紫陽花

木染維月

紫陽花

 透明水彩の雨雫が染め上げた紫陽花のその色のように、梅雨の只中僕の前に現れた彼女は、儚くも美しい出で立ちでいた。


 触れてしまえばいとも簡単に雨に溶けて消えてしまいそうな――否、寧ろ彼女こそが紫陽花を彩る滴の染みそのものであるかのような、そんななりである。存在そのものが泡沫の夢幻であるかのような、それでいて凛としていて人を寄せ付けないような、何とも形容し難い現実味のなさが、彼女にはあったのだった。


 僕はといえばそんな彼女に声をかける度胸などある筈もなく、どころか正面から顔を見る勇気さえ沸かなかった。というより、そういう次元に存在していない気がした、という方が正確だろうか。現し世のものではないと思えた、と言ってもいいかもしれない。兎に角、紫陽花の見えるこの軒下で雨宿りをしていただけの僕にとって彼女が泡沫の夢だろうが邯鄲の枕だろうがどちらでも良かったし、美しさと儚さが過ぎてとてもじゃないが自分と関わり合いになるような人間には思えなかった。


 だから、彼女の方から僕に声をかけてきた時は――心底、驚いたものだった。


「ねえ、そこの貴方」


 自鳴琴の音色と聞き違うような、細く澄んだ声である。雨の匂いに混ざり、ふわり、と甘い香が鼻をついた。


「僕、ですか」


「他にどなたがいるっていうんですか」


 思わず問い返す僕に、彼女は鈴を転がしたような声音で笑う。


「私、貴方とお話したくて来たんです。でも、その前にひとつ聞いてほしいことがあって」


「僕と、ですか......? それに、聞いてほしいことって、何です?」


 思いの外明るい彼女の口調に僕は、勝手に感じていた近寄り難さが雨に溶けて消えてゆくのを感じた。そして、会話をするのならば目を合わせるのが道理であろう、と彼女の方に顔を向けようとした、その頬を――横から伸びてきた傘の柄が、突き戻した。


 そして、先程の明るいものとは打って変わった堅い声で、彼女は言ったのだった。


「約束して下さい。お話している間、絶対にこちらを見ない、って。――貴方はまだ、私と向き合える状況にないわ」





 そうは言ったものの、彼女と僕との会話は当たり障りのない世間話に留まっていた。最近あった出来事、この近くに住んでいる猫の話、更には世界情勢の話。それはまるで、所謂「世間話」にカテゴライズされる話題を片端から選んでしているかのようだった。自鳴琴のような彼女の声は耳に心地よく、いつまででもこうしていられそうな気がしていた。


 けれども意識の底で、僕は気付いていた。それに気付いてしまうことは全く僕の本意ではなく、出来ることなら甘い雨の香りの中にはぐらかしてしまいたかったが――彼女が僕と話をしに来た理由は、きっとそれなのだ。大体そうでもなければ、こんな美しい女性がわざわざ僕のところに話をしに来る理由がない。


 それに、誤魔化してしまうには――この状況は、あまりに三年前のあの日に似すぎていた。


「ところで、猫といえば」


 そう言った彼女の声音は先程までの心地良いものではなく、最初に出会ったとき彼女が持っていたような、凛として近寄り難いものだった。本題が始まったのだ――僕は悟り、少し構えて彼女の言葉の続きを待った。


「あの子は、猫が好きでしたね」


 「あの子」――それが誰のことを指しているのか、すぐに分かった。


 三年前に死んだ彼女のことだ。



 ――三年前に、僕の所為で死んだ彼女のことだ。



「責めているわけではないんですよ? でも、貴方が向き合おうとしないんですもの」


 歌うように言う彼女の言葉を聞きながら、僕は、手足の先が冷えてゆくのを感じた。冷たい雨が、ゆっくりと冷気を染み渡らせる。




 三年前のあの日、僕と彼女はやっぱりこの軒先で雨宿りをしていただけの、行きずりの関係だった。丁度今と同じ、紫陽花の綺麗な季節で、彼女は利発そうだが何処か紫陽花の似合うような儚さのある、そんな女性だった。


