わたしの鳥かご

 この世界を創った神は、全てを見下ろす天上に坐す。そして、地上には命あるものが暮らしていた。天と地の間に、世界の均衡を崩そうとした魔物が閉じ込められている檻がある。神と命あるものが、魔物と壮絶な闘いを繰り広げた結末。しかし、今となっては戦いの面影を見ることはできない。静かな青い空にぽっかりと、ただその檻は浮かんでいた。


 海に突き出した岬に少年が立っていた。十を数えたばかりの彼の黄金の髪が、風に吹かれてさらさらと揺れている。熱心に見つめる視線の先には、白い鯨が空を泳いでいた。魔物が閉じ込められているという檻。長く、その鯨を調査しようと試みられてきたが、誰も辿りつくことはできなかった。

 一羽の鳥が風に流されながら、鯨に向かって飛んでゆく。少年もまた、その巨大な影を包みこむように両の手を伸ばした。



 少女は日当たりの良い窓際に椅子を置き、読書をするのが好きだった。射し込んでくる光は、窓の外に植えられている木を巻きこんで、開いたページに影を落とす。

椅子の上に足を立てて座り、膝の上に本を立てかけている。脱いだ黒い革靴は椅子の足もとに転がっていた。おしとやかに過ごすことは、随分前に辞めてしまったし、ここでは少女に小言を言う大人は居ない。


「今度は錬金術の本?」

 上から降ってきた声に、少女は僅かに視線を本からずらした。遅れて、ひとの姿が現れる。漸く、少年を抜け出したばかりに見える青年が宙に浮くように座っていた。彼女の上に、大きな影を落とす。ふいに、暗さを帯びた視界に、思わず目を細めた。

若く見えるのが見た目だけであることを、少女は知っている。人は、彼に似せてつくられた。


 少女は、その問いかけに応えることなく、開いた頁に視線を戻した。白い紙に踊る文字を熱心に見つめる。もう飽きるほど経験した彼の突然の訪れに、驚くことすら忘れてしまう。


「不老不死も金も、君には関係ないだろう」

 宙に胡坐をかくように座った彼は少しも少女の態度を気にしない。ただ、表情の読めない瞳で、口角を上げる。

 彼の作り出した、この箱庭の中に居る限り、錬金術の求める金も必要がないし、歳をとることもない。それは、少女が一番よく分かっている。余計な言葉が転がりでないように、深くため息を吐いた。音にならない言葉がからからと転げ落ちてゆく。その音が、心を落ちつかせてくれる。


「本棚の端から、読んでいただけ」

 感情を表に出さないように意図的に声を抑えるのが少女の癖だった。この場所に来たばかりの頃、神経を逆撫でられ、感情的な物言いをしては彼に揚げ足を取られてばかりいた。その頃の失敗を、繰り返すことはしたくなかった。

 少女の回答に、彼はぼんやりと書庫を思い出す。本棚には隙間なく本が入れられ、入りきらなかった本が床に積まれているはずだ。彼はどこに錬金術の本があるのか知らない。自分が用意したものも、それらのその後も、興味がなかった。


「邪魔だから、出て行ってもらえる?」

「つまらないなあ。前はもっと楽しかったのに」

 拗ねたようなその物言いに、少女は咄嗟に震える手を握りしめた。指先が赤く染まる。そして、会話を続ける意思がないことを示すために、もう彼の方を見ることもしない。彼はそのまま、少女の方を楽しそうに眺めていたが、しばらくすると、音もなく消えていった。


 少女は視線を本に落としたままでいたが、活字は何一つ頭のなかに入ってこなかった。表面を目が滑っていく。その状態では、内容を理解することはできない。自らの集中力に見切りをつけると、潔く本を閉じた。頭のなかを彼の言葉がめぐっていた。

