空を泳ぐ魚の仔


 それはまだ、人と動物との境界が曖昧だったころの話。



 ぐるりと、彼女の視界が回転する。空から海の底へ。青から碧へのなかへと流れてゆく。

 上半身はひとの姿をした少女は足の代わりに腰から下には魚の鱗が覆い、先がヒレになっている。それを使い、くるりと回る泳ぎ方をするのが彼女は好きだった。くるりくるりと世界が回って、見えるものが入れ替わる。そのうち、彼女自身も空を飛んでいるのか海の中を泳いでいるのか分からなくなる感覚が好きだった。


「また、くるくる回ってるのね」

 そうお姉さんたちに笑われても、愛情のこもった笑い方だと分かっているから、彼女は気にならない。夕焼けの空の色を連想させるような橙色のヒレを動かして泳いで回った。疲れると、ぽかりと海から顔を出して漂う。灰色に近い黒い髪の毛が海藻のようにまとわりつく。


「疲れた?」

 ふわりと彼女の近くに、背中から足にかけて鳥のように羽毛で覆われた女性が飛び降りてきた。暗い黄色のあしゆびの先が海に触れている。

「そう、お休みしているところ。ねえ、触ってもいい?」

 翼をゆっくりはばたかせ、その場にとどまっている女性に向かって、返事も聞かず少女は手を伸ばす。白い指先で趾にそっと触れた。少女はその感触が大好きだった。


「ねえ、〈花〉、擽ったいよ」

 彼女たちの言葉で花を意味する少女の名を彼女は呼ぶ。彼女が〈花〉の名前を口にするときの、その響きが好きだから、もっと呼んで欲しくなる。誰とも違う愛おしさを、少女は感じるのだった。

「もう少しだけ、触ってたい」

 そうやって、少女は甘える。本当は背中の翼にも触れたいし、付け根にある窪みに顎を乗せることだってしたいと思うけれど、ほんの少しだけ我慢する。しかし、彼女の方は触られる感触に耐えるようにもぞとぞと身体を動かしながらそれを断った。

「いつもそう言う。今日はおしまい、また今度」

 そうして彼女は、少女の指が離れると軽々と上昇する。土色の髪と羽毛が太陽の光を浴びて透き通って見えた。


「また、遊びにきてね、〈雫〉」

 少女は、〈雫〉の名を持つ彼女に手を振った。〈雫〉も、一振り手を動かすのが見えたから、少女はその何倍も大きく振り返す。彼女が仲間と合流し、その姿が小さくなるまでずっと空を見つめていた。本当は、少女も一緒に生きたいのだ。空を飛べるなら。彼女と一緒にどこまでも飛んで行きたかった。

「わたしにあるのは、この足だもの」

 時々それが疎ましくて、〈雫〉の仲間が羨ましくて仕方なくて涙がこぼれそうになる。しかし、そのようなことを彼女に知られたくはなかった。


「お姉さまたちのところに戻らなきゃ」

 傾けかけた夕日の空を少しだけ眺め、彼女の消えた南の方をちらりと見た。何も無い空が広がっていることにわずかに安堵の笑みを浮かべ、少女は海の中へとかえる。


 水の中は静かで優しく少女のことを包む。目指すのは、〈花〉の名をつけてくれた少女の家族たちのもと。彼らは海の底や、ぽっかりと空いた穴の中や珊瑚の中で暮らしていた。海の中は鮮やかだった。色とりどりの生き物と、植物がくるくると踊っている。小さな魚の群れが大きな波のように少女を絡め取る。

「やだ、どうしたの?」

 大きな目を更に大きくして、困ったようにそれに答えた。

「探していたよ」

「〈凪〉が困っていた」

「行ってあげて」

 囁くような声が少女を包み込み、数匹の魚が方向を教えるように、その群れから離れて漂い出る。上から差し込む光に照らされて、キラキラと銀色に輝いていた。

「ありがとう。行ってみるわ」

 囁き返すように少女が返事をすると、彼女を中心として渦を作るようにぐるぐると魚たちが回る。何度か回った後、すっと少女から離れてまた自由に泳ぎ始めた。それを〈花〉は軽く手を振って見送る。やわらかい眦が海の中に溶けていく。