 彼女とはなかなか馬が合った。彼女には僕と同じく読書の趣味があり、好きな小説家が同じだった。彼女との読書談義は大いに盛り上がったが、暫くして雨は止み、僕らは軒先を出た。彼女と僕はそれぞれ反対方向に進み、そして――そのまま、彼女は車に撥ねられて死んだ。


「貴方は悪くないんですよ? なのに、向き合ってくれないなんて酷いわ」


 「彼女」の声が、自鳴琴のようなそれから、だんだん利発そうなあの声に変わってゆく。見てはいけないと言われた彼女を見て、向き合うならばきっと今なのに、見えない圧に阻まれて僕の身体は硬直していた。


「そんなことは......そんなことは、分かってるんですよ。僕が貴女を轢いたわけじゃないし、反対方向に居た僕が貴女を助けられたわけじゃない」


 僕は、ぎゅっと拳を握りしめる。


「でも、若し僕が、もう少しだけ貴女を引き留めていたなら――貴女は、死なずに済んだ」


 僕の関与出来ない命の責任を感じて勝手に悔やもうなど、傲慢もいいところだった。僕が彼女に出来ることなんか何一つなかったし、ただ一緒に雨宿りをしていただけの僕にこう何年も悔やまれたって、彼女も困るだけだろう。けれども僕は、雨が降る度、紫陽花が雨雫に染まる度――彼女を思い出さずにはいられないのだ。


 ――ふと、隣にいる「彼女」の持つ空気が、三年前に死んだ彼女と同じものから、今日出会った彼女のものへと戻るのを感じた。花の蜜のような甘い香りが再び鼻をつく。


「全部見てたんですよ。三年前から、今日まで、ずっと」


 不意に彼女の発した声は、思いの外優しいものだった。驚いて彼女の方を向いてしまった僕を、しかし彼女は約束破りを咎めることもなく、穏やかな眼差しで見ていた。


 ――僕の眼に映った彼女の姿は、紫陽花の花そのものだった。


「貴方は優しい人です。そんなふうに行きずりの誰かをずっと想えるなんて素敵なことですよ。――でも、もういいと思うんです」


 そう言って、彼女は僕と初めて目を合わせる。


「――紫陽花は、咲く環境によってその色が変わります。優しい貴方はきっと、彼女のことを忘れられはしないでしょう。けれど――その後悔を、環境を変えて、美しく生かしてあげたらどうでしょう? そうね、例えば――」


 彼女の口許が、優しく緩み――


「物語に、昇華してしまうとか。......貴方、小説は好きでしょう?」


 ――彼女の姿はそのまま、雨に溶けて消えた。





「僕はね、彼女はあの紫陽花だったと思ってるんだ」


「花の精、ってわけですか? ......というか、先生。今回の原稿、実話なんですか?」


「さてね。どうだか」


 首を傾げて問う担当を適当にあしらいながら、僕は彼に原稿の入った封筒を手渡す。担当は不満そうにしていたが、僕はこのことについて多くを語る気はなかった。


 彼女が僕の前に現れ、消えてから、数年の歳月が過ぎた。有難いことに僕はあれから小説家になることができ、今では優雅な印税生活を送っている。


 彼女の言った通り、僕はあの日の後悔を物語にして昇華した。それは今回の原稿に限らず、様々な形で、だ。あの日、彼女はもういいのだと言ってくれた。だが、僕にはそれが忘れていいことのようにはどうしても思えなかったのだ。だから僕は、その感情を、昇華し続けることで――死んだ彼女の面影と共に、後悔を抱え続けることを選んだ。


「あぁ、もしかして、梅雨が来ると毎年先生のお部屋に紫陽花があるのは、そういうことなんですか」


「さぁね」


 環境によってその色を変える紫陽花のように、僕の中の後悔も、色を変え形を変え昇華されながらそこに在り続ける。


 けれど、雨が降る度、紫陽花が雨雫に染まる度、押し潰されそうな罪悪感に苛まれることは――もう、ない。

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紫陽花 木染維月 @tomoneko

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