人間スープはキスの味がした

人間スープはキスの味がした

 僕が幼馴染のソメイロと再会したのは病院で、薄暗い水の底だった。

「ホハリ、怪我は頭だけ? 強く打ったりしていない? ちゃんと私のこと覚えている?」

 看護服姿のソメイロは、僕の寝ているベッドに身を乗り出して、次々に訊いてきた。

 相手の勢いに圧倒されて、僕は頷くことしかできなかった。顎を引く度に、焼け溶けてしまった頭部の左半分が疼いた。

 傷を押さえようとして、ソメイロに止められる。

「まだ皮膚が再生してないから、包帯越しでも触っちゃだめ。早く治したいなら、放っておくこと」

 言われなくてもわかっていた。

 僕らを包む水は、あらゆる外傷に効く薬だった。薬効以外にも様々な機能が付与されていて、水中でも息ができるし、ものを食べなくても栄養が摂れる。僕のように戦場で傷ついた兵士を浸けておけば、手軽に再利用できるのだ。

「私ね、ホハリやジュエが戦争に行った後も疎開せずに、履端(リタン)の工場で働いていたんだ。でも、伝染病で街が閉鎖されちゃって、看護婦になるしかなかったの。おかげで、ホハリに会えるとは、思ってもいなかったけれども」

 ソメイロは満足そうに、僕の顔をじっくりと眺めていた。なのに、唐突に笑みを消してしまう。曇った目元を隠すように、頭を垂れた。

「――ジュエね、死んだんだって」

 ソメイロの囁き声が、僕の耳の奥に貼りついた。

 もう一人の幼馴染の悲報に、そっか、としか返せなかった。

 悲しいとは思えなかった。いきなりジュエが死んだと言われても、実感なんてわかない。僕は彼の死体も、遺骨も、遺品も、なに一つ目にしていないのだから。

 なのに、心臓を抉り抜かれたかのように虚しい。

 僕は相当酷い顔をしていたのだろうか。

 ソメイロは再び僕を見ると、慌てて笑顔を作った。たとえ無理矢理でも、彼女が笑うだけで、周囲が明るくなったような気がした。

「でも、ホハリが生きていてよかった」

 僕とソメイロの間にある微細な浮游物が、僅かな光を反射して輝いている。薄明に小雪がちらついているかのようだった。その様が、ソメイロには似合いすぎていて、なぜか胸騒ぎがする。

 ソメイロに向かって、日に焼けた手を伸ばした。彼女を放っておいたら、地面に落ちた雪のように、音もなく消えてしまいそうな気がした。

 ソメイロは僕の手を掴んだ。両手で撫で回してくる。

「去年よりゴツゴツしているね」

 僕がくすぐったさに悶えていると、今度は手の甲に頬ずりをしてきた。

「――ああ、兵隊さんの手だ」

 一年ぶりに触れる異性の肌は、寒気がするほど甘美だった。



 僕は病院内をあてどなく彷徨っていた。別に、脱走や窃盗を目論んでいるわけではなくて、ただの散歩だった。

 病院という名の水槽を満たす薬液は、患者たちの皮膚片や凝固した体液の欠片、排泄物等で懸濁している。

 おかげで、手が届く範囲であっても、全てが霞がかっていた。数歩先には、青い闇が立ちこめている。目を眇めてやっと、そこにあるものの輪郭がかろうじてわかった。

 病院は広大だ。そのくせ、どこまで行っても面白いものはない。

 うんざりして、立ち止まる。なんとなく、頭上を仰いでみた。

 青い光が均一に降り注いでいる。天井は見えなかった。もしかしたら、水面までなにもないのかもしれない。

 上を向いたまま立ちつくしていると、視界の端から黒い影が漂ってきた。影はゆらゆらと、風船のように上昇してゆく。

 僕は両目をごしごしと擦ってから、再び影に視線を向けた。

 青の中に消えかけている影は、人間の形をしていた。両腕で水を掻きながら、軽やかに、水面を目指している。

 ――光。

 喉が鳴る。

 ――光の方へ、戻らなければ。

 胸の内でちろちろと燃えていた炎が、突然爆ぜた。冷めた指先に、沸騰した血潮が巡る。

 ――早くしないと、手遅れになる!

