あらしの船は海の底
捺
お姫さまにはすみれを添えて
わたしは磯でアメフラシと対峙していた。
岩場とほとんど同じ色合いで、でも明らかに質感の違う、ナマコに似ているけれども多少は人間にも親しみやすい造形の生きもの。しばらく観察していないとわからないほど緩慢な動きで、洗面台と同じくらいの広さと深さしかない水場を這っている。
わたしのあごの先から汗のしずくが落ち、水面に波紋が広がった。照りつける太陽にうなじや腕をじりじりと灼かれていることを、いまさらのように思い出す。
腕で額の汗をぬぐい、しゃがんだまま空をあおいだ。
殺人的に晴れ渡った空は、太陽光が強すぎるせいでずいぶんと白っぽく見えた。若干陽はかたむいてきたものの、お盆明けの陽射しは苛烈だった。
首筋を熱い汗が流れていく。
こんな日は、嵐がくればいいのに。そう、一年前の今日のように。
飛ぶ鳥さえも落ちるほど暑かった真夏日が、雷と豪雨と悲劇に凍りついた夕暮れ。開催されるはずだった花火大会は中止になり、今年も引き続き自粛とのことだった。もしかしたら、この町で花火大会をやることはもう二度とないかもしれない。
空のまぶしさに耐えられなくなって、私はうつむく。鏡をのぞきこむように、小さな水場をじっと見おろした。
水面に写ったわたしの白い顔と、アメフラシの姿が重なった。
去年の夏から、なにかが胸のなかでわだかまっている。波間に揺れる黒い水草のような、頼りなくて邪魔くさい感情。
濡れた髪が足に絡みついていては、わたしは先に進めない。けれども、いったいだれの髪なのか。
わたしの足を引っぱる存在なんていないはずだった。すでに高校生活三年目だけれども、わたしはだれとも仲よくしてこなかったから。
ため息を飲みこみながら、眼下のアメフラシに手をのばし、指先でそっと触れてみる。アメフラシをいじめると、海が荒れると聞いたことがあった。つまり、アメフラシは嵐を呼ぶ。ただの迷信だとはわかっていても、試さずにはいられなかった。
アメフラシの背をなでているうちに、紫色の液体がもくもくとわきだしてきた。
わたしはあわてて水中から手を引き抜いた。
呼吸を忘れたわたしの眼下で、ゆっくりとスミレの花が咲く。
むかし、図鑑で見たよりも、ずいぶんと青っぽい汁だった。「貴い」だとか「清らか」だとか、そんな表現が浮かんだ。
スミレ色の煙がたなびく様を眺めているうちに、脳裏にひとりの女子の姿がよぎる。
去年、同じクラスだった瀬木さんだ。長い髪をポニーテールにした、きれいで楚々とした子。明るくて、真面目で、礼儀正しくて、おまけに気立てのいい、外交のために徹底的にしつけあげられたお姫さまのようだった。
瀬木さんが笑えば、わたしをのぞいたクラス全員が笑うし、瀬木さんとふたりっきりになった人間は心をとかされてしまう。その完璧さが逆にこわくて、わたしはなんとなく瀬木さんを避けていた。
でも、決して嫌っていたわけではない。瀬木さんはきれいだったから、何度も横顔を盗み見た。本人には伝える機会も義理もなかったけれども、きっとスミレの花が似合うと思っていた――。
突然、大気を割り裂くような雷鳴が響きわたった。幻聴なのか、実際にこの耳に聞こえたのかは、わからない。
わたしは我に返って、そして、気づいてしまう。
この足に絡みついているのは、瀬木さんの髪だ、と。
あたりがにわかに暗くなって、冷たい風が吹いてきた。
もう一度雷鳴が聞こえたかと思うと、大粒の雨が降ってきた。足元の水たまりも雨粒で大きく乱れ、スミレの花――アメフラシの汁は見えなくなってしまった。
残念がるまもなく、視界全体が白く光った。数秒遅れて、生木が裂けるような轟音が、脳天を殴りつけてくる。
わたしは首を引っこめ、岩場にはりつくように身を低めた。近くに高い建物なんてないから、運が悪ければ雷に打たれるかもしれない。
雨あしはどんどん強まり、やがて滝のような豪雨に変わった。雨宿りしようにも、すでに全身びしょ濡れだ。水を吸ったセーラー服が皮膚にはりついて、不愉快な上に寒い。
