そこにあるもの

水城しほ

そこにあるもの

 自分の部屋で、小説を書いていたはずだった。

 部屋の明かりを消し、パソコンを立ち上げて、投稿サイトの入力フォームに脳内の光景を描写し続けていた――そのはず、だった。


 転寝をしていたらしいわたしが目を覚ますと、何故だか見知らぬ部屋にいた。

 横にいたのは、中性的な顔立ちをした細身の男性。いや、本当に男性なのかはわからない。わたしがそう感じたのだ。

「はじめまして」

 そう挨拶をされ、わたしは「おはようございます」と多少ズレた返事をして、それから部屋を見回した。

 病室のような部屋に存在しているのは、わたしが寝ている清潔そうなベッドと、黒いスーツに身を包んだ男性、いくつかの器具が乗せられた作業台が一つ。それだけであった。窓の外は乳白色で、それは雲海のように見えた。

 部屋の壁はただ真っ白というわけではなく、何か洒落た模様が入っているように見えた。しかしじっくり目を凝らしてみれば、そこにはみっちりと文章が綴られている。距離があるので内容まではわからないが、無機質な黒色フォントでつらつらと、何らかの物語が書かれているように見えた。

「私たちがいつも読んでいる、アレですよ」

 そう言って微笑んだ彼は、作業台の上に置かれていた箱から薄いゴム製の手袋を取り出し、手早く両手に装着した。

「では、せっかくのご縁ですから、解剖といきましょうか」

 微笑む彼の、その言葉の意味を捉えかねたわたしは、おそらく眉間に皺を寄せた。そして突如、弾かれるようにその意味を理解した。

 ――わたしは暴かれてしまうのだ。

 反射的に、逃げようとした。しかしわたしは起き上がる事ができなかった。身体に掛けられていた薄手の毛布が剥がされ、そしてわたしは裸だった。恥ずかしいより恐ろしい方が先に立ち、歯の根が合わないほどに震えた。

「怯えないで下さい。どのみち私はもう、あなたの中に棲んでいる」

「そ、そ、そんなのどうやって」

「あなたは、私の物語を読んだでしょう。つまり、私の欠片を食べた」

 彼はわたしの額に手を当てると、そのままずぶり、と頭の中に手を突っ込んだ。痛みはなく、血液が噴き出すような事もなく、まるでそうする事が当然のように。

 彼もわたしも生身ではないのだと、直感した。ああ、これは夢なのだ。夢ならば何を暴かれようと、他の誰にも見られやしない。けれど――誰かの、いや、彼の夢と繋がっているのではないか。わたしが読んだ物語を書いた、サイトに投稿している作家の中の誰か。

「だ、だれ、あなただれ」

 頭の中を直接まさぐられているような感覚のせいで、上手く言葉を発する事ができない。幼子のような舌足らずの発声で、わたしはどうにか問いを投げた。

「私が誰であるかなんて、あなたには必要のない情報だったのでは?」

 その言葉には思い当たる事があった。わたしはある人に言ったのだ、作家の情報なんて必要のないものだと――つまり、この人は、おそらく。ああ、でも名前が、思い出せない……。

「不要な情報は消して、綺麗にしておきましたよ」

 わからない。わからない。この人の名前は何だっけ。どうしよう、この人の作品は思い出せるのに。相手が「誰」なのか言えないだけで、こんなにも不安になるものなのか。

 思わず、彼へと手を伸ばした。すがりたかった。彼は左手でわたしの手を取って、仕方のない人だ、と呆れたように言った。

「自分が必要な時だけ、そうやって手を伸ばす。まぁ、人とはそういうものなのでしょう」

 彼の右手は頭から引き抜かれ、続いて胸の中央に触れた。今度は何をされるというのだ、まさか「心臓を止めておきましたよ」とか言い出すのではないか。

 いやだ、わたしは死にたくない。こんな死に方はいやだ、せめて、せめて、あなたにごめんなさいと言わせてほしい――あなたの気持ちを、わたしは無視してしまったから!

