学振焼肉

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学振焼肉

「ありがとうございました。失礼します」

 軽くお辞儀をしながら研究室のドアを閉める。完全に閉まりきったのを確認してから、僕は数理研究科棟の廊下を早歩きで進んだ。

 スマホを開くとグループラインに5件通知がある。「早く来いよ」のメッセージと一緒に送られて来た画像には、楽しそうにコタツを囲む同級生4人の姿が写っていた。僕は片手で「今すぐ向かう」と送信した後、カバンから自転車の鍵を取り出した。

 大学の駐輪場から外へ出ると、辺りはもうだいぶ暗くなっていた。まだ10月の半ばだが、Tシャツにパーカーでは流石に肌寒い。僕は立ち漕ぎで少し体を浮かせてパーカーのチャックを端まで閉める。

 杉山の家は大学から徒歩15分くらいのところにある。彼のアパートに着いた僕は自転車をガスメーターの隣に置く。この辺の家賃の相場は高めだが、彼の家は大学院生にありがちなボロアパートだ。築40年を超える風貌から察するに家賃は月5万といったところだろう。

 壊れた呼び鈴を一応一回押してから扉を開ける。暖かくもわっとした空気が全身を包む。突き当たりの奥の部屋から「お!来たな!」と顔だけが飛び出した。杉山だ。

 玄関は4人分の靴が散乱しており、文字通り踏み場もない。仕方なく脱いだ靴は逆さまにして床に置いた。

 「よっ!本日の主役!おめでとう!」

 顔を赤らめた杉山が大きな声で迎える。6畳の部屋には杉山と青木がコタツに座っていた。すでに何本かのビール缶が開けられている。

「すまん。思ったより先生との話が長引いちゃって……」

 僕は軽く釈明をする。杉山はそんな言葉を遮るようにコップを渡して来た。

「いいって!いいって!めでたい日なんだからさ!」

「そうそう。日本の将来を背負う『学振様』なんだから」

 青木も杉山の調子良い言葉に続いて言う。僕はそんな勢いに押されながらなすすべも無くコップにビールを注がれた。注ぎ方が下手なのか白い泡がコップの8割を埋め尽くしている。

 駆けつけ一杯、僕はグッとコップを傾ける。食道を流れる刺激が高揚感を一層掻き立てる。

「ぷはあ」

 今日はなんて嬉しい日だろう。ビールもこれほど無く美味い。

「おい、改めてちゃんと報告しろよ」

 杉山が肘を曲げて僕の腹を突いてくる。僕は咳払いをして落ち着いた声が始める。

「えー、皆さんもご存知の通り、本日、審査結果が通知されまして、私、三好昇太は、学振DC1に採用される運びとなりました。」

「よっ!おめでとう!」

「昇太、おめでとう」

 2人は大きな拍手で祝福してくれる。良い友達を持った。

「これで、三好は研究者の第一歩を踏み出したわけだ!俺らの分まで頑張ってくれよな!」

「いやあ、僕なんて本当まぐれだよ」

「いやいや三好くんの実力だよ。俺や杉山なんてかすりもしなかったんだから」

「ははは!俺らのゼミで学振通ったのは、三好と太田だけだもんな!」

 2人は明るく僕を持ち上げてくれる。2人は今日不採用の通知が来てショックなはずなのに。微塵もその素振りを感じさせない。

 「学振」とは、奨学金のようなものである。僕らのような大学院生は概ね将来研究者になることを目指している。そのために、大学4年間を過ごしたのち、さらに5年間くらい大学院に進むのだ。

 大学院のうち、最初の2年は修士課程、後の3年は博士課程と呼ばれる。博士課程を修了すると博士号という教授になるための資格みたいなものが貰える。

 ただ、大学院生は身分としては学生だから、基本的に収入はない。ないどころか多額の学費も支払わなければいけない。そのため、お金をどこからか調達する必要がある。

 そこで、「学振」と呼ばれる制度では、博士課程の学生に3年間、月20万円の給料と150万の研究費を支給してくれる。ただ、残念ながら応募者全員に支給されるというわけではない。

「いや、でも本当すごいよ。だって、2割の枠を勝ち取ったんだから」

 青木が柿ピーを食べながらこちらを見る。青木は杉山と異なり酒を飲んでも落ち着いたトーンで会話をする。青木は続けて言う。

「そもそも大学院生って頭の良い人たちの集まりでしょ?大学の勉強じゃ物足りないって人が進むんだから」

「まあ、そうだね」

「さらに学振に応募するってなると、自分の研究者としての才能に多かれ少なかれ自信があるわけで。つまり、応募全体のたった2割の採用者は、日本の学術界を担うトップ中のトップってこと」

