明日の黒板
蜜柑桜
本編
明日の黒板
桜は卒業式の花だよな。
窓の外にほぼ満開に咲く
さっきまで写真を撮ったり色紙を渡したりする生徒達で、
* * *
式服に身を包み、正門を通る足はどれも浮き足立っている。妙な気持ちの昂ぶりやざわめきを周りに感じながら、嫌というほど通った坂を上がって校舎に向かう。クラスメイトの異様に明るい挨拶に曖昧に返しつつ、夏男は下駄箱を開ける。
「あらモテ男」
後ろから掛かるアルトボイスに、夏男は下駄箱のラブレターらしきものを取り落とした。
「馬鹿言うなよ。知らん名前だし」
「ふーん」
すっと横に並んだ春子は、夏男の目線の位置にある頭から艶やかに落ちる長い髪を耳にかけ、背伸びをして一番高い段から上履きを取り出した。いつものカーディガンの代わりにブレザーを着た春子のブラウスには、流行りの大きいチェック柄リボンではなく、細い赤の無地のリボン。
「卒業式っぽくていいわね」
「冷めてるな」
「だってみんなは大抵が地元に残るし。後輩だってこの辺に住んでれば顔合わせるし」
そう言って自分を特に見るでもなく、さっさとローファーをしまって普段通りに階段へと向かう背中に、夏男は声を掛けていた。
「あのさ」
「ん?」
振り返ったきょとんとした丸い瞳は、三年間変わっていない。
* * *
「教室、一緒行かない?」
初々しさの目印たる花飾りを胸につけた男の子が、階段へ踏み出した私の足を止めた。
「同じクラスだろ?俺、立川。立川夏男」
君は?と問う顔は
「佐々木春子だけど…」
「よろしく佐々木!あれ?ダメ?…佐々木さん?」
呼び方に気を遣って迷ってるらしいのも意外だった。何だか可笑しい。
「春子でいいよ」
「そか、よろしく春子!夏男でいいから!」
明るく横に並んだ少年は春子と同じか少し低いくらいで、共学に慄いていた春子の不安を入学初日から溶かした。
なのに今は、私よりタッパあるんだもんなぁ…
窓枠にもたれて、まだ咲かない
* * *
校長理事の祝辞や後輩の送別の言葉、卒業証書授与と式次第が進む中、どんどん感傷的になる会場の涙腺を容赦なくぶち切ったのは総代の春子の挨拶だった。姿勢良くすらりと立ち、涙もなく爽やかな微笑みと共に
群がる女子に通れずにいた俺に春子が気が付き、後輩達の一団に柔らかく注意して道を開けさせた。
「行かないの?」
総代答辞の時と同じ、真っ直ぐで芯のある声色。裏の意味は、例の手紙、といったところか。こういうけじめ、きっちりした態度、それから––外から見れば––へこたれない強さが、こいつの人気らしかった。
「行くけど…」
「行きなよ」
後輩達の間をそそくさと進んだが、ふと振り返って叫ぶ。
「後でな」
* * *
四方美しく竹林が天高く
その下で、春子は途方に暮れていた。
修学旅行の自由行動、渡月橋を見て嵐山に来たのは良かった。しかし、景色や神社に
とにかくここでの旅程通りと思って、まばらな観光客の間を進んで行くが、同じブレザーは見当たらない。ついには自由行動の最終目的の野宮神社まで来てしまったけれど、彼女達はいなかった。誰も気付かなかったのか、待っててくれなかったのか、先に市内に戻ったのか。
事もあろうに夢中で写真を撮っていたのと、電波が悪いのとであっという間にスマートフォンの充電は切れてしまっていた。来る前に買い換えれば良かった。
またやってしまった。どうしよう。
突如、春子の脳裏に、嫌な言葉が響いた。
春子なら、一人でも大丈夫でしょ。
遠足で荷物番を頼まれたり、ペア作業で人数が奇数になると、大抵こう言われて来た。そうじゃないのに。
今回は自分の不注意が招いたことだが、よく知らない土地のせいなのか、京都の霊がいるのか、延々と続く竹林を見たら、トラウマのようにどっとあの言葉が襲ってきた。泣くもんかと上を仰ぎ見たのに、虚しいくらい鮮やかな緑が広がり、かえって涙が溢れてくる。大丈夫でしょ、が、一人でもいいでしょ、に聞こえることもしばしばあった。春子ならほっといてもいいでしょ、と。
