後編

 半鐘と喧騒を背に聞きながら、まだ少女の面影を残す娘は、夜に紛れてある場所を目指していた。商家や家屋敷が並ぶ通りからは少し外れた小高い川沿いの道を、何かを探すように左右を見回しながら小走りに進む。頼れるのは、微かに足元を照らす、月明りだけ。


「……直義なおよし様? 直義様っ?」


 抑えた声で直義の名を呼びつつ、赤くひりつく右腕を小袖こそでの上から隠すように左手で触れる。

 けれど、この焼けた腕の痛みなど、心の痛みに比べれば些末なことだと娘は思う。何より、直義がいると思うとそのことさえ忘れそうだった。


「弥生は、弥生はここにおりますっ。 直義さ……っ、あっ!」


 突如、足がもつれたように弥生が地面へと倒れ込んだ。見ると、あの日と同じように鼻緒が切れている。これは良い前兆なのだろうかと、心細さをごまかすように弥生が下駄を脱ぎ、胸へと抱きしめた。


「……弥生?」


 暗がりからふいに届いた声に、弥生の胸が跳ねた。しかし、それが待ち望んだ相手の声だと分かると、弥生に安堵と明るい笑顔が浮かぶ。確かな約束など交わしていなくてもやはり逢えたのは、自分の想いと直義の想いが同じだったからに他ならないと。


「直義様! ああ、良かった……」


 この日を、直義に逢えることを、どんなに心待ちにしていたことかと、高鳴る胸を押さえると、弥生の目から涙が溢れそうになる。

 座り込んだままの弥生の元へ、春の夜風に羽織をなびかせながら直義が歩み寄って来る。


 一歩、また一歩と直義が近付く度、弥生の胸の高鳴りが強くなる。下駄を抱く手に力が入り、顔に熱がこもる。思わず弥生は顔を伏せた。


「こんな夜半に何故一人で……また、鼻緒が?」


「あっ、はい。お恥ずかしい……」


 驚き訊ねる直義の言葉に、弥生が恥じらいつつ、慌てて下駄を背後へと隠した。


「貸してごらん」


 そんな弥生に、直義が腰を落とし優しく右手を差し出す。直義のいつも力強く真っ直ぐな目に、弥生はますます頰を染める。顔は伏せたまま緊張で震える手で、弥生が素直に下駄を見せた。


「あのっ、直義様……」


 下駄を受け取った直義に、何から話せばよいものかと迷いつつも声を掛けた弥生だったが、そのまま口をつぐんだ。

 弥生の目に、懐から取り出した手ぬぐいをくわえた、直義の姿が映る。


 直義が手ぬぐいの端を噛み切り、細長く裂いて紐状にし、弥生の鼻緒をすげ替えてくれる。その姿は、弥生が望まぬ祝言を挙げた七日程後に起きた火事で、逃げ惑う人々と野次馬の波に押されて迷い着いた、この場所で見た光景と寸分もたがわないように思えた。あの日も、今日のように桜が満開の夜だった。

 あれから二度目の春を迎えたことになる。


 だが、その時ほのかに芽生えた初めての想いは、比べようもない程に大きく膨らみ、弥生の胸の内で今か今かと花開こうとするのを、弥生自身が一番感じていた。


「さ、これで良いか?」


「……あ、りがとう、ございます」


 やがて鼻緒をすげ終えた直義が、弥生に肩に手を置くよう促しながら、下駄を履かせてくれた。直義に触れる弥生の右腕は熱こそ持ちはすれ、痛みは感じない。

 直義が立ち上がり、頭一つ分上から弥生を見つめる。


「弥生とは、初めて会った時もこうだったな。弥生、心配していたぞ。元気にしていたか?」


 直義の笑みと言葉に、弥生はただただ頷くことしかできなかった。自分は今夜、覚悟を持ってここへ来たのだと、改めて思い知らされる。

 でなければ、このような時刻に夫ではない直義と会っている、それ自体が許されることではない。


「それより、今夜の火事は……あれは清史郎せいしろうの所の呉服屋が近いのではないか?」


 直義が川向こうを凝らすように見つめる。橙色に明るむ場所から、時折波のように鐘の音が届き、纏持ちの動きに合わせて、屋根越しに纏の馬簾ばれんが揺れているのが辛うじて分かる。


「弥生……?」


 自らの問いに、風音しか返らない弥生を不審に思ったのか、直義が弥生の名を呼ぶ。弥生は、胸に置く右腕を押さえながら黙って俯いていた。月明りだけでは影となり、直義に弥生の表情を窺い知ることはできない。