「〈凪〉はどうしたのだろう」

 教えてもらった方向へすいとヒレで一蹴りして進む。そのまま、流れに身を任せるように考え込む。

「今日は約束をしていないし、何か困ったことでもあったのかしら」

〈凪〉はいつだって優しくて、困ったことをたくさん抱えてこんでしまう。しかし、そういうところも含めて、彼女は〈凪〉をいとおしいと思っていた。

 ふわりふわりと、舞うように流れていく海に咲く花びらを追いかけながら彼女は〈凪〉を探す。彼は、白い身体を海に浮かせて流れていくところだった。少女は水中を強く蹴り出し、勢いよく〈凪〉のところまで駆け抜けた。


「探したのよ」

 少しだけ強い口調で話かけると、彼は重たそうに目を開ける。そして、彼女を視界に収めると、身を震わせる。

「どうしたの?」

「探していたんだ、〈花〉」

 少女は腕組みをしながら彼の正面に回り込む。そして、その先端に触れながら、少女は答えた。

「そう教えてもらったの。なにかあった?」

 白い鯨は、少しだけ寂しそうに、その答えを探すように黙り込む。そして、沈んだ言葉の中から浮かび上がってきたものだけを呟くようにぽつり、ぽつりと話しはじめた。


「ずっと、空を飛びたいと言っていただろう」

 少女はその問いに強く頷く。彼女は、〈雫〉に憧れて、空へ憧れて、いつか同じ場所に立ちたいと願っていた。彼女たちは、冷たい空気が風に混じりはじめた頃、暖かい住みよい場所を求めて旅立ってしまう。それは、少女にとって胸が苦しくなる日々の始まりで、一日でも早く暖かくなって彼女が戻ってくるのを待ち望んでいた。

「だからね、君が空へと泳ぎだすのを手伝ってくれる人を見つけたんだ」

 やさしい眼差しを鯨は〈花〉に注ぐ。相対する少女は、告げられた言葉を理解できない表情で〈凪〉を見つめていた。

「なんて?」

「君も空を飛べるようになるよ。海には戻れないかもしれないけれど」

 ひどく寂しそうな声音で付け加えられた最後の一言を、敢えて聞かずに少女はその願いを叶えてくれる友に抱きついたのだった。嬉しそうに頬を染める少女のことを、彼は満足そうに見つめた。本当は空になんて行って欲しくは無かったから、この話を伝えるかどうかもとても悩んだ。けれど、結局、喜んでくれるならと伝えることに決めた。それが間違いでは無かったと、彼は自分の中でなにかが軋む音を無視する。〈花〉が彼の周りを楽しそうにくるくるとまわっていた。



 その人の元を訪れたのは、それから数日後のことだった。〈魔女〉と呼ばれるその少年は、海から顔を出した少女と鯨に対するように、崖の上に立っていた。色の抜けた銀色に近い色をした柔らかそうな髪が太陽を浴びて光る。乾いた土のような色をした瞳が静かに少女たちを見つめていた。

 きれいなひとだと〈花〉は〈魔女〉の姿を淡い視線で眺める。

「空の世界に行きたいひと?」

 高い声で歌うように言葉が紡がれる。少女は質問されたと認識できず、反応が遅れてしまった。それを、〈魔女〉は気にも止めず、再度問いかける。


「あなたが、空を泳ぎたいさかな?」

 子どもに尋ねるようなやわらかい言葉に、少女は恥ずかしそうに頬を染める。そして、気を取り直したように力強く頷いて見せた。

「そう、空を泳いでどこまでもいきたいの」

 彼女の瞳はきらきらと、遠い空を飛んでいるひとを見つめていた。少年は首から下げた石をくるくると弄りながら、何かを考えるように〈花〉を見つめていた。青い透明なその石は海の色を写したようで、〈花〉にはその青さが印象に残った。