『前はもっと楽しかったのに』

 ここに来たばかりの頃のこと。何度も抜け出そうとして、足掻いて、そして失敗するたびに絶望していた。彼はその様子を見て、嘲笑い、そして次への希望を生み出す。


 何度失敗を繰り返したころからか、少女はここから出ることを諦めた。産み落とされた希望を、そのままにしておくことに決めたのだった。それは、ひどく退屈な日々の始まりをも意味し、それでいて心はその平穏さのあまさに抗うことができなかった。その代わり、少女は書物を強請った。その願いは、気まぐれに叶えられ、今でも書庫の中をいっぱいに埋め尽くしている。

 無駄な努力だったのだと、今なら言い切れる。思い出すことさえしたくなかった。

ふいに、窓から入ってきた風が優しく少女を包んだ。窓の外では、気持ちよさそうに木々が笑っている。


「お茶にしよう」

 彼と話している時とは異なる少し高めの声が零れた。もう、どちらも少女自身の声。その言葉に反応するように、近くのテーブルにバスケットが現れた。紅茶のセットが入っている。庭のどこかにテーブルも出ているだろう。必要なものは、必要としたタイミングでどこからか現れる。そして、必要がなくなれば消えていった。もう、不思議に思うこともなくなった日常。

 バスケットを持ち、部屋を後にした。置いてある書物の上に、ふわりと影が落ちた。



 庭を彷徨い歩くと、見覚えのある木製のテーブルは風の通る木陰に置かれていた。バスケットをテーブルの上に置き、中からポットやティカップを取り出す。カップに描かれた花が、風と光とともに踊っている。庭の木々も静かに揺れていた。

 背の低い木々や草を掻き分けて進むような音が混じっているのを聞いたような気がして、少女は動きを止める。ゆっくりと辺りを見回した。ここには、少女しか存在していないはずだった。彼は、音を立てることはない。ひっそりと、その場にあるもの。


 少しずつ音は大きくなる。そして、盛大な音を立てて少年が転がるように現れた。光を浴びて輝いている黄金の髪の毛には葉がのっている。

「******」

 その髪と黒い瞳に懐かしい面影を見つけて、思わず呼びかけた。しかし、それはすでに失われてしまった言葉だった。受け取られることのないその言葉を咄嗟に打ち消す。


「人形? よく出来てるけれど。それとも幻?」

 彼の仕業だと、すぐに分かった。また、少女で楽しむためになにかをはじめたのだろう。しかし、顔立ちが遠い昔の幼馴染に似ていることに腹が立った。

「ぼくは、ジャン。人形なんかじゃ、ない」

 驚いたように、目をまるくしていた人形が、なにかに気がついたように口を開いた。人形というより、ひとに近いそれは、幻想の産物なのかもしれなかった。 

「じゃあ、どうやってここに?」

 意地の悪い問いを投げかける。それには、困ったように眉を下げた。その顔があまりにも幼馴染にそっくりで、どこかへ追いやったはずの感情がよみがえってきそうだった。


「家に帰る途中のみさきから檻を眺めていて、気がついたらここに居て」

「檻?」

 岬から眺めた檻、が何の話をしているのか分からない。思考回路がきちんと設定されていないのかもしれない、と少女は少年を眺め直す。意思疎通を行うことは難しそうだ、と諦めようとした。


「悪いまものを閉じ込めているくじらが空に浮かんでるんだ。そこに手をのばして」

「魔物はその手を取り、君をここに連れてきた」

 まるで、書かれた文章を読み上げるように優雅に、青年の声が物語を紡ぐ。突然、少女の背後に現れた彼に、少年が目を開いて何も言えないでいる。しかし少女に、その様を気にしている余裕は無かった。


「ちょっと待って。ここはどこ?」

 混乱に隠れて、不安と焦りが奥で揺れる。彼はそれに気がついたようで、ますます笑いを含んだ声で告げる。歌うように、さわやかに。

「そう、ここが魔物を閉じ込めるための檻。空を泳ぐ鯨の体内。彼が入って来たんだ、出口もあると良いね。うまくいけば、君も出られるかも。おめでとう。きっと楽しめると思うよ」