わたしはくちびるをふるわせながら、すこしだけ笑ってしまった。
まさか、アメフラシをいじめてすぐに望んでいた嵐がやってくるだなんて。偶然にしてはできすぎている。
偶然ではないなら、必然だ。夏の嵐は、雷の閃光は、きっとなにかを暴いてくれる。
ふと、波打つ水面に顔のようなものが映りこんだ。わたしの顔ではない。
「谷崎さん」
――ほら、やっぱり。
「すこし、話でもしない?」
――招かれざる客が来てしまった。
「ひさしぶりに会えたんだから、ね?」
ここにいるはずのない瀬木さんが、しきりに話しかけてくる。細くて澄んだ声は、ホワイトノイズのような雨音のなか、やけにはっきりと聞こえた。
わたしが「いやだ」と答えるよりも早く、うしろから瀬木さんが抱きついてきた。
濡れそぼった、冷たい身体だった。きっと水死体の体温はこんな感じなのだろう……と思ったけれども、瀬木さんの胸の感触はやわらかかったし、腕の皮膚には張りがあった。
わたしが抵抗して暴れると、瀬木さんはわたしにぶら下がるように全体重をかけてきた。
背中が重たくなる。身体がうしろにかしいでいった。足が滑って、重力を失う。
「わたしね、ずっと、谷崎さんとじっくり話をしてみたかったんだ」
岩場から落下しそうになった瞬間、瀬木さんが耳元でささやいた。
脳内に甘いしびれが走る。
ひときわ大きな雷鳴が聞こえ、一瞬、頭のなかが真っ白になった。
気がつけば、わたしは砂浜にあおむけに倒れこんでいた。顔面を機関銃で撃たれているかのような鈍痛に、あわてて身を起こす。
瀬木さんはとっさにわたしの背面から離脱したらしく、一メートルくらい離れた位置に転がっていた。なにが楽しいのか、雨のなか、腹を抱えて笑っている。
わたしに負けず劣らずずぶ濡れで砂だらけなのに、髪の毛をきちんと結いあげているからか、落ち武者や亡霊のようには見えない。むしろ、濡れたセーラー服に透ける肌色が、どきっとするほど色っぽくて健康的だった。
「いったいなに……」
わたしは額を押さえながら、よろよろと立ちあがった。瀬木さんのかたわらに歩み寄る。
ほんとうは瀬木さんを放置して走り去りたかったけれども、どういうわけか逃げられなかった。瀬木さんの姿がわたしの視界に映っているだけでも、鼓動のたびに胸がきしむのに。
「なんの用?」
つっけんどんに話しかけると、ようやく、瀬木さんは笑うのをやめた。その場に座りこみ、顔中をべしゃべしゃに濡らしながらわたしを見あげてくる。わたしは寒くてしょうがないのに、瀬木さんの頬は桜色で、くちびるもあかあかとしていた。
やっぱり、変だ。ただでさえ雨で大気がけぶっているのに、まつげが水滴を含んで、瀬木さんの顔がよく見えない……はずだ。本来ならば。
なのに、瀬木さんのまとっている空気はあわく真珠色に輝いていて、彼女だけやけに明るくはっきりと見えた。瀬木さんがすぐ近くにいるからかもしれないけれども、不自然すぎる。
瀬木さんは肩で顔の水気を拭き取った。
セーラー服の肩口に、マスカラかなにかの黒がしみついた。小さなしみは、わたしが瀬木さんに対していだいている違和感に似ていた。
眉間をひくつかせているわたしに、瀬木さんは満面の笑顔を向けてくる。
「わたしね、ずっと、谷崎さんと話してみたかった。だって、谷崎さんってば、いつもわたしのこと避けているんだもん」
瀬木さんはあっけらかんと言いはなった。やや鼻声だけれども、歯切れのいい発音のおかげで、女の子らしいのにいやらしさがない。
少なくとも、クラスの人気者が、クラスに馴染めない人間に話しかけるときによくある、上から目線のやさしさは感じられなかった。お嬢さまめいたふんわりとした雰囲気と、天性の気さくさが、なんの違和感もなく共存している。
――ああ、瀬木さんはやっぱりお姫さまだ。
そう再確認し、薄ら寒い気持ちになった。違和感が背筋をナメクジのように這いずりまわっている。