〈魔女〉はゆっくりと頷くと、そうだね、と静かに告げた。それはまるで、少女にとっては最後の宣告のように重々しく聞こえた。


「空を飛べるようしてあげる。正確には魚だから、空を泳げるように、だけど」

 少女は胸の一番奥の方で何かが溢れ出すように身体を震わせる。思わず零れた涙を拭うこともできず、彼女は自分の身体を抱きしめた。ずっと願い続けて、諦めていたことが叶う日が来るのは、想像以上に嬉しかった。

「ありがとう」

 やっとの思いで絞り出すと、静かに〈凪〉に寄り添う。頭をその白い身体にくっつけると、彼は小さく身体を震わせた。


「一つだけ、条件がある。もし、海に戻りたいと思った時は、その空を泳ぐ力を誰かに譲らなくてはいけない。空を飛ぶことができない何かに」

 ゆっくりと〈魔女〉は条件を告げる。それは、言い含めるように、しっかりと伝わるように重々しい響きをしていた。

「分かったけれど、大丈夫。わたしは、ずっと空を泳いでまわるから」

 純粋にきらめくその瞳に、〈魔女〉の少年は眩しいように目を細めた。そして、軽く頭を振りながら長く息を吐く。ふわふわと揺れる髪の毛がその表情に対して明るく輝いた。

「分かってもらえたなら良いんだ。もう、空を泳げるようにして良い?」

 待っていたと言わんばかりに、少女は力強く頷く。そして、白い鯨から離れると、〈魔女〉の方に近づいた。一度だけ、海の中に肩まで沈む。太陽に照らされた肌に冷たい水が心地よかった。


「これを、あなたに」

 少年が首から下げていた石を取り、少女に差し出す。彼女が海の中から手を伸ばすと、弧を描くように投げ込んだ。少女がそれを両掌で包み込むように受け取る。〈花〉の手の中で、その石はきらりと輝いた。

「首から下げて。そして、これを」

〈魔女〉は次に苦しそうに心の臓の辺りを抑える。額から汗が零れ、白い肌に髪の毛が張り付き、瞳はうるんでいた。それは、衣服からではなく、直接身体の中から生まれ落ちたように見えた。透き通ったコロンとした石のようなもの。それは〈魔女〉の掌の中で、内側から光を放った。〈魔女〉が放り投げたようには見えなかったにも関わらず、ふわりと浮き上がり、〈花〉の方へと向かってくる。

 少女は戸惑いを隠せないまま、その光を受け入れた。光はくるりと周りを一周したかと思うと、腰の辺りから彼女の中に入る。痛いとも苦しいとも思わなかった。ただ、その光が体内に入った途端、海の中に居ることへの違和感が沸き上がる。その気持ちはずっと止まらない。


「もう、空へ飛び上がれるはずだよ」

 彼女の様子を見守っていた少年が声をかける。その声を合図にしたように〈花〉の身体が浮かび上がる。目を丸くして周りを見渡してみるけれど、確かに彼女は水面から顔を出す〈凪〉の少し上に浮かんでいた。

「見て! わたし、飛んでる」

 海の中で良くするようにくるりと一回転をしてみる。ヒレの動かし方は海の中に居た時と変わらない。

「ありがとう」

 抱きつかんばかりの勢いで彼女は彼の元へと泳ぎ寄る。そして、その両手を取った。滑らかなその手は温かかった。

「絶対忘れないで。海に戻りたいときには、首にかけた石と身体の中へと入った魔法を誰かに譲るって。絶対に」

 優しそうな瞳をしていた少年は、このときだけは鋭く真剣だった。少女はその勢いに負けるように頷く。それを見ると、少年は安心するように深く頷いた。


「あなたに幸多きことを」

 魔法というより、それは呪いだけど、と飛出しかけた言葉を飲みこみ、少年はにこりと微笑む。いといけな子どもの表情をしていた。空を泳ぐ魚になった少女は彼に微笑み返し、白い鯨に見送られながら空を泳ぎ去る。

 寂しそうに、瞳を潤ませて彼はそれを見送った。



〈凪〉は半分だけ意識を浮上させて、身体を海の流れに任せていた。身体の半分が眠っている。もう半分で、少し前に空の魚となった少女のことを考えていた。あれ以来、〈花〉とは会っていない。もうすぐ、彼らの渡りが始まるだろうということは分かっていた。それならば、少女とも出会えるのは暖かくなってからだろう。