 僕は人影を追いかけようと、両足を揃えて跳んだ。手で水を掴み、脚で水を蹴る。ひたすら、無心に、上を目指した。

「ホハリ、無理だよ。まだ早い」

 慈しむような声が、耳元で響いた。

 人肌に温められたミルクのような安堵感が、全身に絡みついてきた。必死にばたつかせていた手足が、ぴたりと動かなくなってしまう。

 いつの間にか、僕はなにごともなかったのように水底に立っていた。

「怪我が治らないと、水から出られない。そういう仕組になっているんだ」

 ソメイロが僕の方へと歩み寄ってくる。

「逆にね、怪我が治ってしまったら、嫌でも陸に上がらなければならないの」

 僕の隣に立つと、軽く腰を折りながら僕の顔を覗きこんだ。

「だから、ホハリ、焦らないで。そんなにすぐに戦場に戻ったところで、次は死んでしまうかもしれない」

 そうだね、と僕はぞんざいに同意した。

 でも、僕は陸に戻らなければ。今ならまだ間に合うかもしれない。意味不明なのに、僕は内なる声を無視できなかった。

 僕がよほど割り切れない顔をしていたのか、ソメイロはしょうがないなぁと言わんばかりに苦笑した。

「ホハリ、手を出して」

 言われるがままに、右手を差し出した。

 ソメイロは僕の掌の上に、なにかを置く。

 それは、親指の爪ほどの大きさの、磨り硝子の欠片のような物体だった。

「氷砂糖だよ。入院中は食べなくていいとはいえ、口寂しいときもあるでしょ?」

 渡されたものに顔を近づけてまじまじと見ている僕に、ソメイロは笑い声を上げた。

「氷砂糖でも舐めて、気長に怪我が治るのを待とうね。噛んだり、すぐに飲みこんだりしちゃだめだよ」

 僕は渋々と頷いた。

 掌の上の氷砂糖は、砂糖でできているはずなのに、水に溶ける様子はなかった。



 僕が病室に戻ると、一人の患者が死にかけていた。全身の皮膚が包帯で隠された、若いのか老いているのかさえわからない男だった。

「もうだめかもしれんね」

 隣のベッドの患者が呟いた。他の患者も頷いた。

 僕は無言で包帯の男に近づいた。

 男は朦朧としているのか、僕がベッドの脇に立っても反応しなかった。微かに胸が上下する以外、ぴくりとも動かない。

 男の呻き声を聞き流している内に、僕は、男がなんらかの言葉を紡いでいることに気づく。

 いったい、なんて言っているのだろう。

 不謹慎ながらも好奇心を刺激された僕は、男の焼け爛れた口元に耳を寄せてみた。目を閉じて、男の囁きを聞き取ろうとする。

 ――あまいもの。

 僕は目を見開いた。

 ――あまいものがたべたい。

 確かに、そう聞こえた。

 僕は男から身を離す。

 右手を開いて、氷砂糖を見下ろした。折角もらったのに、人の垢だらけの水の中では、食べたいとは思えなかった。

 僕は心の中でソメイロに謝ってから、氷砂糖を男の半開きの口に落とした。

 心なしか、男が口元を綻ばせたような気がした。

 ――あまい。

 幸せそうな声は、幻聴だったのかもしれない。

 男の呼吸が止まった。同時に、全ての細胞がばらばらにほどける。白い微粒子が、包帯の隙間から、水中に溢れ出した。

 今まで男だったものが僕にも襲いかかってきて、視界が真っ白に染まった。

 僕はとっさに目を閉じた。

 次に瞼を上げたときには、男は跡形もなく消えていた。ただ、抜け殻と化した病衣と包帯の中に、氷砂糖が転がっているだけだった。

 僕が呆然としていると、背後から細い腕が伸びてきて、氷砂糖を摘み上げた。

「死んじゃったね」

 聞き慣れた声がして、僕は振り返る。

 ソメイロがいた。

「この人みたいになりたくなかったら、ちゃんと療養してね。無茶なんて許さないから」

 口では僕を咎めているものの、表情は今にも蕩け落ちそうだった。僕が視界にいるだけで、嬉しくてしょうがないと言わんばかりに。

「ここは澱が多くて息苦しいね。外に出ようか」

