仲咲香里

前編

 遠く、半鐘のが聞こえる。

 今宵も何処かで、火の粉が舞っているのだろうか。

 男はそれを、真っ白なもやのかかる夢の中で聞いた。


 火事と喧嘩は江戸の華。


 そう、この町ではよくあることの一つだ。

 共にいる限り、火事であろうと何だろうと、男は身を呈して守ると誓った。

 あの日、あのさかずきに。

 十五歳の娘にとって、それが望まないものであったとしても、男にはそれ程の覚悟があった。


「……様。若旦那様っ!」


 襖の向こうの慌ただしい気配と、自身を呼ぶ尋常ならざる声で、男ははっとして目を覚ました。

 急ぎ起き上がり、声のした方を見る。


 と同時に、男の耳にも、近場の火の見櫓から幾度も打ち鳴らされる半鐘が届き、瞬時に現実へと引き戻された。

 乱打される半鐘は、火事場が近い合図だ。


虎鉄こてつか?」


「はいっ」


 声と共に襖が開け放たれ、男の目に見慣れた奉公人の恐怖に震える顔が覗いた。誰のものともつかぬ悲鳴と怒号が飛び交い、焦げ臭い匂いが鼻をつく。


「若旦那様っ! お急ぎ下さい! 火事で、火事でございます!」


 虎鉄のその表情で、事の重大さが窺い知れる。余程の大火か、はたまた相当に火事場が近いのだと男も素早く立ち上がった。


「店の裏手から火の手が上がったようです! じきにこちらへも回って来ますっ。皆既に逃げ始めております故、若旦那様も早くっ」


「この店からっ? とにかく分かった!」


 大旦那となる祖父の代で始めたこの呉服屋に、孫にあたる男の知らぬ場など無い。店の裏手に火の手が上がるような場所などどこにも無いことも。とすれば、失火によるものか、若しくは放火か。どちらにせよ、今は逃げるのが先決だと男の顔が切り替わった。


「虎鉄、大福帳はどうしたっ?」


「それなら手分けして真っ先に井戸へ! あれは店の命です。ところで、あのっ、若旦那様、御新造ごしんぞう様は?」


弥生やよい? 弥生ならここに……」


 虎鉄の問いに、男が妻のいる隣へ視線を落とす。しかしそこに、弥生の姿は無かった。確かに一緒に床に就いた筈なのに、今は掛けていた夜着だけを残し、正にもぬけの殻だった。


「……弥生? 弥生ーっ!」


 男の声に、しかし返る言葉は無い。


「若旦那様、とにかく今は一刻も早く外へっ」


 虎鉄に腕を引かれ、無理矢理外へと連れ出された男が後ろを振り向くと、既に火の手が屋根を覆い尽くそうとしていた。

 熱い空気と、真っ赤に燃え上がる炎、夜空へもうもうと立ち昇る黒煙が男の視界を支配する。

 その炎と黒煙の合間に、時折、火消しが振るうまといがちらつく。

 逃げ惑う人々の声と、耳をつく警報、木材が焼け落ちる音に混じり、まともに息することさえままならない匂いに襲われると、男は、全身を走る恐怖に足がすくんだ。


「若旦那様っ、こちらへ、早くっ!」


「誰か、弥生を見た者はいないかっ? 弥生は、弥生はどこにいる!」


 男の問いに、すれ違う者は皆、首を横に振るばかりだった。


 ひとしきり探し回った後、男がもう一度屋敷へ視線を戻すと、先程まで自身のいた部屋へも火の手が回り始めていた。木造の建物と密集した町作り、加えて春特有の南からの風、一度ひとたび火が点けばそれがどんなに恐ろしいものか、この町に住む者なら誰もが知っている。


 男の眼前で、炎の放つ熱風が近付く者を拒むように吹き荒れる。


「若旦那様っ。火が出る前、店の方へ向かう御新造様を見た者がいると。おそらくもう逃げられているとは思いますが……あっ、若旦那様お待ちをっ!」


 虎鉄の制止は、確かに男にも届いていた。しかし、何かを決意したように男が向かったのは、燃え盛る炎の中だった。


 男は、弥生と祝言しゅうげんを挙げた日のことを思い出す。白無垢姿の弥生は本当に可愛らしかったと。


 ——私は、例え全てを失おうとも、お前だけは失くすわけにはいかない。


 それが店の為、父に決められた縁組であったとしても、男にとっては違っていた。五つも下の弥生のことを、あの盃に誓って、生涯でたった一人守り抜くと覚悟した。


 ——周りがどんな目でお前を見ていたとしても、私は、私だけは……っ。



「若旦那様、いけませんっ! お戻り下さい! 若旦那様ーっ!!」



 ——お前のことを、心の底から恋しいと思っていたと、伝えられていただろうか。



 虎鉄の声と男の姿が、虚しく炎にかき消される。

 直後、虎鉄の目の前で、轟く雷鳴が如き音を立て屋敷が半壊した。

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