 話ながら、その姿は揺らいでいた。最後にじゃあねと告げる声は、空から降ってくる。暫くのあいだ、少女は彼が消えた宙を見つめていた。彼が戻ってくることはないと分かっていても、なにかを期待してしまう。諦めたようなため息とともに視線を離すと、精神的な疲れが襲ってくる。なにが起きているのか理解することが出来なかった。身体を支えることができず、思わず椅子に腰を下ろした。


「ジャン、座って」

 思っていた以上に弱々しい声が出て、少女自身が驚いた。ジャンもまた、困惑した表情浮かべて向かいの椅子に座る。その動きが、記憶の中の幼馴染とかぶる。花と、そして白い鯨が頭の中を駆け巡る。少女は、辛すぎるその記憶を、自身の一番奥底に眠らせていた。



 遠い、忘れられた記憶のものがたり。

少女は、幼少の頃より姉さまたちに囲まれ、神に仕えながら神殿で暮らしていた。白い大理石の巨大な柱の間を火の灯りを頼りに進む。ゆらりと揺れた影が長く伸びる光景は幻想的でいっとう好きだった。ずっと、神に仕えて一生を終えるのだと思っていた。

 少女が地上で暮らしていた頃はまだ、神も地上に降り立ち、人々のあいだに交わることがあった。少女たちは、その訪れを待ちながら、思いを同じくする人々のために祈り、祭事を行い、働いていた。忙しくも楽しい日々。神に仕えることの充足感が少女を満たしていた。


 遠くから見た神は、心臓が止まってしまうと思えるほど、圧倒的な存在であり、そしてとてもうつくしかった。この世にあるすべてのうつくしいものを集めても足りないように思えた。

 舞い上がっていたのだと、少女は今なら思える。しかし、あの頃は遠くから眺めていることが、その方のために働いていることが、すべてを捧げても良いと思えた。


 

 少女は、神殿の近くにある岬から海を眺めていた。海から吹く風は心地良く、少女はその風を受け止めるように目を閉じた。腰まである長い金がかった土色の髪が透けるベールとともに後ろに流れる。頭につけた花が揺れた。

「これ、似合うとおもって」

 照れたように笑い、たどたどしい動きで髪につけてくれた幼馴染がまなうらに浮かぶ。思い返すと、蕾がひらくようにゆっくりと笑みがこぼれた。目を開く視線の先には、恵みをもたらす鯨が悠然と風に乗っている。少女は、白い鯨の輪郭をなぞるように手を伸ばした。


「君がその手を伸ばすなら、叶えてあげる」

 ふわりと耳元を掠めた言葉に動きを止める。伸ばされた手を白くやわらかい掌が包んでいた。微笑んでいるそのひとは、宙に浮かんだまま、日差しを浴びて輝いている。顔の輪郭を光が撫でていく様を少女はうつくしいと思った。

「一緒に来るかい?」

突然のことに、曖昧に頷いてみせる。それは、二度とやり直すことのできない、永遠の契約。


 気がついた時には、少女は枯れることのない花が咲き乱れる小さな庭のなかに倒れていた。突然のことに動揺し、酷く取り乱し、彷徨い歩いたあと、漸く涙を零したのだった。

 それを、この檻を用意した彼は、面白そうに退屈そうに眺めていた。人間、という生き物を知りたいと思っていた。泣き出した彼女に対し、ここから逃げ出したいと思うのなら、出口を見つければ良いと告げたのだった。

 信じていた神の気まぐれで、この世界が少女のすべてになった。



「魔物ってあの人?」

 ぼんやりと過去を巡っていた少女の思考が少年の言葉により引き戻される。椅子に座ったジャンが恐る恐る問いかけたのだった。その質問に、少女は首を横に振る。魔物ではない。しかし、彼が何者であるかを少女もまた、正確には理解してはいない。