 少女は、家族に散々反対された挙句に彼らの元から離れ、一人〈魔女〉のところへ向かったと、〈凪〉は親しい〈花〉のお姉さんから聞いた。それを知った時は、〈魔女〉のことを教えた自分が悪かったのだと責めた。


「〈花〉が決めたことだから、そんな顔をしないで」

 そう告げて、そっと触れてくる〈汐〉は諦めたような表情をしていて、その様子を思い出すと身体の奥が痛くなった。

「うまくやっているだろうか」

 呟いた言葉は海の泡となって、上へと登っていく。その時、名前を呼ばれたのを彼は聞いた気がした。眠っていた半分の意識が浮上してくる。


「ねえ〈凪〉。聞こえる?」

 上から降ってくるその声は懐かしい響きをしていた。彼は尾ひれを海底、顔を海面に向けていたので、そのままそっと顔を出す。そこには、空を泳ぐさかなが涙を溢れさせながら海を覗き込んでいた。垂れ下がる長い髪が海面に浸かっている。濡れたところから、濃い色に変わる。それは今とは違う海にいた頃の彼女の髪の色だった。


「ああ、良かった。気がついてもらえないかと思ったの」

 ヒレを空へ向け、顔を海へと向ける彼女はまるで、空の底に足をつけているようにも見えた。涙が雨のように零れる。〈凪〉に会えたことで、我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出していた。

「なにか、あった?」

 ただ泣きじゃくる少女は、声も出さずに何度も頷く。〈凪〉は取り敢えず、少女に海面を離れるように指示し、海に潜っていた身体を海へと浮かび上がらせた。そして、少女に座るように促す。それは、昔から少女の特等席だった。

「ありがとう」

 ひどく聞き取りにくい声で彼女は言った。彼は、別に構わないと、うんと頷く。それよりもむしろ、何があったのかが気になった。


〈雫〉と何かあったわけではないだろうと、彼は思う。彼女は付き合いづらいところがあったが、思いやりに溢れていることは知っている。ふるりと瞼を揺らし、泣いていた少女から涙が零れきるのを待つ。少し落ち着いた頃に声をかけた。

「なにがあったんだ?」

 少女は落ち込んだような顔をしていたが、つんと黙り込んでしまう。しばらくの後、思い切ったように顔を上げた。口を開きかけた時、空から声が降ってくる。


「ここに居たんだ〈花〉。探したよ」

 羽ばたく音もせず、静かに〈雫〉が舞い降りた。〈花〉はその声に俯いて答えた。ただ、なにも言わずに小さくなる。

「なにがあった?」

〈花〉ではなく、〈雫〉に声をかけてみる。しかし、〈雫〉は小さく首を振るだけだった。

「まだなにも話していない?」

 少女に問いかけると、俯いたまま少女が小さく頷いて見せる。その様子に〈雫〉は小さくため息をつくと、〈凪〉の視界に入る位置に回り込む。

「ごめん〈凪〉。〈花〉の話を聞いてあげてほしい。わたしでは、どうにもできなかった」

 影を帯びた瞳で、湿度の含んだ声で彼女はそう告げる。わかった、と答えると弱々しい笑みを浮かべた。

「わたしはもう、渡らなければならないから。〈凪〉にお願いすることになって、ごめん」

 そっと、とりの少女が〈凪〉の身体に触れる。〈雫〉の体温は少しだけ冷たくて、それが彼には心地良かった。

「いってらっしゃい、気をつけて。無事の渡りを」

 彼がそう答えると、小さく頷く。そして、もう一度だけ少女に声をかける。

「ごめんなさい、後をお願いね」

 ふるりと肩を振るわせた少女は、顔を上げることもない。少女を残し、〈雫〉は空へと飛び上がる。そしてそのまま、空の彼方へ飛び去ってゆく。力強い羽ばたきと、風に乗るその姿を綺麗だと彼も思った。〈花〉が憧れていた風景を少しだけ理解できた気がする。