「どうした、弥生? どこか具合でも悪いのか?」


「……直義様が。直義様が仰いました……」


 幾度目かの優しい風が互いの裾を揺らした後、弥生が震える声でぽつりと言った。黙ったまま、直義が次に続く弥生の言葉を身動き一つせずに待つ。


「最後に直義様とお別れした時、直義様が仰いました。辛くなったら、江戸の町に紅蓮の紅葉もみじがけぶる時節、満開の桜を思い出せ、と。弥生はずっと、その意味を考えておりました。あれは、直義様と初めてお会いした日のことを思い出せと、そうすればまた逢えると仰って下さったのですよね? だからこうしてお逢いできた……」


 いつの間にか顔を上げた弥生が、微笑みかけるように直義を見る。


 直義の後ろに、弥生がいつか見た紅葉を思わせる橙や赤の光景が広がる。弥生が直義と初めて会った日も、同じように紅蓮の炎が上がる、桜が満開の日だった。今夜の延焼は、どこで食い止められるのだろうか。


 直義が目を見張る。


「ま、さか……あれは、弥生が?」


「……はい」


 それがまるで善行であるかのように、柔らかな声音で弥生が頷く。


「何ということを……っ。火付けがどんな大罪か分かっているのか弥生。それに、清史郎は、店は……っ」


「いりません!」


 直義の言葉に、弥生が激しく頭を振る。


「弥生は、直義様さえいれば、直義様のお側に居られれば、他には何もいりません!」


「……弥生、自分が何を言っているのか分かっているのか?」


「分かっております」と、弥生がこの小さな体のどこにそのような意思を隠していたのだろうかという強さで答える。直義が言葉を失い、ただじっと弥生を見つめる。


「誰も、誰も私の心など解ってはくれません……」


 弥生が今度は打って変わり、弱々しい口調で直義に訴えかける。


「清史郎様は確かにお優しい方です。ですが、私が望んで夫婦になったのではありません。それにもかかわらず、皆がお千代さんがお可哀想だと話していたのを知っています。清史郎様が私ではなく、お千代さんと夫婦になっていればと。私こそ、そうであったならばどんなに良かったかと、ずっと心苦しく思っておりましたのに……」


「千代を、千代を知っているのかっ?」


 弥生の発した名に、弾かれたように、緊張を含む声で直義が訊ねた。


「いえ、お名前だけですが……清史郎様より二つ下の、とても器量の良いお方だと聞き及んでおります」


「弥生は、清史郎が千代と結ばれていればと、そう、本気で申すのか……?」


 弥生にも、加えて訊ねる直義の声が震えているのが分かった。それは喜びから来るものだろうかと、弥生には感じられた。


「はい。直義様が教えて下さいました。一月に一度こっそりと私に下さった文で、春の桜の可愛らしさ、夏の花火のあはれさ、秋の紅葉の物悲しさ、冬の雪の美しさ、そしてその合間の日々に見え隠れする楽しさを。直義様のお心を動かしたものが、弥生の心も動かしておりました。その文を見て、清史郎様と四季の折々を巡る時も、日々を過ごす時も、いつも直義様と同じ季節を感じているのだと、隣にはいつも直義様が居て下さるのだと思っておりました」


 弥生が、一つずつ思い出すかのように話すのを、直義が言葉も無く聞く。

 弥生が次の句を継ぐ前に瞼を一つ瞬かせると、その目に潤んだ輝きが増した。


「直義様が教えて下さいました。誰かの文を待ちわびる楽しみも、どうお返事をすれば良いか思い悩む戸惑いも、ただお顔を見られるだけのことが、どんなに幸せなことなのかも」


 弥生が胸に手を当て、伏し目がちになる。それが最後の言葉を紡ぐ為の仕草であることは、直義ならずとも分かるほどであった。


「そして何より、このような気持ちも……」



 ******



 直義と初めて会った日、弥生が探しに来た清史郎の声に慌てて振り向くと、直義の姿はもう見えなくなっていた。会話らしい会話もできず名も聞けなかった直義が、何故かずっと弥生の心に居座り続けていた。再び会えることを半ば諦めかけていた頃、弥生は直義と再会した。


 店の裏手で、神妙な面持ちで話す清史郎と直義を見掛けた時、弥生は息が止まる程に驚いた。気付いた直義と目が合うと、直義も同じように弥生を凝視していた。


 そこで初めて互いの名を知った。直義は、清史郎の呉服屋も贔屓にしている金物問屋の長男で、清史郎とは同じ歳の幼い頃からの友であった。


 それから程なくして、直義と弥生の文の交換が始まる。


 最初は呉服屋の表で、直義がすれ違いざまに弥生のたもとへ文を忍ばせた。内容は、夜桜には昼間見る桜とはまた違う美しさがあるという他愛もないものだったが、弥生には二人で初めて会った夜のことを言っているのだとすぐに分かった。


