籠の中からこぼれた空を


 するりと、夜のベールをすり抜けて、踊るように軽やかな足取りで飛び出してゆく。闇色に染まるコートの下から白いドレスを覗かせて、わたしは夜に紛れた。いつだって、太陽は明るく照らし出すだけで、わたしを隠してなんてくれなくて、やさしく抱きしめてくれたのは夜だけだった。

 やっと見つけたこの扉を開ければ、わたしは自由になる。内鍵を外す音が、重く響いた。さようならと旅立ちの挨拶をひとつ。

 扉が開くと、ちいさく軋む音がした。踏み出す先に何があるのかを知らないまま、夜のなかへと歩み出す。わたしはそのまま、足の踏み場を失い落ちてゆく。耳に風を切る音が轟々と響いた。コートがはためき、髪が広がり伸びてゆく。このまま、地面とぶつかってしまうのかもしれない。それでも、構わないような気持ちになり、そっと目を閉じた。まなうらに広がるのも、夜だった。わたしはそのまま、心の中に潜るように意識を手放した。



 ふわりと、浮き上がったその先で、話し声が聞こえてくる。話の内容までは聞き取れなかったけれど、やわらかい男女の声が耳をくすぐる。

 わたしは再び、心地よい眠りの中に潜り込もうと奥底の方へと沈んでゆく。そこではた、と気がつく。わたしはあそこから逃げ出してきたのだった。あの場所に戻されたら、きっともう耐えられない。

 あの場所、とぼんやりした影が浮かんでくる。戻りたくない、とおもっているのに、曖昧な記憶しか浮かんでは来なかった。


 眠ろうとする頭がたちまち冷静になり、動き出して行くのを感じる。わたしは眠ったふりをして、薄く目を開けた。黒い髪が顔にかかっている。髪の幕越しに、まだ幼い少年と初老の男女が椅子に座っていた。女性は話をしながら、縫い物をしている。男性は、少年に本の読み方を教えているようだった。わたしは、隣の部屋で広がるその様子を開け放された扉から覗くように眺めていた。

 気がつかれないように手足を動かしてみると、何処にも痛みは感じない。怪我はしていないようだった。その時、お腹がぐうと鳴った。わたしは咄嗟にお腹を抑えたけれど、すでに遅い。その物音に気がついたらしい女性が、立ち上がり部屋に入ってくる。


「目が覚めたのかい? お腹が空いてるならご飯を用意しよう」

 わたしの顔にかかる髪を払い、顔色を覗き込むと、女性はにこりと笑った。

「最初よりだいぶ良さそうだ。ちょっと待ちなね」


 ゆっくりとした動きで戻ってゆくと、そのまま影の方へと入る。火に鍋をかけたのが音で察せられた。視線をテーブルのほうに向けると、少年が顔を上げ、こちらを見ている。興味津々なその瞳とぶつかって、わたしは顔を背けた。茶色いまあるい瞳がきらきらと輝くのを見ていられない。少年の寂しそうな表情が視界の端に引っかかるけれど、わたしはそれを見ないふりをする。その顔が、置いて来たものと重なっていくようで苛立ちを覚えた。全てを忘れてしまうために、浮かんだものを追い払おうと目を閉じた。頭を軽く振ると、ゆっくり呼吸を整え目を開ける。低い、見覚えの無い天井が広がっていた。


 美味しそうな匂いが漂ってくる。たくさんの野菜が入ったスープの匂い。それに誘われるように再びお腹が鳴る。

「はいはい、もうできますよ」

 満面の笑みを浮かべた顔で運んできた器から、湯気が立っている。わたしは、どうぞと進められるまま、お礼もそこそこにスプーンで口へと運ぶ。口の中で簡単に蕩けるくらい煮こまれた野菜が広がる。わたしの知らない甘酸っぱい味が広がる。


 黙々と食べるわたしを、女性は嬉しそうに見つめていた。その時、激しい風が隙間を通り抜けるような音が駆け抜けた。驚いて顔を上げると、女性が大丈夫ですよと頷く。一方で少年はお皿に残っていたご飯を慌ててかき込むと、素早く身支度を始めた。


「あれは?」

「早くしなさい、遅れるよ」

 少年に厳しく声をかけてから、わたしのほうに向き直った女性は答えた。

「驚くだろうけれど、でもあなたは、あれに乗ってここまで来たのよ」

 わたしは、わけが分からず首を傾げた。あれに乗ってとはどういうことかしら。


「行ってきます」

 コートを羽織り、小さめな鞄を肩から斜めにかけ、身支度を終えた少年が、入り口から駆け出していく。走っていく背中が窓から見えた。女性に手招きされて、わたしはゆっくりと窓辺に近づく。ベッドに腰掛けていると脇にあるその窓は少しだけ移動すると外の様子がよく分かる。そして、促されるままに空を見上げた。そこには白い塊が浮かんでいた。

「くじら?」

 思わず零れたその言葉に、女性は深く頷く。

「そう。リクは彼の体を綺麗にする仕事をしているの。あなたは、彼の背中に乗って眠っていたところ見つけてここに連れてきたの」


 覚えてない、と問いかけられた質問に、首を横に振って応える。全く、記憶になかった。そう、と残念そうに返す女性も、急ぐ少年の背に目を移すとゆっくりと微笑んだ。その光に溶けていくような眦に、少年が大切に育てられていることが見てとれた。親と小さい時に別れたわたしは、記憶がほとんどなくて、羨ましいと思う。ふわりと浮かんだ思いは泡のように弾けて消えていく。


