続編(ご興味のある方はどうぞ)
番外編––Tokyo International Airport
通勤客が降りてくる波に逆らい、夏男は品川駅の階段を駆け上った。走りながらポケットから取り出したパスケースを改札機に叩きつけ、京急線のホームへ抜けると、ちょうど停車した電車のドアが開き、人々の列が動き始めた。
夏男は頭上を見上げ、電光掲示板の一番上のラインに飛行機のしるしをみとめると、閉まろうとするドアの中へ迷わず滑り込んだ。
『御乗車、ありがとうございます。この列車は、エアポート急行、羽田東京国際空港行きでございます。次は…』
車内に響くアナウンスにほっとしつつ、夏男はドアに身を預けて息を整えた。もたれかかった窓から縦に並んだジェイアール線の線路が見え、駅の一番端から白色の東海道新幹線が速度を上げていく。胸ポケットからスマートフォンを取り出してホームボタンを押すと、ちょうどデジタル時計の数字が九時に切り替わる。
「…ったく…メッセージくらい素直に書けよ…」
もし十時十五分のフライトなら搭乗時刻はもっと早いはずだ。セキュリティー・ゲートを通り過ぎるのはさらに前になる。
「頼むから、間に合ってくれ…」
品川から羽田空港まで二十一分。夏男は卒業証書を持つ手に力を込めた。
***
三階から最上階まで吹き抜けた広々とした羽田空港の出発ロビー。春子は四階のガラスの柵にもたれて、航空会社のカウンターの間を行き来する旅客を見下ろしていた。トランクをバゲージ・ドロップに預けたあと、出発ゲートのラウンジへ行くという両親と別れ、何をするでもなく一通りロビーを歩き回った後だった。
クリーム色のパーカーに額を埋めると、閉じた瞼の裏に教室の黒板が浮かんだ。
−−どうしてあんなの書いちゃったのかな…
まだ肌寒い早朝、両親と共に家を出た。駅へ歩く道の途中、卒業したばかりの高校の前で、トランクを引いた春子の足が、昨日の記憶に呼び止められた。
夏男の告白に対して自分の口から出た言葉に、目を背けるようにして出てきた校舎。揺れる桜の花を映す自分のクラスの教室の窓。あそこの窓辺にもたれて、夏男を待った。
出来ることならもう一度、あそこへいた時間に戻りたい。
歩みを止めた春子を振り返った両親に、自分でも無意識に「五分だけ待ってて」と言って駆け出していた。
早朝練習のため早朝から開いた門を抜け、初めて夏男と登った下駄箱からの階段を駆け上る。冷やりと冷たい廊下の床を靴下の裏に感じながら、教室までひた走った。
息を切らして扉を開けると、まだ少し暗い教室の中、満開の桜の花びらに透けた淡い光に黒板の一点が照らされていた。
鮮明に浮き上がる赤いチョーク。
三年間なんども目で追った筆跡が目に飛び込み、それは春子の呼吸を奪った。反射的に黒板へ駆け寄った身体が青のチョークを掴み、赤い文字の上へ線を描く。
−−馬鹿かな、私…ダメだな、向こうに行ったら一から仕切り直さなきゃ…
柵に肘をついたまま、前に流れた髪を耳の後ろへやる。手が動いた拍子に目に入った腕時計の針が、搭乗時刻が近いと知らせていた。
そろそろ行かなきゃ、と階段へ向かおうとした、その時だった。
広い階下のフロアの、エレベーターホール。色とりどりのスーツケースを引いた旅客の間に、何とも場違いな学生服が目に止まり、春子は息を飲んだ。
***
のんびりと進む旅客を掻き分けるようにエレベーターから降りるやフロアを見回した夏男は、正面のエスカレーターの上、作り物の桜並木の端に春子の姿を捉え、旅客の脇をすり抜け走り出し、一気にエスカレーターを駆け上った。
「…っ…間に、合った…な」
驚きに瞳を真ん丸にして立ち尽くす春子へ、上がる呼吸を鎮めつつ、何とか笑いかけてやる。
「なん…で…」
「ははっ…なんでじゃ、ないだろ。これ、サンキュ」
大きく一つ深呼吸をすると、夏男は手に持った筒で春子の頭を小突いた。
「分かりにくい二択、出すなよ。今度やったら承知しないぞ」
「……ごめん」
学校に夏男は来る。教室に踏み入れた春子の足元に転がる卒業証書がそれを告げていた。でも、そんな早い時間に来るはずない。来て黒板を見たって、午前のフライトに間に合う時間なわけがない。昼過ぎだったら、先生にでも出発時刻を訊くだろう。来るはずがないのだ。
そう思って、でもどこか、何か、欲しくて。会えなくていいから、これが最後の甘えだと思って書いたのに。
「…ありがとう。」
目の前の夏男は、相変わらずだ。優しくて、強くて、いつでも、そして最後まで元気をくれた。もう十分だ。
「ほんとに、ありがとう。向こうで…頑張る。……もう、ゲート、行かなきゃ」
もう、十二分だ。このままいたら、絶対、離れられなくなってしまう。
出来る限りの明るい声で言い、春子は夏男の肩を軽く叩いて、降りのエスカレーターへ足を向けた。
「待てよ」
有無を言わさぬ強い夏男の声に驚いて振り返ると、伸びた腕が春子の肩を引き寄せた。
夏男の胸に顔を押し当てられ、突然のことでばくばくと音を立てる鼓動が全身に反響する。
「…知ってるだろ。俺がそんなに強くないの」
夏男の息を、すぐ近くに感じる。
「一人で耐えられるほど、タフな奴じゃないんだよ。…でもさ」
春子の上に鳴る、凛と張った声。
「二人でなら、大丈夫だと思うから」
夏男は、少し緩めた自分の腕の中で、春子が深く息をするのを感じた。走って速まった夏男の鼓動と春子の鼓動が、次第に合わさり、緩やかに整っていく。
『日本航空43便、ブリティッシュ・エアウェイズ共同運行便にご搭乗のお客様、ご搭乗の最終案内です』
「あ…私の便…もう行かなきゃ」
繰り返されるアナウンスに顔を上げ、互いに頷くと、二人は並んでエスカレーターの階段を降りて行った。
幸いセキュリティーチェックの列は短く、あまり焦らずに入れそうだ。
整理ロープの手前でどちらともなく繋がれた手が離れ、夏男の右横で春子の頭がすっと前に出る。
しかし一歩先でそれは止まり、艶やかな髪が揺れて、夏男を振り返った。
「ヒースローから家まで一時間くらい。今日の夜、日本時間十二時半、起きてる?」
こちらを見つめる目。ずっと見てきた。時々不安そうに丸くなる茶色の瞳。
「今帰ったら、昼寝しとかなきゃな」
笑い混じりの答えに、春子の瞳が和らいだ。顔の高さに上げられた白い手がひらりと振られると、桜の蕾が開いたような微笑みを見せて、春子の細い身体がセキュリティーゲートへ吸い込まれていく。
その後ろ姿を見送りながら、夏男は手の平に残る温もりを、そっと握りしめた。
きっと海の向こうでも、そろそろ桜が花開く。
––完––
明日の黒板 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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