はじめから一人ならいい。でも、誰か一緒にいるはずの人がいるのに、一人でいるのとは意味が違う。
「あれ?春子だ。何してんのお前」
野宮神社の赤い鳥居の前に、夏男が立っていた。
「他の奴らとはぐれた?大丈夫?」
はぐれたことが不安なんじゃない。人に聞けば帰れるし。一人なのが不安なわけでもない。ただただ、いま、聞きたかった言葉を、夏男が言ってくれた。それだけなのに、春子は泣き出していた。
あの時、夏男は泣き止むまで待っててくれたっけ。
しゃくり上げる春子の背中を座ってさすってくれて、一緒に帰ろうと。何も聞かずに。弱さを見せてしまって、恥ずかしくて、嬉しかった。もう一年以上前だ。
人気のない教室へ、廊下を近づく足音が聞こえる。
見慣れた背丈の影が扉の
* * *
「…悪い。待たせて。みんな、帰ったな」
「うん」
「お前、ブレザーは?」
「後輩にあげちゃった」
「相変わらずモテるな」
苦笑する夏男の顔は、京都の時と変わらない。
しばらく、時計の針の音だけが、妙に大きかった。春子が勢いをつけて、窓枠にもたれた身体を離す。
「三年間、クラス変わんなかったね」
「ほんと。入学式で最初に話したのも春子が初めてだったな」
「卒業式で最後に会ったのも、だね。今までありがと」
「何だそれ。今生の別れじゃあるまいし」
いつも通りだ。変わらない。卒業したって、どうせ大部分は近隣大学に行くんだし。近所だし。いつでも会おうと思えば会える。今日だけ感傷的なだけだ。
でも春子はそんな、感傷的になるタイプだったか?
「今生の別れかも、しれないよ」
凛とした声に、僅かな濁りが混ざった。
「嫌だ」
耳に入る春子の声音が、鮮烈に記憶を呼び覚ます。京都の竹林。あれ以来ずっと、夏生の頭にたびたび蘇る泣き声。
「俺は、変わりたくない」
夏男の口は勝手に動いていた。感傷的なのは自分か?
「俺は大学違ったって、就職したって会いたい」
三年間。いつしか芽生えて、常にそこにあった気持ち。変わることのないもの。変えたくないもの。
「いつだって春子と会いたい」
止まらなかった。
窓際に立つ春子の視線が、教室の端の夏男を射る。
「海の向こうでも?」
「は?」
「私、ロンドン行くんだ。よくあるでしょ、転勤ってやつ。明日出発」
春子の後ろに立つ桜の枝が揺れ、昼下がりの強い光が射し込む。
「…いつまで」
「決まってない。向こうの大学行って、もしかしたら大学院も。いつ帰って来るかわかんない」
「関係ない」
手を伸ばせば、春子はそこにまだいる。今ここで掴まないと、するりと抜けていきそうだった。
「メールだって電話だって出来るだろ。大学に入ったらバイトして会いにだって行くから」
「夏男」
春子の白い指が、光に揺れる黒髪を耳にかけた。
「一人で行くから寂しくも悲しくもないの。私がそんなに強くないの、知ってるでしょ」
逆光がその白い肌に影を作り、表情を隠す。
「だから、今日でさよなら」
そう言うと、春子は机の上の鞄を取ると、夏男の脇をスッと通り抜けた。廊下に響く規則的な靴音が遠のき、途中で加速し、あっという間に聴こえなくなる。
差し込む光が、桜の木の影を作る。今、春子のいたところに。
「ばっかやろう…」
卒業証書を床に落とすと、夏男は乱暴に机を蹴った。ガシャンと椅子が倒れたが構わなかった。
「もう不安がってるじゃねえか…」
耳に髪をかけるのは不安な時の春子の癖だ。京都で一緒に帰って班の奴らを注意しようと言った時。上級生に校内スペース占有を抗議しに乗り込んだ時、今日の答辞でマイクに向かった瞬間、それから、朝。
「ふっざけんな、俺の不安とかはどうなるんだよっ!」
誰もいない教室に、夏男の叫びは虚しく大きい。返ってくるのは時計が規則正しく刻む針の音だけだった。
ロンドン。
口ではああ言ったが、実際遠い。フライトっていくらかかるんだ?
