海つ路のなぎなむ時も
図書館で借りた本を抱えながら、わたしはチェーン店のカフェに足を運んだ。店内に一歩足を踏み入れると、冷たい空気がわたしを包みこむ。背中に伝う汗も引いてゆく。
店内の隅に空いている席を見つけ、そこを陣取ることにした。端の席は好きだ。机から零れ落ちる何かを堰き止めてくれるような気がする。
カフェで注文に悩んだ時は、ソイラテにすると決めている。だから、いつものようにソイラテと桃のパイを注文し、借りてきた本を鞄から出した。ここでレポートを書く心積もりだった。昨年、必修であったこの授業の単位を落としたのが痛かった。卒業出来ないことだけは、なんとしても避けねばならない。
「くるみちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げる。こちらを見て微笑んでいるのは、同じサークルの久井さんだった。黒くて綺麗に伸ばしたロングストレートに白いワンピースがとてもよく似合う。ワンピースから覗く白い肌が眩しい。その外見を裏切るように、とても活動的な人だと知っている。社交的過ぎて苦手意識が拭いきれないけれど、不思議と話をすることも多かった。
「相席しても良い?」
向かいの空いている席を指差しながら彼女が尋ねた。二人がけのテーブル。わたしは渋々というように頷いた。
「レポートを書いていてもよければ」
そんなことは構わないというように久井さんは腰掛ける。
「大丈夫。わたしも、やりたいことがあるから。くるみちゃんなら、一緒に居ても、話をしなくても大丈夫だろうと思って」
屈託のない笑顔でそれを言う彼女のことが妬ましかったし、同時に安心もしていた。彼女は、わたしと同じ、ひとりで居れる人なんだとおもう。一緒に授業を受ける友人も、ご飯を食べに行く友人も居るけれど、わたしにはどうしてもひとりで居たい時がある。ずっとだれかと一緒に居るのが、ひどく苦手だった。
わたしはふと、高校時代のことを思い出した。
仲の良かったあの子は元気だろうか。わたしは、彼女が本を読んでいるところを見るのが好きだった。背筋を伸ばして、片方の髪を耳にかけて、少し口を尖らすようにして本を読む彼女が。
彼女はわたしが居ても居なくても構わないように、よく隣で本を読んでいた。わたしもそれで構わなかった。
「くるみちゃんは、幸せだね」
あれも、図書館の帰り道だった気がする。
そう、雨が降っていた日。いつもは自転車通学のわたしたちは駅までの距離を歩いて帰っていた。傘から差し出した手のひらを、雨がうつ。衣替えしたばかりの半袖のシャツから伸びた肌にも、雨が汗のように張り付いて、気持ち悪かった。なんの拍子か、世永伊都は呟くように言った。わたしはその言葉を受け止めきれず、落としてしまったのだ。地面に転がったその言葉たちは砕けてしまったように思えた。
「伊都?」
立ち止まったわたしは、彼女の名前を弱々しく呼んだ。親からはぐれてしまった子どもが泣くように儚げに、声が掠れてしまう。名前を呼ぶ以外の返答をわたしは持ち合わせていなかった。
比較的、表情の変化が薄い彼女がいつも以上に無表情でこちらを見ていた。
傘を差している分、わたしたちの間には距離があったし、それ以上に心の距離が開いていた。伊都は静かに背中を向けて走り去る。その拒絶を、わたしはぼんやりと眺めることしかできなかった。
「くるみちゃん」
わたしは咄嗟に自分がどこにいるのか思い出すことができなかった。目の前で心配そうにこちらを覗き込んでくるのが大きく丸い黒い瞳。伊都ではない。
「久井さん?」
間違えずに名前を呼ぶと、安心したように久井さんが深く息をついた。
「黙って固まってしまうから、びっくりしちゃった。大丈夫? 血の気が引いたような表情をしているから、不安になって」
ひどい表情をしていることは想像がついた。彼女は大切な友人だと今でも思っているし、わたしの大切な思い出ではあるけれど、それをまだ受け止め切れないでいる。
「ごめん、ちょっと思い出したことがあって、それで」
口の中が異様に乾いて、粘り気を持っていた。かさつく唇を、ぺろりと舐める。手元のガラスのコップから、からりと氷が落ちる音がして、飲み物があったことを思い出した。ストローに口をつけると、ぬるくなったソイラテが口の中を潤してゆく。
「くるみちゃんは、空を泳ぐ白い鯨を信じる?」
唐突に久井さんが尋ねた。しろい、くじら。なにを言っているのか分からないと答えようとしたところで、わたしは同じことを聞かれたことがあったような気がしたことをおもいだす。高校生の頃の記憶に引きずられるように、意識の底に沈みこんでいた。
「鯨を見たことある?」
学校帰りに、電車に揺られながら伊都は聞いた。わたしたちは一緒に居ても、話をしないことも多い。その日も、伊都は黙ったまま、たっぷり窓の外の風景を眺めた後に口を開いた。
「くじら?」
思い浮かぶ鯨の居る風景は間違いなく写真やネットで見た映像だ。小さい頃に通った水族館にも、イルカは居ても鯨はいない。
「そう、白い鯨。とても、綺麗だったから一緒に見れたら良かった」
伊都が、ときおり見せる笑顔はとても可愛いから、いつもそうしていれば良いのに、とわたしはおもう。その時、伊都はどこで鯨を見たのか、なにがあったのか教えてはくれなかったけれど、わたしはそれでも良いと思ったのだった。だって、彼女があんなにふわりと笑うのだから。
「空を泳ぐ白い鯨って?」
あの時、伊都が見たものを彼女は知っているのだろうか。
