コンクリートの海

 つんと突き抜ける冷たく晴れた冬の日、私はモービィと出会った。


 背の高いビルが建ち並ぶ道路。その四車線道路脇の歩行者専用道路を歩くたびに、私は『コンクリートジャングル』という言葉を思い出す。見上げた世界は、写真に撮った空のように、ビルに切り取られている。田んぼの真ん中に位置していた中学校から見上げた空とは異なる世界だった。地方都市でさえそうなのだから、さらに都会に行けばもっとコンクリートジャングルだと実感するのだろう。知らない街の話だった。


 もう一度空を見上げる。呼吸をするたびに白い息がこぼれた。

 1月の空気は冷たい。電車に乗っている時は窓の外から射し込む光が暖かく、とろとろと束の間の微睡みのなかにいたが、一度外に出れば、冬の空気に包まれる。暖かい黒いダウンコートも、黒い毛糸のマフラーも付けているにも関わらず、つめたさがそろりと忍び寄ってきた。手袋も付ければよかったと後悔しても、遅かった。


 コートのポケットに両手を突っ込み、信号を待っている時だった。それまでと比べものにならないほどの強い風に背中から襲われる。黒い長い髪と、マフラーが連れていかれそうになる。視界を覆う、髪のカーテンのその先に、白い鯨が居た。


 私はマフラーを押さえるのも忘れて、その巨大な姿を眺めていた。ゆったりと身体を動かし泳いでゆく影は、鏡のようになった窓に映し出されている。ビルからビルへと移動しながら、進んでゆくその姿はやがて見えなくなる。

 青信号で動きだした人の波に飲み込まれて、はっと我に返った。慌てて周りを見回してみても、どこにも鯨は泳いでいない。周りの人々も、あの白い鯨の影を見ていないようだった。


 気のせいかもしれないとおもってはみたけれど、はっきりと見たあの姿を忘れることができなかった。白い鯨はうつくしい姿をしていた。



 受験生に夏休みは無い。

 これは、高校生の時の担任の口癖だった。その言葉の通り、夏休みには学校に行く機会と模試を受ける機会が今まで以上に増えた。私は塾に通っていなかったから、まだましな方だったのかも知れない。


「あっつい」

 そう言いながら、制服のブラウスの一番上のボタンをはずし、空気を送ってみても生温かい空気しか入ってこない。余計に暑さを感じただけだった。項に髪の毛が張りつくのが不快だった。


「しょうがないよ、夏なんだから。模試が終わっただけでもありがたく思おうよ、恵ちゃん」

 隣から暑さなんて関係ないような顔でそう諭す流花にふてくされた視線を送る。それからため息をひとつついて、そうだよね、と返した。二日間に渡る校外模試が終わり、珍しく午前中で帰ることができた日。クーラーの効いた居慣れない教室で何時間も閉じ込められるのと、暑い中を歩いて帰るのとでは後者の方が嬉しかった。


「でも、もっと駅に近いところが会場だったら良かったのに。いつもと違う会場で模試をやるにしても、もっと別な場所があるよね」

 高校が校外模試の会場に選んだのは、学校よりもさらに駅に遠い専門学校。大通りに面した立地のせいで、騒がしいのも難点だった。

「帰りに、アイスを食べに寄れるのはこの場所だからだよ」

 流花の返事に、私は納得するしかなかった。私たちが向かっているおいしいアイス専門店は、学校の帰りに寄るには周り道になってしまう場所にあった。しかし、今日は違う。会場になった専門学校と駅までの道の途中にその店は位置している。だから、ついでに寄ることが出来たのだった。


「流花、ひどい」

 流花の返事を認めたくなくて、そう呟いてみても彼女は気にする様子も見せない。私の愚痴に、前向きな理由を付けていさめるのはいつものこと。私がそれに納得したくなくて駄々をこねるのも。

「ほら、もう少しだよ」

 笑顔で信号の先にあるその店を指さす流花について横断歩道を渡ろうとした時。地面から湧き上がるような低い音と、そこから急に高くなる音を聞いたような気がして立ち止まる。後ろを振り返ろうとしたところで横から強い風が直撃し、思わずよろけてしまう。耳元で轟々と音がした。目を瞑りかけたその時、視界の端に斜め後ろのビルに映る、白い鯨の姿を見た。以前見たように悠々と窓ガラスの海の中を泳いでいく。さっきの声は鯨の鳴き声か、と思った時にはその姿は窓から外れて消えてしまっていた。


「ねえ、流花」

 鯨を見たかと尋ねようとして、流花に声をかける。しかし、こちらを見つめる不思議そうな表情を見て、慌てて口を噤む。彼女が何も見ていないことはその表情で分かった。

「どうしたの?」

「なんでもないよ、風にびっくりしただけ」

 咄嗟に誤魔化したけれど、頭の中ではまたあの鯨を見た興奮を引きずっていた。



 白い鯨は神秘的で恐ろしい。そう書いたのはメルヴィルだっただろうか。私は、あのコンクリートの海を泳ぐ白い鯨をモービィと呼ぶことにした。

 夏と秋のはざまの頃合。私は、初めてモービィと出会った場所に来ていた。様々なことが詰め込まれた日々から、少しだけ抜け出すために。


 そびえ立つビルの窓に映るのは青空と白い雲ばかりで彼は居ない。背の高いビルが立ち並ぶ通りを歩いてみる。ミュージックプレーヤーから流れる音楽の音量を上げると、外の音が小さくなる。内側に広がる静かな海の中に沈んでゆく。

 平日の夕方のせいか、周りの人はスーツを着た人が多かった。何かに追われるように速足で歩く人の中で、ひと際ゆっくりとした歩調で歩く。一人だけ取り残されているような感覚が心地良い。


「天気もいいし、気分転換ができただけで良しとしますか」

 周りに聞こえないように呟いてみると、なんでも良いような気持ちになってくる。風が、髪と洋服を巻き込んで吹き抜けてゆく。ふと、ビルの窓に目を向けると、そこにはモービィが泳いでいた。その瞳が、まっすぐ私の方を見つめている。黒くて丸い目は優しく厳しい。

 私の見間違いだったとしても、その瞳が笑いかけてくれたような気がした。それだけで、私には意味があることのようにおもえた。


――コンクリートの海を泳ぐ白い鯨。

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