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「謝るのは、自分が苦しいからですよね。では、その苦しみを消す事にしましょうか。そうすればあなたは、私に謝るだなんて考えもしなくなる」

 彼の手は胸の奥へと潜り込み、わたしの心の奥底を弄り出した。ああ、そうだ。そこにはわたしの心があるのだ。さっき頭をまさぐられた時も、触れられたのは脳じゃない――あれは、わたしの記憶だった。

「あれ、ここじゃないんですかね……てっきりここだと思ったんですがね……」

 ぐちゅぐちゅ、と音が聞こえるような錯覚。無遠慮にわたしの胸の内をまさぐる彼の手は無機質で、わたしはそれに心地良さを覚え始めた。

「あ、ああ、なにを」

「探し物です。あなたの本質を見せて頂きたい。作家の内面を探るのが、私の生業ライフワークでしてね」

「さっ、か?」

 作品を形にして世に送ればみな作家でしょう、と彼は言う。自分の小説を認められたような気がして、わたしは嬉しくなってしまった。

「う、うれしい、うれしいです、ありがとうございます」

「どういたしまして、こちらこそ嬉しかったですよ。あなたは私の文章を好きだと言ったから――まぁ、これはそのお礼のようなものです」

 胸から右手を引き抜いて、その手には何かが握られていた。見ればそれは青黒い粘液のようなもので、作業台の上のトレイに投げ捨てられると、びちゃりと音をたてた。

「あなたの中にある汚いものを、少しだけ綺麗にしてあげましょうね」

 彼の手は私の下腹部をそっと撫で、そして臍の下辺りにぐぶりと潜り込んでいった。そこははらだ、わたしのいちばんやわらかなところだ。

「ああ、やはりここのようだ」

 ぐりゅ、と円を描くように腕を動かされ、わたしは思わず悲鳴をあげた。その声は艶っぽかったのかもしれないし、断末魔のようであったのかもしれない。そんなわたしに構う様子もなく、彼はわたしの胎からも、青黒い粘液の塊を引き摺りだした。

 それは先程のものなど比較にもならないような、大きくてどす黒い塊であった。その端はまだわたしの胎と繋がっているらしく、彼が塊を動かす度、その振動が胎へと流れた。

「っは、これ、これは……っ?」

「負の感情の塊です。ずっと綺麗事ばかり言っていたのだから、このくらいは育っていて当然でしょうね」

 彼はその塊に齧り付き、歯を立て、そして啜った。その途端、わたしの視界には火花が散った。

 そこには、永遠に知りえなかったはずの、深く強い快楽があった。呼吸もできないほどに喘ぐわたしを気に留める事もなく、彼はただ、わたしの負の感情を啜っている。

「私はこういったものを好むんですよ。他人の不幸や心の闇が、自分には癒しになる事ってありますでしょう?」

 確かに、そういう事はあるのだ。わたしだって、そうした創作に救われた経験がある。つまり彼は、わたしの負の感情を、闇を、引き受けてくれるというのか。

「綺麗にして差し上げますから、大人しくしていて下さいね」

 じゅう、と一際大きく吸い上げられ、その瞬間わたしは強烈な快楽に狂い、もっと、と叫び声をあげた。しかし彼は塊の半分ほどで、貪る事を止めてしまった。

「ここまでにしましょう」

「ぜんぶ、ぜんぶ吸ってください!」

「……人には、生きる為に必要な穢れというものもあるんですよ」

「それでもっ、それでもいいんですぅ!」

 わたしは強く訴えた。わたしはまっさらになりたいのだ。他人を傷付けてしまう感情など、欠片も残さずに捨ててしまいたいのだ。胎の底にある醜いものを、根こそぎ食らい尽くして欲しいのだ。

「責任は、取れませんからね」

 彼は呆れたようにそう言って、わたしの胎の底に溜まっていたものを全て、食った。

 このまま死んでもいいと思えるほどに、わたしの昂ぶりは止まらなかった。



 少し親しくなりかけていた女性作家の、連載小説の更新が止まって、今日で一ヶ月になる。

 最後に彼女の小説が更新された日の夜、私は彼女と交流ノートで会話を交わした。そのログは管理者である彼女の手で消されていて、私も会話の内容はぼんやりとしか思い出せない。

 だけどその日の私の夢に、彼女が出て来た事は覚えている。

 私がこの手で、彼女の胎の底にある負の感情を暴き、引き摺り出しては余さず食らう夢だった。

 おかげで少し、落ち着かない。何故なら夢の中の私は知っていたのだ、全てを食らえば彼女は生きていけなくなると。負の感情がなくなれば、自己防衛などできなくなるに決まっている。

 生きていれば、身勝手に「見捨てる」選択をする場面が必ずある。他人の不幸に心を痛め続けていれば、いつか必ず壊れると、本能で知っている。

 その感情を私に食らわれた彼女は、おそらく壊れてしまっただろうという予測が、目の前の更新されない小説と重なってしまう。

 その妄想に、私は図らずも興奮した――何故なら、あれは、私の夢だったのだから。


(了)

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そこにあるもの 水城しほ @mizukishiho

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