時には昔の話を


 何かに導かれるように、彼は泳ぎ進んでいた方向を僅かに変える。それまで進んでいた道からわずかに右に逸れるように身体を捻るように動かす。彼はその方向が正しいと分かっていたし、理解していた。

 なぜかと聞かれるとしたら、その時が来たから分かるのだと、彼は応えることしかできなかった。


***


 風に乗って、歌が聴こえたような気がして、悠は顔を上げた。その声はそれまで聴いた中で一番長く、寂しく響く。明るい部屋から覗く窓の外は夜が広がっていた。すっと立ち上がると、薄手のカーディガンを羽織る。

 家を抜け出し、夜の帳をすり抜けて、近くの公園に向かう。街灯に照らされたジャングルジムのてっぺんに人影が見えた。見覚えのある背中のラインに声をかける。


「なんだ、来てたのか」

 長い髪に隠れて顔の見えなかった少女がこちらを見下ろす。もうすぐ日を跨ごうとしている時間にもかかわらず、制服を着ているところを見ると、放課後からずっとそうしていたのかもしれなかった。

「もしかしたら、最後かもしれないとおもって」

 悠はそれには答えず、ジャングルジムを登り始める。小学生の時には大きく思えたジャングルジムが高校生の悠には小さく感じる。

「そうだな」

 みずきの隣に腰をかける。幼馴染の少女が、膝を抱えて座る様は小さく見えた。隣に座るのも何年ぶりだろうか。まともに会話したことも久しぶりに思えた。


 少女は小さい頃から、周りのものを良く見ていて、様々なものに気がつく子どもだった。幼稚園のころ、鯨が空を泳いでいるのに気がついたのはみずきだった。悠は、少女が興奮気味にその発見について話してくれるのを聞くのが好きだったし、何より二人だけの秘密のようで嬉しかった。もう、十年近く前の話。


「よく分かったな」

 空を泳ぐ鯨、ルーの最後に気がついたのも当然のようにみずきの方が先だった。

 暗黙のように決まっていた、同じクラスでもほとんど話をしない同級生の幼馴染というポジションの、その均衡を崩したのはみずきだった。慌てたように落ち着かないような表情で、悠に話しかける。


『たぶん、ルーとはもう会えないかもしれない』

 久しぶりに近くで話をした幼馴染みから聞いたのは懐かしい名前。ずっと会話にすら上らなかったその名前はすっと耳に馴染んだ。それと同時に悠には何を言われているのか理解できなかった。今、こうしてジャングルジムの上で空を眺めていても、半分は信じきれずにいる。


「なんとなく。ルーがそう教えてくれた気がした」

 何が、とも何をとも言わなかったが、みずきは悠の言いたいことを感覚では理解していた。ルーと話ができるわけではなかったが、みずきは不思議とルーの言いたいことが伝わることがあると言う。

 そうか、と悠がすこし寂しさを滲ませた声で返すと、みずきがそっと手を重ねた。感じたぬくもりに驚き、咄嗟に振り払おうとするのを思いとどまる。


「寂しくない。ルーはたくさんの思い出を残してくれたから」

 幼い頃とは違い、口数の少なくなった少女が慰めようとしてくれるのを感じる。照れ隠しのように空を見上げると、すっと星が流れた。思わずみずきに顔を向けると、少女も悠の方を見ていて顔を見合わせる形になる。先に、少女の方が微笑んだ。それにつられるように悠も小さく笑った。

「きれいだな」

「そうだね、良かった。こんな夜で」

 ルーとの別れの夜は星降る綺麗な夜で良かったと彼らは思った。


***


 ふと、懐かしい気配を感じて、シエルは空を見上げた。足元に広がるカナイの葉が南の風に吹かれ、さわさわと揺れる。結わえた髪の毛も掠われていく。太陽の光が目に入らないように手を翳しながら、彼女は黙って空を眺めた。その感覚が正しいならば、急いで村に戻らなければならない。


「前に来たのは何年前だったかねえ」

 その声に気がついたのか、近くで遊んでいた子どもがカナイの葉の間から顔を出す。やっと五つを数えるようになったばかりの彼女の息子。

「おかあさん、何か怖いのくる」

 普段はくりくりと黒い目を輝かせている少年が、怯えた様子で母親と同じ方向を睨みつけるように見つめていた。それを見たシエルは、間違えていなかったのだと確信する。恐らく、最後の渡りになるだろうと彼女はまだ姿の見えない影に向けて心の中で囁いた。