「そのままの意味。空を泳ぐ白い鯨。ね、信じられる?」
久井さんの表情は冗談とも真面目な話とも取れるような顔をしていて、どういう意図があるのか読み取ることができなかった。わたしはただ、彼女のことをただ見つめていた。
「わたしは、信じると思う」
彼女が見たのが、空飛ぶ鯨の話なら、わたしはきっと信じたいとおもう。
少しだけ、残念そうな表情をして久井さんはそっか、と呟くように言った。そして、唇を一文字に結ぶと、ぷくぷくと小さく頬を膨らませたり引っ込めたりしはじめた。久井さんは時折、そのような表情をする。それは、何かが欲しい時と、何かを言いたい時。
「なあに?」
そっけなくなり過ぎないように、わたしは彼女に問いかけた。うたうように唸っていた久井さんが口を開いた。
「くるみちゃんは、進学校だったっけ?」
わたしは県内で有数の進学校に通っていた。その学校を選んだのは、同じ中学に通う人たちと離れたかったから。だから、わたしは友達と逆へ向かう電車に乗り、海の近くにあるその高校へ通っていた。
「そう。でも、勉強ばかりじゃない、自由な感じのところだけど」
そうなんだ、と気のない返事をする久井さんの様子を観察する。聞きたいことは恐らくもっと違うことのように思えた。
「クジラの話をしてくれた友達が同じ学校に通っていたから、もしかしたら知ってるかもしれないと思って」
今度はわたしが気のない返事を返す番だった。十クラスもある同じ学年のうちの一人を知っている可能性は低いような気がした。なにより、わたしは社交的から程遠い、友達が少ないタイプの学生だった。
「世永伊都、だよ」
抑揚のないその声は、言葉が重た過ぎて沈んでいきそうだった。息が止まるような錯覚に囚われる。なにも言えないわたしを見て、彼女はもう一度繰り返し、ゆっくりとその名を呼んだ。だから、わたしは彼女の名を呼ぶ。
「久井さん」
「彼女、私の家に住んでいたことがあったの。あなたの名前、時々出てたから、もしかしたらってずっと思ってた」
確かに伊都がわたしの家に遊びに来たことはあっても、彼女の家に遊びに行ったことはない。親戚の家に居るからと言っていたことを思い出す。
「わたし、あなたのこと知ってるよ。周りの人から伊都を遠ざけて孤立させようとしていたことも」
わたしは聞きたくないと言うように首を振る。違う、それは違う。
「伊都が言いたくなさそうだったから、周りのひとに聞いたの。あなたはそういうつもりじゃ無かったかもしれない。けれど、周りから見たらそういうことでしょう?」
違う、そんなことはない。そうじゃない。だって、伊都はわたしと一緒に居てくれた。
「伊都は、」
潰れそうなわたしの声をかき消すように隣のテーブルでどっと笑い声が起きる。わたしは、ぬるいソイラテを啜った。
「伊都は全部分かってたと思うよ。くるみちゃんがしてたこと」
くるみちゃんは幸せだね、と告げた伊都はその後、なんて言いたかったのだろう。もう知るすべはない。
彼女の隣にいるのはわたしで居たかった。だから、彼女が遊ぶ時はいつでも一緒だったし、割り込むようにして会話に入ることも何度もあった。次第に彼女のことを誘う人は減っていった。彼女はわたしの特別だった。
「伊都は、家を出て行く時、あなたのことを心配してた。最後に喧嘩別れみたいになってしまったからって。正直に言えば、わたしは自業自得だと思っていたけれど」
久井さんは淡々とわたしと彼女のことを語る。
「わたしは違う。そんなこと」
彼女は首を振って、それを遮る。
「あなたはそう思ってなかったかもしれない。でも、伊都はそう思っていた」
違うと、聞きたくないと子どものように耳を塞いでも、隙間から彼女の声がわたしを追い詰める。ただ、わたしは一緒に居たかっただけだった。伊都を苦しめたかったわけじゃ無かった。
「白い鯨はね、わたしも一緒に見たの」
空を泳ぐ鯨の話を、当然のように久井さんは話し始める。何が言いたいのか分からなくて、わたしは彼女の顔色を伺うように頷いた。
「雨上がりに見上げた空に、静かに泳いでいた」
目の前にその風景が広がっているみたいに、宙を見ている久井さんの瞳が優しく細められる。
『一緒に見られたら良かったのに』
伊都の声が耳元で蘇る。彼女は全てを知っていて、それもわたしを受け入れてくれていた。本当は分かっていた。わたしはとてもちっぽけで、だからこそ好きなものを独り占めしたかっただけの幼い子どもだったこと。
「伊都はあなたに見せたいと言って笑っていた。あの笑顔は嘘じゃないと思う」
彼女は何かを考えるように言葉を区切る。そして、ぽつぽつと言葉が零れ始めた。
「あなたにこの話をしたのは、本当はわたしの自己満足なの。あなたが今こうしているのを見ていると何か言いたくなって」
久井さんが少しだけ俯くと、髪の間から見える耳の先が見える。それが不思議と唇を突き出すように本を読む伊都の姿と重なった。開いた本のページが一枚自然とめくれる。
「伊都は今はどうしているの」
その質問に関しては、彼女は困ったように眉を寄せた。
「分からないわ。伊都とはもう連絡が取れない。彼女は白い鯨の居る海に戻ってしまったから」
その返事を理解することができず、首を傾げたけれど、久井さんはそれ以上の説明はしてくれなかった。白い鯨の居る海に戻った、とその言葉を忘れないように、わたしは丁寧に伊都が笑う記憶と供に心の宝箱の中にしまった。
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