 直義の金物問屋への用事があると、必ず女の奉公人と一緒でありはしたが、弥生は喜んで自ら出向くようになった。

 商人と客以上の会話は、二人には無かったが、直義は弥生の姿をみとめると、帰り際には必ず文を忍ばせてくれた。


 いつも変わらず他愛もない内容で、面白い客の話、美味しかった食べ物の話、季節を感じたこと等、様々な内容が短い文章で書かれていた。しかし弥生には、そのどれもが新鮮に感じ、次はどんな内容なのだろうかと、楽しみに待つようになった。


 弥生が返しの文を書くようになったのは、季節が冬に差し掛かる頃になってからだった。


 内容は直義の経験したこと、感じたことを、自分もしてみたい、同じように感じた、そして次はどんな話が聞けるか楽しみだと、たったそれだけの短い文章を、幾日もかけて綴った。いつ直義に会ってもいいように、朝になるとそっと胸元へ返しの文を忍ばせておく。

 そんな毎日を過ごしていた。


 ある日、清史郎にその文が見つかるまで。


 これは誰に宛てて書いたものかと問われても、しどろもどろにごまかしていた弥生だったが、直義に行き着くまで、さほど時間はかからなかった。


 清史郎は、もう二度とこのようなことをしてはならぬと、直義と会うこともやめるように言い、弥生が自分以外と外出することも禁ずるようになった。


 清史郎は、弥生から直義への気持ちごと取り上げた。直義からの文を奪われたことで、弥生はそう感じた。


 そうすることで、弥生の直義への偲ぶ想いは益々深まっていくばかりだったのに。



 直義と文を交わすことも、会うこともできなくなった雪解け間近のある日の早朝、早くに目覚めてしまった弥生が表へ出ると、まだ薄暗く雪の積もる通りに誰かの気配を感じた。


 それが直義だと気付いた時、弥生は直義への言いようのない想いに、涙が止まらなかった。今すぐに、直義の元へ駆け出してしまいたかった。

 しかし、直義はそれを手で制した。

 代わりに、直義は隣の店の看板越しまで来ると、身を隠すようにしながら弥生にだけ聞こえる声で、あの言葉を伝えた。


『弥生、辛くなったら、江戸の町に紅蓮の紅葉がけぶる時節の満開の桜を思い出すんだ』


 それだけ言うと、直義は雪上に微かな足跡だけを残し足早にその場を去った。

 弥生はいつまでもいつまでも、直義の姿が見えなくなっても尚、直義の吐いた白い息とその背の幻影を見送っていた。



 ******



「直義様を、お慕い、申し上げております……」


 弥生の覚悟を決めた強い想いは、涙と共に、直接直義へと伝えられた。


「弥生……」


 弥生には、直義の瞳が揺れたように見えた。

 もう後戻りはできない自分に、きっと直義も応えてくれると信じて疑わない目で、弥生が直義を見つめる。


 直義が口を開いた。いつもの力強く真っ直ぐな目をして。


「お前はいつも俺の心を掻き立てる。それがどんなに狂おしくこの身を焼くのか、お前は知っているか?」


 それは弥生にとって、初めて直義から聞かされる、紛れも無い自身への想いであった。弥生の胸の奥底から、急速に広がったであろう熱を冷ますかのように、川の流れを受けた風が弥生の頬をさらう。


 この先、何があろうと、弥生は直義を信じついていく。弥生の、直義から離さない瞳の色がそう語る。


 対照的に、直義はつと、風上へ視線を流した。その先には、薫るように咲き誇る桜が、月明かりに照らされ怪しく浮かび上がっている。

 直義もまた覚悟を決める為の、僅かな躊躇いであったのだろうか。


 直義の目が、再び弥生を捉らえた。



「今宵は、千代の命日です」



「……え?」


 直義の発した言葉に、弥生は一瞬追いつかなかった。

 直義が、弥生を見据えたまま続ける。


「清史郎とお前が祝言を挙げた七日後に、千代はこの川に身を投げた。俺とお前が初めて会った日の早朝のことだ。そう、丁度この桜の木の下で、千代は冷たい身体で横たえられていた」


 そう言うと、直義が優しく撫でるように桜の木に触れる。

 直義の、夜よりも暗い漆黒の羽織が、夜風になびく。


 直義が幹に触れていた拳を固く握った。


「あいつが……清史郎がお前と出会わなければ、千代は……っ」


 直義の声には、悔しさと怒りがありありと滲んでいた。


「俺は清史郎に何度も言った。勝手に決められた縁組になど従うなと。幼い頃から兄のように慕っていた千代の本当の想いを、お前も知らぬわけではないだろうと。千代だって、家柄としては申し分ない筈だと。それなのに、あいつは……っ」