なにかがおかしい。でも、なにがおかしいのかわからない。いや、嵐の海辺で、べつに友だちでもなんでもない元クラスメイトと顔をつきあわせている時点で、すでにいろいろとおかしいのだけれども。
「なにを言って……」
わたしが口を開いた途端、青白い雷光が炸裂した。同時に雷鳴が響き、瀬木さんは両耳をふさいだ。
落雷は続き、脈がどんどん速まっていく。あまりに拍動が激しすぎて、心臓が粉々に割れてしまいそうだ。
気がつけば呼吸も浅くなっていて、酸欠なのか過呼吸なのか、頭がくらくらとした。
「ねえ、瀬木さん、逃げよう。死ぬよ」
わたしは瀬木さんの腕をつかんで、むりやり立たせようと引っぱった。
けれども、瀬木さんは尻に根っこでも生えているかのようにびくともしなかった。それどころか、身体を折り曲げてまた笑いだす。砂浜をてのひらでばんばん叩いて、苦しそうに引き笑いまでしていた。どこからどう見ても馬鹿笑いしている女子高生なのに、どこか狂っていた。
内臓を内側からなでられているかのような気色悪さに、わたしは舌打ちをする。
「……もういい。わたし、ひとりで逃げるから」
憮然と言いはなって、くるりときびすを返した。そのまま、小走りで瀬木さんから逃げようとする。
が、足首をつかまれてしまった。漁網に足を引っかけたかと思うくらい、がっちりと捕まえられている。あやうく前のめりに転びそうになったけれども、なんとか持ちこたえた。
わたしは猛然と振り返り、瀬木さんをにらみつける。
「はなしてよ」
「いやだ」
「はなさないと蹴るよ。そもそも、なんで瀬木さんがここにいるの? わたし、ひとりになりたいから海にきたのに」
わたしが乱暴に足を振り回すと、瀬木さんはようやく手をはなした。邪気のない笑顔を引っこめた代わりに、まんまるな目でわたしを見つめてくる。
「うそ。ほんとはひとりはいやなくせに」
瀬木さんの針のような細くてしなやかな一言が、わたしの心臓を貫いた。
わたしは言葉に詰まってしまう。
痛くはないけれども、胸がちくちくとする。なんで、他人の戯言にいやな気分になっているのだろう。いつもなら流せるのに。
わたしは力なく首を横に振った。肩下まで伸びた髪が雨水を吸って、ものすごく重たい。
「べつに、いやじゃない。だって、海の家もないような場所に、だれかといっしょに来る意味ないし」
「でも、海に遊びにくるのにひとりじゃないといけない理由もないよね。ただの強がりでしょ?」
「どうでもいいひとといっしょにいるのは疲れる。だから、あっちに行って」
わたしは相手の心をえぐるつもりで、瀬木さんを突き放した。言葉を重ねれば重ねるほど、胸の奥に沈んでいる石がどんどん大きくなって、胃を圧迫していく。
瀬木さんに動揺した様子はない。とはいえ、もし笑いながら泣いていたとしても、雨がひどすぎてよくわからないだろうけれども。
「やだよ。わたし、せっかく谷崎さんのところに来たのに。見た目もね、いつもより気合を入れたつもりだけど、土砂降りになっちゃったから意味ないよね」
瀬木さんは膝にはりついているスカートをつまみ上げた。白い太ももがあらわになる。
わたしはとっさに目を逸らしてしまった。原因不明の罪悪感がわきあがってきて、ただでさえ冷たい内臓からさらに熱が失せていった。
「ねえ、谷崎さん。どうしてわたしたちの側に来てくれなかったの。だれも谷崎さんのこと、嫌いじゃなかったのに」
瀬木さんの声音は、一転してうなるように低くなった。それなのに、天が割れたかのような雨のなか、言葉のひとつひとつがはっきりと聞こえた。
わたしはむかむかとする胃をさすりながら、いま一度瀬木さんに向かい合う。
「でも、みんな、わたしのことは好きでもない」
苦い事実を口にしただけで、胸が押しつぶれそうになった。
去年、わたしはクラスで浮いていた。いや、沈んでいた。存在を空気のように薄くして、だれとも交わらないようにしてきたのだ。
自分なりの考えや信念があって、ひとりでいようとしたのではない。単に、クラスに居心地のいい人間関係がなかっただけだった。