「大丈夫。怖くなんかないの。お母さんと一緒にシレーヌさまのところに行こうね」

 彼女は息子の手を引きながら、赤い屋根の石造りの家を目指した。


 北の外れに位置する土地は砂地で、植物もろくに育たない貧しい村だった。砂地でも僅かに採れるカナイを育て、主食として日々の糧とする暮らし。しかし、彼らには大切な役割があった。南から泳ぎくる鯨を無事に渡らせなければならない。そのために彼らはこの土地に住み、一生を遂げる。その村の中で特に大切な役割を担うのがシレーヌだった。

 シレーヌは代々受け継いで行く名前であり、身分でもあった。今のシレーヌも、母親から引き継いでいる。


 シエルは、シレーヌと並んで立っていた。夕日に染まる空のような茜色がかった金色の髪が胸のあたりまできれいに伸びているのを、シエルは少し羨ましく思う。手を伸ばせばその柔らかそうな髪に触れられそうだった。黒地のコートを羽織っているせいか、よりその髪の色が輝いて見えた。


「ありがとう、シエル。もうすぐね」

 見晴らしの良い広大な砂地の、青過ぎる空の下で、二人は立っていた。ぱたぱたと風に煽られて衣服がはためく。遠い空の向こうから白い塊がこちらに向かって進んでくる。それをシエルたちは待っていた。


 シエルがまだ彼女の息子と同じくらいの年齢だった頃、初めて渡りを見た。お腹の中をなにかに掴まれたような衝撃を未だにそれをシエルは忘れることができない。鯨の儚さと雄大さ、ただただ、彼女はうつくしいとおもった。その時は、物陰に隠れてこっそりと覗いていたが、今はシレーヌの隣で送る側として、あの空を泳ぐ鯨を見つめていた。


「来ましたね」

 ひどくゆっくりとした速度で進んでいるように見える鯨を眺めながらシエルは呟いた。白い鯨はもう少しで彼女たちの元まで辿り着く。

「それでは始めましょうか」

 シレーヌはコートを脱ぐ。下に着ていた衣服の背中から小さな翼が生えていた。シレーヌの証はその翼だった。普段は飛ぶことも叶わないその翼は、ある時だけ空を飛ぶための器官に変わる。それが、渡りの時だった。


 この場所に最初に移住してきたひとは、背中に翼は生え、鳥の足を持っていたという。空を飛ぶはずのものだったそれは、次第にその意味を無くし、存在も無くし、今ではこの村の中でもシレーヌと呼ばれるひとびとだけが代々それを受け継いでいる。そして、今代のシレーヌもまた、先代たちと同じように風を待つ。そして、吹き抜ける風にふわりと乗った。先ほどまで、空の飛び方が分からないと困ったようにしていたのが嘘のように、堂々とした様子で浮かんでいく。ゆったりと背中の羽を動かし、空を渡る。


 シレーヌは鯨に近づくと、何かを告げたように見えた。そして、更に奥の方を指し示す。その方向に、鯨が渡るための扉があることを彼女は知っていた。村の人々が守ってきた、鯨が抜けるため扉。それがどこに続いているのかは誰もしらない。便宜上、扉や入口と呼んではいるものの、実際に見ることもできず、どうなっているのかを知る者もない。ただ、渡りに必要になったときだけ、その扉は意味を為し、どこかへと通じるのだという。

 シレーヌは鯨と供に扉の方へと向かう。シエルはその光景を静かに見つめていた。


「綺麗だなあ」

 小さい頃に見た記憶と、その光景が重なる。あの時も今も、その姿は輝いて見えた。いつまでも色褪せることの無い、記憶。

「どこに行っちゃうの?」

 後ろから声がかかり、はっとして振り返ると、家に置いてきたはずの息子が鯨を見つめていた。黒くまあるい瞳をきらめかせて、熱心に見つめる様子が、小さいころの自分を見ているような心地にさせる。