 少女は飛び上がる気配を感じ、顔を上げる。飛び去るその姿をぼんやりと見守っていた。そして、残されたことを思い出すと、自らの身体を抱きしめる。

「わたしは、渡りに連れて行ってもらえないのよ」

 ぽつりと、少女の唇から零れる言葉。その形は見えなくとも、転げ落ちて海へと沈んでいく。

「なぜ?」

 応じた彼の声に、少女は余計なことを言わず、空を飛ぶ彼らとの間で交わした言葉を思い返す。話し合いのことを思うと、胸が痛むし、手が震える。

「皆、本能として渡りの時期が分かるらしいの。それぞれが、その時期を悟って渡りに入る。けれど、わたしには分からなかった」

 人魚として生きてきた彼女が、それまでの生き方とは異なる本能を身につけられるはずがなかった。少女はただ、〈雫〉に甘えて一緒に生きていくことしかできない。

「わたしは、その時期が分からないから、ここに残らなければならない。〈雫〉もぎりぎりまでここに居てくれたけど、もう渡らないといけない。連れて行ってとお願いしたけど、だめだって」

 そこで我慢が出来なくなったように、涙で声を詰まらせる。どうしたら良いか分からない、と聞こえるか聞こえないか程度の声で漏らした。

「ここに残って待てば良い。彼女が戻って来るのを」

 慰めるように優しく声をかける。しかし、少女は駄々をこねるように首を振る。

「いや、一人で待つなんてそんなこと出来ない」

 海にいた頃の少女を思い出し、〈凪〉は小さく息をつく。前から一人では居られなかったのだから、今だって一人で仲間の帰りを待つなんて無理だろう。


「海に戻りたい……」

 彼はそれを聞いて、頭の中が白くなる。彼女は大丈夫だと言ったから、〈魔女〉の元へと連れて行った。そのことを後悔し始めていた。

「海に戻るなら、その力を譲らないといけない。そうだろう?」

 少女は力なく項垂れる。魔女に最後まで確認された言葉が少女の中で蘇る。

『絶対忘れないで。海に戻りたいときには、首からの石と身体の中へと入った魔法を誰かに譲るって。絶対に』

 その言葉はぐるぐると回り、心の中へと沈み込む。身体中がひたひたとその言葉で浸されてゆく。


「ねえ、〈凪〉お願い。わたしの代わりに空を泳ぐ鯨になって」

 良いでしょう、と甘えたように彼女は言う。そう言われる予感を〈凪〉はしていた気がした。諦めと、少しの寂しさと共にその言葉を彼の中で咀嚼する。しかし、そのお願いにすぐに応えることはできなかった。

「少しだけ、時間が欲しい。三度太陽が昇った朝にまた会おう」

 今すぐにでも、と思っていることは声音で分かっていたが、彼はそこまで受け止めることはできなかった。渋々と言うように、少女は分かったと告げる。

「ありがとう。今日は帰るわ」

 強く風が吹くのを待って、その風に乗るように空へと泳ぎ出す。〈凪〉は返事をすることも出来ないまま、その前よりも小さく見える姿を見送った。



「あなたがそうなる必要はないわ。あの子は自分の意志で出て行ったの」

〈汐〉は岩の上に腰掛けて、白い鯨を慰めるように声をかけた。空の色をした鱗をもつ足が彼女の気持ちを表すように時々ヒレで岩を打つ。〈凪〉は戻った〈花〉がまた仲間に戻ることができるのか、尋ねに来たのだった。一度、家族から外れてしまったものが戻ってきたことはない。しかし、〈汐〉は返事をする代わりに、〈花〉のことは放っておけと告げる。