二年生のときのクラスメイトは、みんな瀬木さんのようにきらきらとしていて、やさしくて、ものわかりがよくて、いいひとたちだった。でも、彼らの仲間意識の強さについていけなかった。
わたしは自己主張をほとんどしないくせに、個を消してみんなと一丸となって行動するのがいやでたまらなかった。クラスという胃袋で消化され、『青春』だとかそんな名前の花火を打ちあげるための動力に変えられてしまうのが、どうしても受け入れられなかった。
実際のところは、クラスに溶けこめないわたしのコミュニケーション能力に問題があっただけなのだろうけれど。
瀬木さんに手首をつかまれた。そのまま強く引っぱられ、わたしはその場にしゃがみこんでしまう。
同じ目の高さで、瀬木さんはわたしの顔をじっとのぞきこんできた。
「谷崎さんを好きになろうにも、きっかけがないと」
雨で多少化粧が落ちても、瀬木さんは変わらず美人だった。まるで、海からあがってきた人魚姫だ。同性なのに、見つめられると脈がおかしくなってしまう。
わたしは瀬木さんの視線に耐えきれなくなって、顔を伏せた。
「わたしだって、最初はだれかと仲よくしようと思った。でも、だれとも合わなかったというか、合わせられなかったというか……」
どういうわけか、本音がぽろりと口から漏れてしまった。
恥ずかしさに心臓のあたりが熱くなった。けれど、のどの奥につっかえていた魚の骨のようなものが、すこしだけ小さくなったような気がした。
瀬木さんが身を寄せてくる気配がした。わたしの手の甲に、てのひらを重ねてくる。
「でも、ひとりでは生きづらいでしょ」
「無理して楽しくもないのに笑って、クラスに溶けこもうとするよりはよっぽど楽だね」
「わたしは逆。ひとりぼっちは嫌いだし、楽じゃない」
「わたしと瀬木さんは違う人間なんだから当然でしょ」
「さみしいね」
瀬木さんは消え入りそうな声でつぶやいた。たぶん、わたしに向けた言葉ではなかった。
「……さみしいの?」
なのに、わたしは顔をあげ、問い返してしまった。
「わたしも瀬木さんも違う人間だって、小学生でもわかるくらい当たり前のことなのに、なんでさみしいと思うの?」
どうして自分でもこんなにもむきになっているのかわからないまま、今までで一番強い口調で問いかけてしまった。
風雨にさんざん打ち据えられた頬が、ぴりぴりと痛む。顔面の筋肉が冷え固まってしまったせいで、わたしはとてもこわい顔をしているだろう。
それでも、瀬木さんはうっすらと笑んだ。さっきまでの、むやみやたらに明るい笑顔ではない。スミレの花が開くような、上品で、繊細で、ひかえめな笑顔。たぶん、瀬木さんの本物の表情だ。
「ほんとうはね、谷崎さんのこと、嫌いだった」
瀬木さんが慎重に口にした言葉も、きっと、本物の言葉だった。
決して好ましい内容ではない。はずなのに、なぜかすとんと心に落ちていった。
「仲よくなりたかったのに、谷崎さんはわたしを受け入れてくれなかった」
ますます弱くなった瀬木さんの台詞は、泣き言のようだった。
わたしは「なんでわたしなんかと仲よくなりたかったわけ?」と首をかしげた。瀬木さんの本音が不可解でたまらなかったけれども、のどの奥に刺さったトゲはほとんどとけ消えていた。
「瀬木さんがわたしとつるんだところで、なにも得することなんてないでしょ? ああ、クラスで浮いているわたしと仲よくなったら、心優しいキャラとしてやっていける……とか? たしかに損はしないかもしれないね」
わたしはわざと悪辣に言いはなって、瀬木さんの本音をもっともっと掘り出そうとした。
瀬木さんは「そんなむずかしいことは考えてなかったよ」と肩をすくめた。
「ただ、みんなと仲よくしたかった。だれとでも友だちになれるわたしでいたかった。谷崎さんとだけ仲よくなれなかったことが、いまだに納得いかないの」
「なにそれ……」
わたしは「傲慢だ」とか「気持ち悪い」とか露悪的な言葉を返そうとして、できなかった。