「ところで、あなたのお名前は?」

 わたしはなんと答えたら良いのか悩んだことで、一瞬間が空いてしまった。その間に、女性は分かったというように首を大きく縦に振る。言いたく無かったわけではなかった。ただ、名前を思い出すことができなかった。

「話したくないなら、それで良いの。でも、名前が無いのは困るから、ここでは、そうねえ」

 顔にかかる長い前髪を耳にかけながら、ふと何かに目を止める。

「ソラにしましょう。空から落ちて来たあなたの名前」

 彼女が目を向けた方向に、青空とゆったりと泳ぐ白い鯨。もう一度、大きな空気が通り抜けるような轟音が響く。少しだけ睨むように空を見つめていた。


「鯨の名前はなんて言うんですか?」

 くるみ色の髪をした女性が優しく微笑み返す。

「あなただけの名で呼んだら良いわ。彼は、私たちにとって神の使い。でも皆がそれぞれ好きな名前を呼び、彼もそれを受け入れている。あなたも、リクと一緒に行ってみる?」

 その申し出はわたしにとってはありがたく、拒否する理由が無かった。

「心配しないで。慣れるまで時間がかかるでしょう。ここで一緒に暮らせばいい」

 わたしはその言葉に驚いて、女性を見つめた。その目を見た時に、わたしは気がついてしまった。彼女はわたしがどこから逃げ出して来たのかを知っていること。何も知らないふりをして、頷く。あの鯨に会いたいと思ったのは嘘じゃない。



 ほんの少しだけ遠い昔、まだ神々が地上を歩いていた頃、この辺り一帯は雨の少ない場所だった。ある年は雨が一滴も降ることがなく、神から見捨てられた土地だと言われていた。そこに現れたのがあの白鯨だった。どこからともなく現れ、雲を作り出したその鯨によって、この土地にも恵みの雨がもたらされた。それ以来、白鯨はこの土地を豊かにする存在として大切にされてきたのだと言う。


 リクはわたしにその話を身振り手振りを交え熱弁してくれた。

「だから、僕にとってもこの仕事はとても意味のあることだし、尊いんだ」

 彼の母親に似て、色素の薄い髪と瞳を持ったリクは、顔を輝かせる。その笑顔と少しだけわたしは向き合えるようになっていた。


 リクから鯨の話を聞いて、家のことを手伝う。わたしは本が読むのが好きだったから、彼の読書に付き合うこともたびたびあった。そんな毎日を過ごしていたころ、再び白鯨が現れた。わたしは、彼をカイと呼ぶことにした。


 遠くから響くような、鯨の歌声。わたしとリクは、額を寄せ合って眺めていた本から顔を上げ、見つめあった。わずか数秒の後、飛び上がるように準備を始めた。わたしはコートを羽織り、砂除けのついた帽子をかぶる。そして、用意していた鞄を肩にかけた。リクの急かす声を聞き流しながら、帽子をリクのお母さんに直してもらう。

「行ってらっしゃい」

 頑張ってきてねと、軽く抱擁を交わす。

「行って来ます」

 それだけを返すと、リクの後に続いて家を飛び出した。鯨はこの辺りで一番背の高い塔の近くを泳いでいた。その塔から、長いブラシを使って身体を洗っている子供達が見える。カイは時折体の向きを変え、隅々まで洗ってもらっているようだった。あの大きな身体で空を泳いでいるのが不思議で仕方ない。


「カイ……」

 そう呟いた時、彼がこちらを見た。黒いまあるい目がわたしを貫いた。低い音が響く。その音がひたひたと身体中に染みこんでくるように、わたしの中に様々なものが流れ込んできた。受け止めきれず、思わず膝をつく。

 心配するリクの声が遠くから聞こえた。けれど、それどころではなかった。置いてきたもの、逃げ出してきた場所の記憶が、置いてきた彼女の姿が、もっと前にあの場所に迷い込んだ少年の影が、そしてあの場所の主が鮮明にわたしの中に流れ込んでくる。音が、風景が、匂いが迫ってきては通り抜ける。


「ああ、ごめんなさい。ごめん」

 絞り出すように声が漏れた。何に対して泣いているのか分からないくらい、全てが溢れ出て止まらない。肩を抱えようとした、リクの手が宙をきった。驚くように手のひらを見つめている。

「ありがとう、リク。お母さんにも伝えて。ありがとうって。わたし、ずっとね、あの鯨のお腹の中に居たの。考えられないくらい長い間」

 そして、今もあの中にはまだ彼女が生きている。逃げ出してきたはずの場所から、わたしは逃げ切れずにいた。あの場所に恋い焦がれてやっと辿り着いて、そして結局あの場所から出たのに、それでもまだ追いかけ続けている。


「ねえ、ソラ。お願いしっかりして、ねえってば」

 もう触れることもできないわたしのことを、リクは困惑しながらも必死で呼びかけてくれていた。その様子に反応するように周りに人が集まる。リクの隣にひとりの少年が立つ。支えるように手を伸ばした。

「大丈夫だよ、ねえ、笑って。笑ってさよならしよう」

 わたしの言葉に、さよならなんて嫌だとリクが駄々をこねる。

「わたしは、あなたたちに会えて良かった。ありがとう。またね」

 最後の言葉を告げたとき、リクは振り払うように笑顔を見せてくれた。嬉しいとおもう気持ちがわたしの中で満ちてゆく。


『君の代わりに彼を連れて行くよ』


 最後に耳に入った声に、わたしは最後に残る意志を奮い立たせ、僅かに顔を上げた。リクの隣に立っていたのは、見慣れた彼の姿。そして、わたしは影もかたちもなく、消滅した。

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