 直義が、弥生を睨むように見下ろすと、弥生の体が小さく震えた。弥生のその顔に、戸惑いと怯えの色が宿る。先程溢れた涙が一雫、弥生の右手へと落ちた。


「祝言を挙げる幾日か前に思いがけず見かけた弥生に、一目で心奪われたと言ったんだ。祝言の日取りを早めたいとまで。千代の前でっ、俺の前でっ。千代のことは、妹のようにしか思えないのだとっ」






 祝言を挙げた日の夜、二人だけになった時、清史郎は今にも泣き出しそうな弥生に言った。


『弥生、私たちは今日が始まりだ。これからゆっくり互いを知っていこう』


 そう言い、弥生が眠ってしまうまで、自身の幼い頃の話を面白おかしく聞かせてくれた。

 毎日、少しずつ、今夜も。いつからかそれを、素直に聞き入れられなくなっていると弥生が感じているとも知らずに。

 いや、もしかすると、清史郎は気付いていたのかもしれない。





 弥生に、聞こえる筈のない清史郎の声が聞こえる。


『弥生、直義と関わってはいけない。会うこともやめるんだ。弥生は何も心配することはない。弥生はただ、私を信じていればいい』




 取り返しの付かない、このような段になって弥生はやっと気付く。弥生から直義の文を取り上げた時の、あの清史郎の言葉は、嫉妬などではなかったのだと。


「俺はずっと憎んでいた。千代ではなくお前を選んだ清史郎を。お前が俺から千代を奪った相手だと分かった時、俺はお前に憎しみしか沸かなかったよ。清史郎共々、どうやって傷付けてやろうかと、そればかりを考えていた」


 醜く変貌していく直義の顔を見つめ、弥生の目から別の涙が溢れ始めた。


「清史郎が千代と結ばれていればだと? 弥生、お前がっ、お前がそれを言うなっ! お前に千代の気持ちが分かるか? 俺のっ、千代に届かなかった、この苦しい胸の内が分かるのか? 俺が欲しかったのは、お前ではなく、千代の心だったのに……っ」


「直義、様……」


 弥生には、直義の目に黒く冷たい炎が灯ったように見えた。


「なんとあつらえ向きな日を選んでくれたんだ。お前は最高だよ、弥生。お前の俺への気持ちが分かるようになった時、俺は愉快で愉快で仕方がなかった。お前が清史郎を裏切る、それだけでも十分だったのに、最後の賭けのつもりで伝えた俺の言葉も、違わず解し、こうして成し遂げてくれるとは。まったく、千代へのいい弔いになる」


 直義が狂ったように笑うのを、弥生はただ、火傷を負った右腕が、酷く痛むかのような表情で見続けることしかできなかった。



 ふいに直義が弥生の背後へ回り、左腕で弥生の肩を抱いた。

 背中で感じる直義の初めての温もりに、弥生は今、何を思うのだろうか。


 直義が持つ懐剣ふところがたなの刃が、ヒタリと弥生の雪のように白い首筋に当てられる。

 それは、弥生の下駄の鼻緒をすげ替えた手ぬぐいと、同じ場所から取り出されたものだった。


 月の光を反射しながら、鋭い刃が、何の迷いも躊躇いもなく、憎しみと、確かな殺意を持って、冷たく触れる。


 直義が、弥生の耳元で囁く。


「弥生、お前など千代の代わりになりはしない。俺が見繕ったこの千代の形見で、千代の痛みを知るがいい。清史郎も、大事な者を失う辛さを思い知ればいいっ」




 纏は、火消しの命を賭した誓い。

 ここで必ず、この炎を食い止めると。




 弥生は、声を上げることも、抗うこともしなかった。

 その表情は、今ここで直義の歪んだ漆黒の炎を止められるのは、自分の生命いのちだけであると悟っているかのようでもあった。


 ならば、止めるしかないと。


 この冷たい夜気を孕んだ優しい風では、決して消せはしないのだから。



 微かに震える両の瞼を、弥生が息を止め、静かに閉じた。



「千代のように、孤独に——っ」



 哀しく響くあれは、弔いの鐘なのだろうか。それは果たして、誰の為か。

 千代か、この火で失われゆく者へか、許されざる大罪を犯した弥生へか、答えてくれる者は誰もいない。


 ふいに散り始めた数多の桜が、直義と弥生を包むように舞う。それはまるで、千代の意志のようでもあった。


 やがて、懐剣を握る直義の袂が、風とは逆の方向へ揺らめき始めた瞬間、


「……様」


 弥生が小さく誰かの名を呼んだが、それは直義にしか聞こえなかった。

 二人の足下へと向かう花びらが、一瞬、不規則な流れを作って舞い落ちる。




 春の夜に燃え上がった炎は消えたのであろうか。



 遠く、半鐘の音が聞こえる。

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仲咲香里 @naka_saki

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