すれ違いざまに見た春子の顔が目の前にちらつく。
真面目なあいつのことだ。束縛するのもされるのも嫌いな春子だ。ここで約束したら多分ずっと、向こうで律儀に俺を待つんだろう。
−– それは、嫌だな…。
向こうで春子を大事に思うやつがいても、きっと一人を通すに決まっている。
夏男は机に突っ伏し、花の影が揺れる教室の床をぼんやりと眺めていた。
* * *
何がそうさせたのか分からない。
ただ衝動に駆られたとしか思えなかった。
家に帰ってのろのろと記念品を片付けるにも、春子の言葉が頭の中にこだましていた。
− 今日でさよなら −
ほんとかよ、信じらんねぇ。
逆流するようにこみ上げてくる訳の分からない衝動が、夏男を家から飛び出させ、街灯もまばらな通学路を走らせたのだ。
校舎に入るなど造作もない。遅刻常習犯が伝統的に作った裏道は、人目につかない教室へのルートを作っている。三年生の教室は二階。上り坂と寄り添って立つ校舎の入り口は一階だが、二階の教室の一番端、夏男のクラスは上り坂の一番上だ。軽く桜の木に上がればそこはもう教室の窓であり、二段組の窓の上側右端の鍵は、予鈴遅刻の輩が本鈴に間に合うよう壊されている。
慣れたルートで簡単に教室に入ると、夏男はペンライトをつけた。薄暗い中で黒板に向かう。乱痴気騒ぎでクラスメイトが好き勝手に書いた文字や絵で、濃い緑の板がカラフルに彩られている。御礼の言葉や別れの言葉、テンション高く友情を誓う美辞麗句、見事なチョークアートまで。
「一人だと思えばいいって?」
一人で大丈夫なやつなんていない。頼ったっていいんだ。男女だろうと。離れていようと。恋人じゃなかろうと。
白や黄色の文字が多い中で一番目立ちそうな赤のチョークを掴んで、空白にカツン、と当てた。もう今日で終わりなんだ。誰が書いたか問われることもない。
見つかったら面倒臭い。思うままに大急ぎで手を走らせ、チョークを投げ捨てると、夏男はそのまま窓から飛び出した。
* * *
がらんとした廊下に来客用のスリッパの音をぺたぺた響かせながら、夏男はもう着るはずのなかった制服に情けなくなりながら教室へ向かう。
まだ朝早いというのに、校庭から休暇練習の運動部の掛け声が聞こえてくる。
あろうことか、昨日力任せに投げ捨てた卒業証書を教室に忘れた。
もう戻らない証を取りに戻るなんて間抜けな話だ。
教室の扉を開ける。昨日と同じ聞き慣れたガラッという音。違うのは、窓辺にもたれ掛かる人物がおらず、桜の薄く色付いた花が見えるだけということだ。
夏男が床に投げ捨てたはずの濃紺の筒は、落ちたその場所ではなく窓辺の夏男の席の上に置かれていた。
ということは誰かが来たということだ。
はっとして全身が熱くなり、黒板を振り返った。昨日の夜に書きつけた場所。一番目立つ赤色。
夏男がくっきりと書いたその上に、華奢な青い筆跡があった。
「HND《羽田空港》ー
開け放した窓から風が吹き込み、白いカーテンが教室の机の上に舞い上がった。桜の花が咲き誇る間に見える青い空。
その中を一筋の白い線を後ろに引きながら、ボーイング787が通って行く。
気持ち良いほどの空を飛ぶ飛行機。不安だけを抱えた門出は似合わない。
授業のない教室で時計が始業を知らせるチャイムを鳴らす。
走って駅まで行けば、羽田まで30分。
夏男は卒業証書を勢いよく掴み上げた。
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