「フリュイの家に居てと言ったでしょう?」

 シエルは、血は争えないことに、僅かに苦笑いを浮かべながら手招きをする。戸惑っていた彼も、シエルの隣に並んだ。シエルは視線を息子に合わせるように屈む。小さな身体を後ろから抱きしめるように、ふたつの手を握りしめる。内から沸き上がる興奮を現すように、掌があたたかい。

「みんなが寝てしまったから、つまらなくなって抜け出してきたんだ。ねえ、お母さん、あれが物語の中に出てくる鯨? どこに行くの?」

「ヴァンの言うとおりよ。どこに行くか見ていましょう。でも、約束して。お母さんとヴァンの秘密にしておこうね」

 わかったと頷くと、二人は空を泳ぐ鯨を眺めた。もう少しでその時だと、シレーヌが離れたことで分かる。真っ直ぐ進んでいた鯨は先端から次第に虹色の光に包まれる。全身が輝いた時、ふっとその姿を消した。シエルは目を閉じ、両手を空に掲げ祈る。扉の向こうにはすでに渡った鯨たちが待っているという。そして、その仲間たちの群れの中で安らかに過ごすのだ。その安寧の日々が永遠に続くことを彼女たちは祈った。


「あら、困った子が居るものね」

 上空から声と供に降り立つ気配がして、シエルは目を開けた。ふわりと、髪の毛が掠われる。目の前にシレーヌが立っていた。

「申し訳ありません」

「わたしは構わないわ。ねえ、鋏を取ってもらえる?」

 シエルは脇に置いた鞄から用意しておくように言われた鋏を取り出した。渡そうとすると、どさっと重たい物が落ちる音が響く。視線を向けると、シレーヌの背中から小さな翼が落ちていた。驚いて見上げると、シレーヌ自身はどうということもないように、コートを羽織り直している。最初から、そうなることが分かっていたようだった。

 ヴァンは近寄り難そうにシエルの背後に隠れ、顔だけを覗かせ、興味津々に眺めている。シレーヌはなにも言わず鋏を受け取ると、長い髪を肩ほどの長さに切り始めた。


「シレーヌさま」

 シエルの声には答えず、ただ鋏を入れ続ける音が響く。

「明日で十二歳になる。その前に渡りが来て良かったと思ったんだ。俺もそろそろこの格好は終わりかなと思って」

 一度渡りが終わるとシレーヌとしての役目は終わる。渡りが終われば翼が落ち、次のシレーヌにその代を譲っていく。

「お姉ちゃん、背中痛くないの? 髪の毛も切っちゃうの?」

 ヴァンが顔だけを覗かせるようにしながら尋ねる。上目遣いでまあるい目をシレーヌと羽の間を行き来させている。シレーヌは髪を切り終え、鋏をシエルに返しながら膝立ちになった。

「痛くないよ、ありがとう。髪も、もう必要がなくなったから切ってしまうんだ」

 ヴァンの顔を覗き込むように答えるシレーヌの姿にシエルは不思議な気持ちになる。先ほどまでのシレーヌと同じ人物には思えなかった。顔つきも口調も端々の動作までも少女から抜け出したようだった。


「それに、わたしはお姉さんではなくて、お兄さんだから」

 笑って告げるそれに、ヴァンは驚いたようにシレーヌを見つめた。

 シレーヌは男性でも女性でもその役目を継ぐ可能性がある。しかし、シレーヌは女性として存在しなければならない。だから、もし男性でシレーヌを受け継ぐ場合は少女としてその役目を全うする。十二の誕生日が来るまで。シレーヌだった、役目を終えた彼は、少女としての生を終え少年へと姿を変える。

「お務め、ありがとうございました」

 シエルはシレーヌのことを思い、胸を詰まらせた。それは畏敬とも哀れみとも似た不思議な感情だった。

「無事に渡れて良かった」

鯨の消えた方角を見やりながら、彼は実感とともに呟いた。


***


 突然、その鯨は二人の前に現れた。悠は咄嗟にみずきの手を握る。白い身体が夜の中に輝いて見えた。星の海を泳いでいるようだった。ジャングルジムの上の彼らをちらりと見たように思えた瞬間の後、現れた時と同じように、再び姿を消した。二人は顔を見合わせ笑い出した。


 これが最後ではあっても、最後ではないことに、二人とも理解したのだった。彼らは離れていても、全ては繋がっている。

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