「もしかしたら、空を泳ぎたいものと出会うかもしれない。その時は、また家族に?」

「それは本人次第でしょうね。あの子は甘やかされて育ったから、戻れて当然と思って居るかもしれないけれど、そんなに優しくない」

 悔しそうに下唇を噛む彼女の顔は、家族の気持ちを表しているようだった。戻って来て欲しい気持ちはあるが、物事はそう簡単にはいかない。それは彼らの決まり。


「空を泳ぐ鯨になるのも良いんじゃないかと思うんだ」

「あの子のために、〈凪〉の生き方を犠牲にしないで。みんなで仲良く生きてきた、これからもそうやって生きていきましょう」

 思い返せば確かに、この海にはたくさんの思い出もたくさんの愛情があった。それでも、彼は彼女のために力を引き受けても良いと思う。

「空を泳いでいれば、もしかしたら母にも会えるかもしれない」

 その答えに、彼女ははっと表情を曇らせる。顔にかかる、深い緑の髪を耳にかけた。海にゆらゆら揺れる髪は海藻のようだった。


〈凪〉は小さい時に母と離れ離れになり、海流に流されるままにこの海にたどり着いた迷い鯨だった。彼を受け入れてくれたのは魚のひとの家族で、特に〈花〉は気にかけてくれて、世話もしてくれた。その時の笑顔に彼は何度救われたか分からない。

「お母さんに会いたいの?」

 諦めを滲ませながら尋ねる。その問いに、遠くを見つめる。

「いつかは、探してみたいと思っていた。これが良い機会なのかもしれない。だから、戻ってきた〈花〉を受け入れてあげて欲しい」

 そっと岩から腰を浮かべると、彼女はまっすぐ彼の元へと泳ぎよる。

「ありがとう。わたしたち、あなたのことを忘れない」

 彼は小さく鯨の歌をうたう。それは、海の中を駆け巡り、静かに消えた。



 たった一人の空を泳ぐ人魚を待って〈凪〉は海に身体を浮かべながら泳いでいた。鳥たちが背中に乗っているのを感じる。その鳥が一斉に飛びだったのと同時に空から声が降ってくる。

「〈凪〉」

 ふわりと、人魚が降りてきた。その様子は数日前よりも元気が無く、ひとりだと言う事実を突きつけてくるようだった。

「決めたよ、〈花〉」

 静かな物言いに、少女は緊張の面持ちで対峙する。もし、と彼女は思う。もし受け入れてもらえなければ、一人きりで〈雫〉を待つことになる。


「君の力を引き受けるよ」

〈花〉はそれを聞いて、顔を輝かせる。

「ありがとう。わたし、嬉しい」

 彼女は目を強く閉じ、涙を零さないようにする。その後も何度か瞬きを繰り返した。

「ごめんなさい、あなたを巻き込んでしまって」

 少女は申し訳なさそうに言う。それが、彼には少しだけ白々しく映った。しかし、そのようなことはどうでも良かった。彼にとっては。


〈花〉は首から下げていた石を彼に渡そうとする。そこで、戸惑うように動きを止めた。〈凪〉にはかける首が無い。彼は口先にかけるように顔を突き出す。彼女は意図を理解したようで、口先に無理やり引っ掛けた。口が開けない状態になったが、紐の部分が消え、残った石がするすると移動を始めた。そのまま、口の下の方に向かい、お腹と口の間のあたりで輝きを放った。

 少女は石が彼の元へ移ったことを確認すると、次に腰の辺りから光を取り出す。それは、ただ念じるだけで良かった。外へ外へと出て来るように。腰の辺りが割れるような痛みが走り、悶絶する。光は彼女の元を離れ、〈凪〉の鼻の辺りから中に入った。


 少女はその瞬間、空にとどまって居られなくなり、そのまま海へと飛び込む。一度沈んでから顔を出すと、懐かしい感覚に包まれた。それは、彼女を優しく包んでくれる感覚だった。

 彼は、それを見届けるとふわりと浮かび上がる。少女の空を泳ぐ様子を見ていたせいか、違和感無く動くことができた。これならば、どこへでも行けそうだった。


「ありがとう、〈凪〉。あなたのおかげ」

 少女は嬉しそうに海の中を堪能していた。そして、くるりと回転すると、家族の元へと泳ぎ去る。

「さようなら」

 届かない別れを告げると、白い鯨は空の中を泳ぎだす。冷たさが混じりはじめた暖かい空気が、海の代わりに優しく包んだ。


 その様子を、海の中から一人の魚が見つめていた。

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