 ソメイロは僕の手を取ると、廊下に向かって歩きだした。



 ソメイロはカーテンの奥の狭い空間に、僕を押しこんだ。

 僕はごめん、と頭を下げる。

 ソメイロはきょとんとした。

「どうしたの、いきなり。もしかして、氷砂糖を他の人にあげたから、私が怒っているとでも思ったの?」

 僕は頭を垂れる。

「そんなの全然気にしていないって」

 ソメイロは一笑した。

「そういえば、ホハリは甘いものが好きじゃなかったね」

 両腕を僕の首に回して、もたれかかってくる。

 僕は反応に困ってしまった。不快ではないものの、綿でできた檻に閉じこめられているように息苦しい。逃げ場を求めるように、上を向く。注ぎこむ光の弱さに、気が滅入っただけだった。

「でもね、好きになってほしいの」

 気がつくと、ソメイロの顔がすぐそばにあった。

 僕がのけぞろうとした瞬間、彼女は唇を重ねてきた。温かくて硬質なものが、僕の口内にねじこまれる。

 それは、舌が痺れるほど甘かった。

 ――氷砂糖だ。

 死にかけの男の口に入り、ソメイロの口に入り、そして僕の口に移された氷砂糖。

 ソメイロの腕から開放された瞬間、僕は氷砂糖を吐き出そうとした。けれども、寸前でやめる。他者の垢や体液だらけの薬液を、絶えず飲んでいる以上、氷砂糖を誰が舐めたかなんて、気にしても意味がなかった。

「ねえ、ホハリ。人間スープはどんな味?」

 ソメイロが弾んだ声で訊いてきた。

 人間スープ? と僕は首を捻る。

「この水のこと。たくさんの人間のいのちがとけ込んだスープ」

 僕はしばらく考えてから、キスの味、と返した。砂糖の味では、そっけなさすぎると思った。

「そのまんまじゃない」

 少なくとも、ソメイロにとっては気の利いた回答ではなかったようだ。

 ソメイロは淡い笑みを滲ませて、でも真剣な眼差しで、僕を貫いてくる。

「私のこと、好き?」

 当たり前だよ、と僕は頷いた。

「好きは好きでも――愛している、って意味だよ?」

 僕は返事に詰まってしまった。

「言葉が重すぎたかな」

 ソメイロは硬直している僕を見て、眦を下げた。

「でもね、私のこと愛してくれたら、すごく嬉しい。ホハリは私と一緒にいるために、ずっと入院していてくれるでしょ。そうすれば、ジュエみたいに、戦場で死ななくて済むじゃない」

 ソメイロはやけに早口で告げると、僕から逃げるように俯いた。

「――ホハリまでいなくなっちゃったら、私は」

 言葉の続きは、口にされることはなかった。

 心臓に蝿でもたかっているかのように、胸がざわついた。

 僕は黙って氷砂糖を舐める。舌の上の砂糖の塊は、なぜか苦かった。

 ソメイロが面を上げた。先ほどまでの痛切さは嘘のように消え、穏やかに微笑んでいた。

「その氷砂糖、偽物なの。甘い味がするだけで、絶対に溶けないんだ。だからね、噛んだり、飲みこんだりしちゃだめなんだよ」



 ある日、目を覚ますと、上半身が浮かび上がっていた。

 僕は水から上がるときが来たのだと悟る。実際、火傷の痛みは殆どなくなっていた。

 唯一の私物である氷砂糖を口に放り込み、ベッドから降りる。

 ソメイロを探して、別れの挨拶をしなければ。彼女に会えないまま、離れ離れになるのは嫌だった。

 青い闇の中を、手探りで進む。

 ずっと歩き通しても、全く疲れなかった。むしろ、体はどんどん軽くなってゆく。

 いつしか、床に足裏を着けるのが難しくなってきた。

 焦燥感が背中を炙る。

 僕は走った。思うように速度が出ない。走れば走るほど、体は浮かんでゆく。立ち止まっても、浮かんでしまう。

 間に合わないかもしれない。

 危機感に駆られて、ソメイロの名を叫んだ。何度も叫んだ。

 水は空気中よりも、音が伝わりやすいと聞いた。だから、どうか、この声が、ソメイロに届いてほしい。

 ――ホハリ!

