明日の黒板
オレンジ11
明日の黒板
「ありがとう。でも、ごめんなさい」
その言葉は淀みなく出た。
だって、予想してたから。
卒業式の後、この教室で告白されるんだろうなって。
「私、アメリカの大学に行くんだ。お父さんが米国本社に戻ることになって、家族で移住って感じ」
夏男は、「へ?」と鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
そして沈黙。
気まずい結果に終わった告白の後にもかかわらず、私たちは一緒に帰った。
家がすぐ近くだから。
夏男は歩きながら、「そうかあ、春子はアメリカに行くのかあ」と五回も呟いた。
家の中は雑然としている。
いたるところに船便用の段ボール箱が積み重なり、リビングの床にはスーツケースが六個、開けっ放しで広げてある。
私たち家族はこれから大急ぎで荷造りをし、明日夕方の便で日本を発つ。
片付けの手を休めて縁側に出る。
(桜にはまだ、早いなあ)
そう思って桜の木を見上げた時、向かいのアパートの階段を降りてくる夏男と目が合った。
「……忘れ物! 学校に!」
一瞬、戸惑ったように見えた夏男が、大きな声で言った。
春の夜道は沈丁花の香りがする。
私は思いがけず夏男についてきてしまった。
「こんな遅くに行っても、校舎に入れないんじゃない?」
そうきくと、夏男は得意げに笑ったのだ。
「秘密の入り口、あるんだ。ついて来いよ」
体育館につながる渡り廊下の窓の鍵が一つ壊れていて、なるほど、そこから簡単に校舎に侵入できるのだった。
とはいっても、私は夏男に引き上げてもらったけれど。
夏男の腕は力強く、意外と逞しかった。
「忘れ物って何?」
月明かりの射しこむ教室。
夏男は黙って、黒板に向かった。
そこには卒業式の後にみんなで書いたメッセージ。
夏男のは、左端だ。
『みんな元気で。また会おうな。
夏男』
夏男らしいシンプルなメッセージ。
そう思って眺めていたら、夏男はチョークを右手に握った。
カッカッと響く小気味よい音とともに付け足されていく文字。
『みんな元気で。また会おうな。会えないくらい遠くに行っても、頑張れよ。
夏男』
「……忘れ物って、このこと?」
「うん」
夏男は真っすぐに私の目を見つめた。
私たちはまた、一緒に家路についた。
夏男は、大学はどこに行くのとか、専攻はどうするのとか、色々きいてくれたので、私は答えた。
入学式で隣の席になった時にも、こんな感じで話したのを覚えている。
「どこの中学?」
「セント・メアリー」
「へ?」
「帰国子女なの。アメリカの中学校」
「へー」
夏男、あの日から私のこと好きだったでしょう。
ちゃんと、わかってたよ。
もうちょっとでさよならだね。
寂しいね。
私は海外の方が合ってるんだ。
生まれてから日本に住んだのって、三年だけだし。
だからもう、帰って来ないかも。
そんな私に比べて夏男は、英語が大の苦手だ。
海外で暮らすなんて夢にも思わないだろう。
だから仕方ない。
……なんて考えていたら、その夜は眠れなくなった。
翌日の午前中、私は教室に向かった。
どうしても一言、書きたくなった。
黒板の左端、夏男の書いたメッセージに書き足していく。
バカだな私。
こんなことしても夏男は読まないのに。
『みんな元気で。また会おうな。会えないくらい遠くに行っても、頑張れよ。
夏男、英語、ずっと赤点だったよね』
「……という、謎のメッセージの前で俺が立ちすくんでいたら、かすかに飛行機のエンジン音が聞こえて、窓の外を見上げると、そこには飛行機雲を引きながら消えていくジェット機が見えた。で、ピンときた。そうか、これは春子から俺へ、『英語を勉強してアメリカまで追いかけて来て欲しい』というメッセージだ、って」
流ちょうな英語で、夏男は嬉しそうに語った。
「いい話だねー。でもなんで、夏男は次の日も教室に行ったわけ?」
「いい質問だ、マックス。忘れ物をしたからだ」
「そうかー。あるんだなー、そういうことって。運命だな!」
何も知らないマックスは、素直に感動してくれた。
夏男は妻の名誉を守る優しい夫だ。
だって彼は忘れものなんてしていないのだから。
あの日、空港に着いた直後。
私は夏男にメールしてしまったのだ。
「教室に忘れ物したと思うよ。取りに行って」
(了)
明日の黒板 オレンジ11 @orange11
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