 隙のない青木の口調に、僕は照れてうなづくしかなかった。

「ま、俺と青木は残った8割不採用者、つまり負け組ってことだ!ハハハ!」

 杉山の笑い声に少し耳が痛くなる。彼なりの賞賛と受け取っておこう。

「お、なんだか盛り上がってるじゃん」

 台所の方から誰かやって来た。吉岡だ。手に包丁を持ちこちらを見ている。

「お!もう準備できたのか!?」

「いやまだなんだよ。なかなか肉が切れなくてね。とりあえずそっちにホットプレート持っていっていい?」

 僕たちはコタツの上のツマミと酒をどかしてスペースを作る。「ありがと」って言って、吉岡はまた台所に戻ろうとする。

「何か手伝おうか?」

 僕は半立ちになり、吉岡に尋ねるが、彼は首を振って断った。

「大丈夫。手は間に合っているから。それに、三好は今日の主役なんだから、ゆっくりしてて」

 お言葉に甘えて再びコタツに潜ることにした。そういえば太田の姿を見かけないが、さっきの言葉から察するにどうやら台所で吉岡を手伝っているらしい。

「それにしても、学振は残念ったけど、今日の『学振焼肉』はちょー楽しみだったんだぜー!」

 杉山はビール缶を卓に叩きつけて叫ぶ。

 学振焼肉とは、学振に受かった人が学振に落ちた人に焼肉を奢るある種の慣習のことだ。誰が始めたか分からないが、全国的にも割と広まっているものらしい。今回の場合、僕と太田が、杉山、青木、吉岡の3人に焼肉を奢るというわけだ。

「でも、てっきり焼肉屋でやると思ってたんだけど、今日は杉山の家でやるんだな」

「まあ……学振の結果発表、来週だと思ってただろ?だから予約してなくてさ。しょうがなく俺の家にしたってわけ」

「そうなのか。なんか悪いな」

「ま、この方が安上がりだしいいだろ!ハハハ!」

 確かに家で焼肉っていうのも新鮮かもしれない。僕は新しくビールを開けグラスに注いだ。

「それで肉は何円くらいしたんだ?」

 僕の一言に2人の動きがピタリと止まる。

「ほら、今の内に払っておきたいからさ」

 財布を出しながら僕は言ってみたが、2人はどこかぎこちない。あれ?何か変なこと言ったかな。

「え、ああ、支払いは後でいいだろ!」

 誤魔化すように杉山は強く言う。

「でも、酔っ払わないうちに精算はしておきたいからさ」

「まだ肉も来てないのに精算も何もあるかよ!そういうのは食ってからでいいよ!」

「そうそう。杉山の言う通り」

 2人の言葉に僕は財布を仕舞うしかなかった。確かに追加で肉を買ってくるかもしれないし、その方がいいかもしれない。

「お待たせ〜!!」

 台所から吉岡が肉を持って来た。プラスチックの皿に乗った肉は思ったよりたくさんある。

「じゃあ、学振焼肉、始めてくかー!!」

 杉山は箸で肉を鷲掴みし、ホットプレートに乗せる。じゅう、じゅうと、肉の焼ける音と共に、生臭い匂いが部屋に充満する。

「いやー、美味しそうだねー」

 青木がつぶやいた。

「俺の調理が良かったからだね」

 それに吉岡が冗談ぽく返す。

「いやいや!俺の肉のチョイスだろ!!」

 酔った杉山が強引に割り込むように話に入った。

「そういえば、なんか見たことない肉だな。何の肉なんだ?」

「………………」

 僕の一言に、なぜか3人は沈黙する。何かまずい質問だったのだろうか。

「に、肉のことはいいからさ!それぞれの近況とこれからについて話していこうぜ!」

 杉山が強引に話題を切り替えた。僕はそれに従うしかなかった。

「じゃあ、三好から話してよ」

 吉岡が僕に話を振る。僕は明るさを取り戻しつつ口を開けた。

「青木と杉山には言ったけど、学振に通ったから、来年から博士課程に進学するよ。これで、とりあえず3年間の生活は大丈夫かな。まあ、もちろん、博士出てからのことを考えると、研究を必死にやって業績残さないといけないわけだけど」

