようかと思案したこともあったけれど、両親おやが泣いて引き留めるからと断念したことがあったほどだ。さして熱意があったわけでもなし、言われるがままに花の盛りを持て余し、いずれ衰える容色に踊らされるひとびとを眺めてこれからも生きていくつもりだった。


 けれど――――そうやって面倒ごとを避けていたはずなのに。


 ある朝、目が覚めた美藤の腹の上には、鱗の如き黒いあざがびっしりと浮かんでいた。一人では着物もろくに着ることのできない美藤に隠し通せるはずもなく、明朝、邸は大騒ぎになった。内密に、しかし急ぎ呼ばれたまじない師の男は呉竹と名乗る髭を生やした男で、どこから見つけてきたものかも知れぬ怪しげな風体をしていたが、他に頼れるあてもない。聞けば、他の占者どもは「それだけは」と恐れをなして逃げ帰ったのだという。唯一つかまったのが、この男だった。仕方なしに、美藤は恥を捨て彼の前に己の白い腹を晒した。見知らぬ男に身体を晒すことより、己の身に起こった異変の方がよほど恐ろしかったのだ。

「失礼」

 低くつぶやいたまじない師の男は、無遠慮に美藤の肌をまさぐったのちに、すっと目を細めて美藤へ向き直った。

「あんた――」

 仮にも貴族の姫に対して、随分と無礼な男だな、と美藤はぼんやりと思った。

「蛇に何をした」

「蛇?」

「そう言ったが」

 ばかみたいに男の言葉を繰り返した美藤が話を聞いていないと思ったのか、男はぐ、と身体を近付けて、腹のあざを美藤よりもずっと太い指でなぞりあげた。

「見ろ。蛇の鱗だ。あんたのことを食い殺そうとしているか、或いは嫁に取ろうとしているか。どの道、あんたが蛇に魅入られたことに変わりはないが」

 心底嫌そうに男はそう告げ、

「まァ恨むんなら生まれ持ったその面を恨むこった。蛇ってやつは綺麗なものを好むんだとよ」

 何の躊躇いもなく背を向けて、荷と言うには少なすぎる包みを背負い直し立ち上がった。自分の仕事は終わったと言わんばかりの、それは面倒を避けるための仕草だった。薄衣を羽織るのもそこそこに、咄嗟に男の腕を掴んだ美藤は、訝しげに視線を寄越した男に問いかけた。きっと、縋るような顔になっているに違いなかった。身分の卑しいものに声を掛けていることも、扇で顔を隠せていないことも、はしたない姿を晒していることも全てをかなぐり捨てて、恥も外聞もなく美藤は問うことしかできなかった。

「待て、これは、どうすれば取り除けるのだ」

「知らん」

「何故」

「なぜ、と言われても。蛇の考えることなど、おれが知るはずがなかろうよ」

「金ならやろう」

 自分を助けるためなら、いくらでも金を積む者があるだろうと美藤は踏んだ。そしてそれは正しかった。もしかすると、帝とて心を動かすかも知れぬ。けれど、返答はにべないものだった。

「いらん。割に合わん」

「であれば、何を求めるのだ」

「……そうさな」

 男は薄い唇をゆがめてのたまった。愉快な表情ではなかったが、血の通った人間のする表情だった。

「嫁さんかね」

 ふざけているのかとも思ったが、背に腹は代えられない。言ったからには、この条件で承ってもらおうと美藤は首肯して見せた。

「お前に嫁を取らせれば良いのだな」

「ああ、それなら構わん」

「良いだろう。私付きの娘を一人くれてやる。だから」

「ふん、救えと言うんだろう? 言っておくがな、おれにできるのは蛇を特定することくらいなもんだ。後のことはあんたがどうにかするんだな」

 たったのそれだけ。助かる見込みがあるかも分からず、何の解決になるかも分からない、けれどそれだけが、今の美藤にできる精一杯なのだ。無力を噛み締め、眦が熱くなったが意思の力で涙は留めた。それが、美藤の矜持だった。

「…………それでも、仕方ない。良いだろう」

 では、と男は懐から半紙を取り出すと、腰に括り付けた竹筒から水を口に含むと、勢いよく吹き付けて湿らせた。そうかと思うと半透明に透けたそれを美藤の腹にぴったりと押し当てる。たちまち紙の上に美藤のあざと同じものが浮かび上がった。どういう絡繰りなのかと美藤が目を白黒させている内に、男は手際よく紙を剥がし取り、器用にまとめるとさっさと退出していった。


 壁際に置かれた鏡に裸体を映した美藤は、己の身体を取り囲む蛇を想像し、目を背けることしかできなかった。白魚のようにすべらかだった肌は今やおぞましい黒に浸食され、無残な姿を晒していた。

「どうして、こんな」

 崩れ落ちるように畳に臥せた美藤は、今度こそ声を殺して泣いた。庭に出ることすら憚るような、そんな暮らしをしてきたというのに。蛇など、どこで見よう。まして、恨みを買うような謂れがあるとは考えられなかった。ただ待つことしかできない時間は美藤の精神を脅かし、心を弱らせるのには十分だ。さして軟弱な美藤でもあるまいが、何が起きても平気というわけではない。

 泣き疲れ、そのまま眠った美藤がまじない師の男と再び対面するのは、それより三日の後であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花辻の常世 笠森とうか @tohcalenia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