 水が振動する。ソメイロの声が、僕の体を揺らした。

 気がつけば、僕は大人の腰ほどの高さまで浮かび上がっていた。

「ホハリ、行かないで!」

 青い世界の向こう側から、ソメイロが現れる。彼女は僕を捕まえようと、両腕を広げた。

 僕も精一杯手を伸ばして、彼女の両肩にしがみついた。

 離れたくない。渇望が破裂し、胸が苦しかった。

 ソメイロは唇を噛みしめて、僕をじっと見つめてきた。

 僕も息を止めて、ソメイロに視線を返す。伝えたいことがありすぎて、なにも言えなかった。

 ソメイロは泣きそうな顔をしていた。もしかしたら、既に泣いていたのかもしれない。

 僕は言葉の代わりに、ソメイロに口づけた。舌に載せていた氷砂糖を転がし、元の持ち主に返す。

 ――戦争が終わったら、すぐにソメイロのところに帰るから。

 約束をして、ソメイロからそっと手を離した。

 僕の体が、緩やかに上昇してゆく。

 未練がないわけではなかった。実をいえば、あと少しだけ、ぬるい水に包まれていたかった。

 でも、のんびりしていては手遅れになる。なにが手遅れになってしまうのかはわからないけれども、僕は行かなければならない。

 ソメイロは僕を求めるように、腕を掲げた。やがて、力なく両手を下ろした。

「――早く、迎えにきてね」

 祈るような言葉だった。

 僕は力強く頷いて、ソメイロに足を向けた。振り返らずに、光に向かって泳ぎだす。


◇◇◇


 瞼を上げた途端、目が眩んだ。何度か瞬きを繰り返している内に、視界の明るさに慣れてきた。

 消毒液の臭いが鼻に突き刺さり、脳の芯がずきずきとした。頭の火傷が、今も焼かれているかのように痛んだ。

 熟れすぎた果実のような頭を抱えながら、体を起こす。辺りを見渡し、自分が風通しのいい病室にいることを知った。

「おっ、小僧、目を覚ましたか」

 隣のベッドの男が軽薄に話しかけてきた。

「周りに喋れる状態のヤツがいなかったからさ、退屈していたんだよ。おまえさんはこのまま死ぬと思っていたから、さっさと他の元気な怪我人と取っ替えてくれないか医者に頼みたくてしょうがなかったんだ」

 男はぺらぺらと喋り続ける。空気中を伝わってくる声は、水中で聞くよりもずっと尖っていて、耳が痛い。

「それにしても運がいいな。伝染病で南方の都市が壊滅したってことは知っているだろ? おまえさんがこの病院に運びこまれた後、政府が住民の救護を諦めたから、戦地(こっち)に医者を回せたらしい。だから、おまえさんは重体だったけれども、医者に見捨てられなかったってわけ。おまえさんみたいに助かる兵士がいる一方で、天岡(テンコウ)や履端(リタン)にいた人間は、ほぼ全員死んだか、今も死にかけのまま街角に転がっているって話だ」

 履端、と僕は繰り返した。僕らの故郷。

 脈が濁流のように激しくなる。呼吸が荒くなったせいで、喉の奥からヒュウヒュウと音がした。

 そうだ。僕は履端に伝染病が蔓延していると聞いて、ソメイロの身を案じていた。今すぐ彼女の元に飛んで行けない身であることに苛立っていた。そんな折、爆風にやられたのだ。

「だから、命は大切にな。……って小僧、なにしているんだ!」

 僕は点滴のチューブを乱暴にむしりとって、ベッドから這いずり降りた。痩せ細った体を引きずり、遠い故郷を目指す。長らく水底の夢を見続けていた付けが回ったのか、うまく手足が動かない。

「ソメイロ。今すぐに行くから――」

 乾いた肺から、喉から、声を絞り出した。

「――だから、どうか、もう少しだけ待っていて」

 水の底では、死んだ人間は白い微粒子となって消滅した。でも、ソメイロは、仄かに光の届くあの場所に存在していた。

 まだ、光は潰えていない。

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人間スープはキスの味がした @nat_zki

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