 僕は笑いながら半ば照れ隠しに、肉を口に運ぶ。口の中で焼けた肉の汁がじわじわと広がっていく。

「なんか三好が遠くに行ってしまう感じ……本当おめでとう……」

 吉岡が泣き真似をして僕を茶化す。みんなはオイオイとツッコミを入れる。

「三好くんはゼミの中でもずば抜けて優秀だったからなあ。学振通るのは当然といえば当然だけど、やっぱり感慨深いものがあるよね」

「ハハハ!俺はコイツは絶対通るって思ってたぜ!」

「俺は、もし杉山が通るなら、ゼミのみんなが通ってたと思ってたけどね」

「青木、言うな!ガハハハ!」

 3人から集中的に褒められるのも照れるので、逆に僕は話を振ることにした。

「それで、吉岡の近況はどうなんだ?」

「あ、俺?修士卒業したら実家を継ぐかな。今から就活も難しいし、博士行くにもお金がないしね」

「そうか……。でも来年も学振は応募できるし、奨学金を借りるって手もあるし、それでも博士行くって道はないのか?」

「まあ、今のところないかな。親にこれ以上迷惑かけられないってのもあるし」

 吉岡は少し俯き自嘲気味に言う。杉山は吉岡の皿に肉を乗せて叫ぶ。

「ハハハ!まあ肉食って元気出せよ!」

「そうだね。ちょっと落ち込んでたかも」

 白い煙がモクモクと4人を囲む。各々は自由に肉を焼いて食べている。

「あ、青木はどうなんだ?」

 沈黙を破るように僕は青木に問いかけた。

「あー、俺も博士には行かないな。内定もらってる企業があって、そこにそのまま就職するよ」

「おー!おめでとう」

「でも三好に比べたら全然大したことないよ。俺は絶対に学振通るって自信がなかったから就活もしてたわけだし」

「おいおいそんなこと言うなよ。就活を同時にこなすのも十分すごいよ」

「まあ、欲を言えば学振通って内定先蹴って、研究者の道に進んでみたかったけどね。ははは」

 肉の焼ける音だけが部屋に響き渡る。ホットプレートの上には、生焼けの肉、片面だけ焼けた肉、充分に焼けた肉、様々な状態の肉が並んでいた。

 この時、ようやく僕はあることに気がついた。

「あれ?そういえば太田は?台所で料理してたんじゃなかったのか?」

 僕の質問にも3人は黙ったままだ。青木と吉岡は杉山の方を見ている。杉山は気まづそうに口を開ける。

「え、ああ。太田はちょっとコンビニに酒買いに行ってるんだよ。もうそろそろ戻って来るんじゃねえかな」

「そうか。じゃあ戻って来たら、太田の採用祝いも兼ねて乾杯しようぜ」

「あ、ああ」

 杉山の間の悪そうな態度を伺うに、どうやら太田と喧嘩でもしたらしい。2人は学部時代から犬猿の中で有名だった。

 なんだか僕のせいで気まづい雰囲気にしてしまい、申し訳ないことをした。

 吉岡は場の空気を変えようと思ったのか、急に杉山にネタを振る。

「そ、そうだ。杉山、あれやってよ!鉄板ギャグ!あれ、面白くて好きなんだよね!」

「え、あれか?」

「それそれ!」

 3人は拍手で杉山を立たせる。杉山はリクエストされちゃあ断れないと、頭を掻いて笑う。そして、右腕を鼻につけて大きく振る。何かを掴むジェスチャーをした後、それをパクッと口に入れた。

「ぞうの卵はおいしいぞう!」

 体を張ったギャグに僕たちは大いに笑った。よかった。いつも杉山だ。いつものみんなだ。

 それから杉山は「どうも湯川秀樹です!」「インド象に卵の在り処を教えてもらいます!」など学振の鉄板ギャグを披露してくれた。4人は酒を飲み、肉を食べ、まさに酒池肉林の状態でそれを楽しんでいた。太田はまだ戻って来なかった。