今の瀬木さんは心の殻を脱ぎ捨てて、心の一番弱くて汚い部分を、わざとむきだしにしているように見えた。自ら本音を見せてきたひとを攻撃するのは、卑怯なような気がする。べつに、瀬木さんに手加減なんてしてやる必要はないはずなのに。
ほんとうに自分でも自分がよくわからない。けれども、あとすこしで、ずっと探していた答に手が届きそうな気がした。たぶん、わたしは一番肝心なことを忘れてしまっている。
瀬木さんは身を乗り出して、わたしに迫ってきた。
「ねえ、どうして谷崎さんだけ、いっしょに花火大会に来なかったの? クラスのみんなで漁船を借りて、海の上から花火を見れるって盛りあがっていたのに。けっきょく天気が荒れて花火は見れなかったけど、でも、船でみんなでわいわいするのはすごく楽しかったよ」
花火大会、船、嵐。
沖の果てに見える船影のような真実が、おぼろげに見えはじめたような気がする。
「悪いけど、そういうのは好きじゃない。ひとりで家でゴロゴロして宿題をして過ごすほうが、わたしにとってはよっぽど有意義で建設的だし」
わたしは冷静に話したつもりだったけれども、歯の根がふるえてやまなかった。寒さのせいではない。興奮と緊張がないまぜになって、身体が力んでいる。
瀬木さんは濡れた顔をわたしに近づけてきた。
「せっかくの夏休みなのに?」
「せっかくの夏休みだからこそ、どうでもいいひとたちと無理に遊びに行って、貴重な時間をムダにするのはいやだよ」
「わたしたちのこと、ほんとにどうでもいいって思っていたの?」
「もちろん」
わたしは力強くうなずいた。去年のクラスメイトのことなんて、どうでもいい。だって、みんな――。
突然、瀬木さんがわたしの頬に触れた。水棲動物のような、肌の質感。
考えてみれば、息をするのも苦しいくらいの嵐のなかにいるわたしたちは、水に潜っているようなものだった。
「なら、どうして、ここに来たの? よりにもよって、この日、この時間、この場所に」
瀬木さんはとうとう核心に踏みこんだ。
心臓がちぎれんばかりに絞りあげられ、熔けた鉄のような血液が身体中を流れる。胸が熱いというよりも、痛い。
わたしはすべてを理解した。忘れていたとても大事な真実を、やっと思い出した。
瀬木さんの手を振り払う。自分で自分の両頬をぱんぱんと叩いてから、むりやり口の端をつりあげた。
「……ざまぁみろって言うために決まっている」
腹の底からヘドロでも吐き出すように、瀬木さんに叩きつけた。こめかみを締めつけられているかのような痛みに頭を抱えたくなるけれども、なんとか笑い続ける。
「わたしだけが生きていることを、見せつけるために」
わたしの言葉は、我ながら力強い。なのに、頭痛はひどくなる一方だった。
「群れていたって必ずしも得するわけじゃないって、あざ笑ってやろうと思って」
それは違う。頭の片隅で、別のわたしが声を張りあげていた。
「うそ」
わたしの本心に呼応するように、瀬木さんが透明な声でささやいた。
「ほんとは、谷崎さんだって、わたしたちと仲よくしたかった」
わたしは否定できなかった。
無言のわたしに、瀬木さんはほほ笑みかけてきた。いや、目がほんのすこしだけ細くなっただけで、笑ってはいなかったかもしれない。
すぐ近くに雷が落ちた。
竜巻でも起きたかのように、空気が振動している。
わたしと瀬木さんを包んでいた透明な膜のような殻のようなものが、劣化したペンキのように剥がれ落ちていった。
風向きが変わった。鉛の弾のような雨粒が正面から襲いかかってきて、わたしはその場に尻もちをついた。
大量の水が顔面を流れ、視界がゆがんでいる。さっきまでいやにはっきりと見えていた瀬木さんも、水のなかにいるかのようにふやけていた。
「ねえ、谷崎さん。それをさみしいって言うんだよ。さみしかったから、谷崎さんはここに来たの。友だちになれなかったひとにもう一度会いたくて、今日という日を選んだの」