「ここに閉じ込められているのは、わたしの方。ここは、わたしの……そうね、鳥かごのような場所だから」

「鳥かご?」

 不思議そうに、ジャンが周囲を見回す。確かに、ここは鳥を入れておくかごのようには見えない。

「そう。わたしは、気まぐれでここに入れられてしまった」


 ジャンはまた、困ったような表情を浮かべた。少年とよく似た幼なじみと顔を付き合わせているようで、外に出られたような心地になる。少年だった幼なじみの血を引き継いでいるのだろうと、少女は思う。それだけの時が外では経っているのを、頭では理解している。しかし、実際に現実を突きつけられると寂しさを覚えた。幼なじみのことを聞いてみたかったが、これ以上の事実を受け入れる覚悟が出来ていないことを、少女自身が分かっていた。


「一緒にここから、出よう」

 言葉とともに手が差し出される。少女はその言葉を咀嚼しきれず、日に焼けたその肌の色をぼんやりと眺めていた。

「え?」

 聞き返す声が震えるのを、隠すことができなかった。

「ここから逃げよう」

 再度繰り返されるその言葉が、様々な思いを巻き込んで胸に落ちる。胸が捕まれたように痛み、そして熱を帯びる。一緒に、行くことはできない。


「わたしは、行けない。ここは時間の流れが違うから、出たらわたしはどうなるか分からない。でも、ジャンだけなら、きっとここから出ることが出来ると思う。端まで走って行って。ここを囲む壁に出口があれば飛び込むの」

 失ったはずの希望の言葉を、ここから出るためのヒントを、思い出す。

『扉を開けることさえできれば、君も帰れるさ』

 少女は扉に辿り着くことができず、今もまだどこにも見つけることができないでいる。少年ひとりで、ここから出ようとするならば、彼も引き留めることは無いだろう、と思う。 


「行って、ジャン。さようなら」

 ジャンは力強く頷く。その瞳に弱い少女が映っていた。少女が頷き返すと、少年はそのまま背を向けて駆け出していく。瞳のなかにもう二度と、少女の姿が映し出されることはない。

 小さな背中は、すぐに木々の間に隠れて見えなくなる。それでもしばらくそのまま、見えない影を見つめて立ちつくしていた。


「一緒に行かなくて良かったのかい?」

 降って湧いた声の少女は、見ることもない。少女の表情は、髪で隠れていて伺い知ることはできなかった。

「わたしは、一緒には行けない。それに、わたしが居なくなったら……」

 言い淀んだその言葉の続きを促される。しかし、彼女はその言葉を紡ぐことはなかった。


「いえ、大事なことじゃない」

「そう、今回はここから出られたかもしれないのに」

 残念そうに言われた声で、きっとジャンは出ることができたのだろうと安心する。けれど、それを顔に出すことはしない。神は嘘をつけない。


「勝手に言ってて。わたしは戻るから」

 お茶の道具も全て置きざりにして、少女は屋敷の中へと戻る。窓から外をこっそり覗うと、彼はその場に静かに立ったまま、遠くを見つめていた。何を考えているのか、誰も知ることはない。


『わたしが居なくなったら、消えてしまうのだろう』

 言いかけた言葉が、少女の頭をよぎる。それは少女の推測でしか無かった。存在を信じるものが居なくなった暁には、きっと彼は消えてしまう。その考えは、知識を得るにつれて強くなっていた。神はもう地上には現れない。口に出してしまえば、真実になってしまいそうで、それをひどく怖れていた。

 この檻に彼が飽きるまでの間、その間だけなら付き合っても良いと、そう少女は、思っていた。



『どうして、わたしをここへ?』

 この場所へ来たばかりの彼女の言葉を、彼は思い出していた。その質問に、彼は意地悪く答えた。

『気まぐれ。どこまで順応できるのか試してみたかったんだ』

 その答えに、彼女がどのような反応をしたのかを、彼は覚えていない。それは長すぎる時のなかで、澱んでしまった。

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