 宴もたけなわ、盛り上がって来た頃、僕は軽いノリで杉山に尋ねる。

「そういえば、杉山の近況はどうなんだ?」

 杉山はビールをグイッと傾けてから普通の表情で答えた。

「ああ、俺か?大学辞めたよ」

「え?」

 思いもよらぬ返答に声が漏れてしまう。僕はビールを少し飲んで動揺を誤魔化した。

「辞めたって、ほんとに?」

「ああ。今日、退学届けを出して来た」

「な、なんで……」

 僕は言いながら「なんで」という言葉が相応しくなかったかもしれないと後悔していた。杉山は答える。

「前々から決めてたんだ。学振通らなかったら、大学院を退学しようってね。それで今日、結果が出て、通らなかった。それだけのことだ」

 プレートの上で焦げている肉を見ながら、僕は適切な言葉を探していた。そして、なるべく棘のないように言葉を選ぶ。

「……でも、どうして退学なんだ?後、半年いや実質数カ月で修士を修了できるんだぞ?何か事情があるのか?いや答えにくかったらいいんだが……」

 杉山は淡々と僕の質問に答える。

「俺には研究者の才能がない。そして、研究者になる道もない。だから、もう研究は辞めて大学も辞めるんだ」

「研究者の才能がないって、そんなのまだ分からないじゃないか」

「学振の結果がそう言ってるだろ」

「学振だって、今年だけじゃない。博士に進めば、来年もチャンスがあるじゃないか」

「このまま博士に進学したとしても、来年もきっと落ちるさ」

「そんなことやってみなくちゃ……」

「もうやめてくれ」

 杉山は静かにビール缶をテーブルに置いた。大きな声でも叫び声でもなかったが、僕は杉山の言葉に沈黙するしかなかった。

 杉山は今までになく落ち着いた声で僕に話し始める。

「そんなこと分かってる。一度採用に落ちたくらいで研究者を諦めず、また挑戦するのが正しい姿勢だ。三好、お前は正しい。そして、学振も正しい。応募者全体の約2割しか採用されない。当たり前だ。そもそも研究とは競争なんだ。他人に勝たなきゃ研究費はもらえない。他人に勝たなきゃ教授の職はもらえない。俺たちはずっと仲間だったが、同時に互いを食い合う敵同士でもあった」

 青木と吉岡も杉山の話を黙って聞いている。

 杉山は続ける。

「俺だって、小さい時から研究者になりたかった。青木や吉岡もそうだろう。そのために人一倍勉強だってして来たさ。でも、大学院じゃそんなのは当たり前だ。自分より出来るやつより出来なきゃ食っていけないんだ。学振の予算だって限りはあるんだから全員が全員、希望通りになれるわけじゃない。それは正しいし別に文句はないよ。そんなの分かってる。分かってて今まで頑張って来たんだ。でも。いや、だから、俺は、俺たちはそう言った正しさにはもう疲れたんだ」

 ホットプレートの肉は全て焦げ付いてしまっていた。僕には掛ける言葉はどうしても見つからなかった。

 もちろん学振以外にも給付の奨学金はあるし、貸与の奨学金で生活費を賄うこともできる。学振なしで博士課程に進む人だってたくさんいる。ただ、今の杉山の抱えている問題は、そういうことではないんじゃないかと、僕は心の奥で感じていた。

「ぞうの卵はおいしいぞう!」

 杉山は立って大きな声で笑う。いきなりの変化に僕は少し驚いた。

「せっかくの焼肉なのに、しんみりさせちゃってすまんな!今日は三好の奢りだから、存分に俺の準備した酒と肉を楽しんでくれ!ハハハ!」

 青木が「もう焦げちゃってるけどね」とツッコミを入れると一同は爆笑する。いい雰囲気のゼミに入れてよかったと思う。

 その時、気の緩みからか、僕の体はふらつき始める。どうやら酒を飲みすぎてしまったらしい。

「おいおい三好、もう酔ったのか?学振焼肉はこれからだぜ!」

「まあ、寝かせてあげなよ」

「追加の肉は俺たちで全部食べちゃうよー」

 コタツに入ったまま横になる僕に3人が話しかける。そういえば、太田はまだ来ないのかな。

「なあ、俺の用意した肉、美味しかったろ?実はなかなか用意できない代物なんだぜ」

 高級肉ってことかな?ああ、それで金額が言えずに支払いを後にしたかったのか。

「もう1つ別の肉も準備してるから、青木と吉岡は楽しみにしてていいぜ!」

 杉山は1人で盛り上がっている。青木と吉岡はニヤニヤとそれを見つめている。

「三好、今までありがとうな。もうしばらく会えないと思うけど、お前は一番いいやつだったぜ。本当だ。俺が挫けそうな時にもいつもお前には励まされた」

 杉山の言葉に僕は泣きそうになる。本当に良い友達を持って僕は幸せだ。

 杉山は「おいおい寝るなよ」と僕の体を揺さぶる。


「学振焼肉の『主役』は、太田と三好なんだからなー!」


 そんな杉山の言葉を最後に、僕はぐっすりと深い眠りについた。

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