さとすように語った瀬木さんは、さみしそうだった。
「……瀬木さんは去年の夏から、ずっとさみしいまま?」
答はわかりきっているのに、わたしは訊いてしまった。
瀬木さんは考えあぐねるように首をひねってから、首を横に振った。
「もう、さみしいと思う心も、なにもないよ」
瀬木さんの声は、やけに平面的に聞こえた。抑揚がないわけではない。なにか大事なものが、決定的に欠け落ちてしまっているのだ。
「……さみしいね」
わたしはつぶやいた。
くちびるを開いたままにしていると、口のなかにまで雨が流れこんできた。雨水は涙の味がした。
「谷崎さん、わたしがいなくなったことがさみしいの?」
「そうだよ」
わたしが断言すると、瀬木さんは鼻のあたりをむずむずとさせて、うれしそうな顔をして――。
雷が落ちた。
閃光のなかで瀬木さんがなにか言ったような気がしたけれども、聞こえなかった。
すべてが真っ白になって、眼球がとけ落ちる。上も下もなにもかもわからなくなった世界で、だれかがわたしの額にくちづけた。
◇◇◇
雨がやんだ。
逃げるように、雷の音が遠ざかってゆく。
いつのまにか地面に倒れこんでいたわたしは、おそるおそる目を開いた。残像で視界が白飛びしている。
頭をもたげてみると、首が折れそうなほど頭蓋が重たかった。
雨のにおい。腐った海草のにおい。そしてなにかが焦げたようなにおいが、鼻の奥にこもっている。
相変わらず気温は低いけれども、あたりはすっかり明るくなって、身体の表面についた砂は早くも乾きはじめていた。
長い夢からさめたように、脳の動きが鈍っている。なのに、肺の底から鼻に空気が抜けてゆくような爽快感もあった。
わたしは腕の砂を払いながら腰をあげる。
いつのまにか、瀬木さんは消えていた。
代わりに、瀬木さんがいたあたりの砂が、深くえぐれていた。まるで、雷でも落ちたかのように。
ほんとうに落雷があったかのはわからない。
本物の瀬木さんはたぶん水深一六〇〇メートルくらいの海の底にいて、砂浜にあがれるわけがないだろう。わたしがさっきまで顔を突き合わせていた瀬木さんは、ただの幻だ……と思う。
何度もまばたきを繰り返しているうちに、落雷のあおぐろい残像は消えていった。夕立前よりも激しさを増した太陽光が、雨のなかでわたしが見た景色を塗り替えてゆく。
わたしは目をこすりながら、海を見やる。
くすんだ青の海は凪いでいた。一年前、同じように夕立がきたときは、海は大きくうねって、燃えさかる船を飲みこんでしまったというのに。
今日は去年のクラスメイト全員の命日だった。
花火を海上から見るために、わたし以外のクラス全員は貸し切りの漁船に乗りこんだ。けれど、花火大会がはじまるすこし前に天気が急に悪くなり、沖にいた漁船に雷が落ちた。漁船はあっという間に燃えあがって、崩壊して、波に消えた。
クラスメイトはみんな、焼死か溺死してしまったらしい。何人かはいまだに行方不明で、瀬木さんもそのうちのひとりだった。
わたしはクラスメイト全滅の報せに、落石に頭蓋骨を潰されるような衝撃を受けた。けれども、たいして悲しくはなかった。だれとも仲よくならなくてよかった、としみじみと思ってしまった。そんな自分の薄情さに、ちょっとだけいやな気分になった。でも、じきにどうでもよくなってしまった。
夏休み明け、わたしは別のクラスに移され、それっきり何事もなく月日はすぎていった。瀬木さんが指摘したように、「さみしい」だなんて感情にも、気づけないまま。
ずっとつっ立っているうちに、服が乾いてきた。
わたしは岩場をよじのぼり、磯のすみっこに放っておいたかばんを回収した。
帰り際、アメフラシのいた小さな水場をのぞきこんでみる。
アメフラシは跡形もなく消えていた。
ただ、わたしの濃い影が、水底に落ちているだけだった。
あらしの船は海の底 捺 @nat_zki
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