僕も、あなたの事が好きです

夢科緋辻

僕も、あなたの事が好きです

 横開きの扉から、僕は図書室へと入っていった。

 真っ赤な西日に照らされた室内に他の生徒はいない。最終下校時刻までは残り十分程度。すでに対応時間外であり、中にいた生徒はみんな帰ってしまったのだろう。実際、僕だって駄目元でやって来ていた。


 教室二つ分くらいの広さで、中央には自習をする生徒のために大き目の丸机が二つ置かれている。部屋の両端には天井まで届く本棚が並べられ、所々に置かれた観葉植物が彩りを添えていた。先程まで利用されていた事を疑いたくなる程に静かな室内では、夕日を受けた本棚や調度品が長い影を伸ばしているだけ。まるで世界から忘れられてしまったようだと思うのは、僕の感受性が豊かなせいだろうか。


「あのー、もう受付時間は終わってますよ」


 入口近くにあるカウンターから誰かに話しかけられる。振り向いてみれば、セーラー服を着た黒髪の少女が僕を不思議そうな目で見ていた。図書当番の生徒だろうか。随分と小柄だけど、履いている上履きの色から判断するに僕と同じ二年生だ。


「すいません、できれば今日中に返却しておきたい本があって。どうしても無理ですか?」

「うーん、本当はダメなんですけど……せっかく来てくれたんですし、今回だけ特別ですよ」


 黒髪の少女はにこりと柔らかく微笑んだ。僕は軽く頭を下げてお礼を言いながらカウンターへと向かい、通学鞄の中から一冊の本を取り出した。空のようにあおい装丁のハードカバーだ。


「この本……!」


 受け取った黒髪の少女が両眼を見開いた。思わずといった様子で僕の顔を見上げて、少し恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに頬を緩める。大切そうにハードカバーの表紙を撫でるその姿からは、まるで我が子を愛でる母親のような温かみを感じた。


「もしかして、君は……?」


 脳裏を過ぎる一つの予感。カウンターの端に置かれた『今日の図書当番』という立て札に記された名前と彼女の反応から、僕は目の前にいる少女がであると確信した。


 躊躇は、一瞬。

 痺れそうになる唇を必死に動かして、言葉を紡いでいく。


「僕も、この小説が好きなんだ」

「本当? 嬉しい、私の他にかざ作品を読んでいる人はいなかったから」


 僕が勇気を振り絞って話しかけると、黒髪の少女がぱあと顔を明るくした。

 僕と彼女は他の生徒が帰った後の図書室で、カウンター越しに小説の感想を言い合った。五分にも満たない短い時間。それでも僕の心は空に飛んで行けそうな程の昂揚感に支配されていた。


 だが甲高いチャイムが鳴り響き、和やかな時間はすぐに終わりを迎えた。最終下校時刻まで残り五分である事を伝える予鈴だ。図書当番である彼女は戸締まりをして、鍵を職員室に返しに行かなければならない。これ以上の長居は迷惑になってしまう。


「話しかけてくれてありがとう、今日は楽しかった。また、感想を言いに来て。私、毎週月曜日が図書当番だから」

「わかった、じゃあまた来週」


 これがえきさんとの出会い。

 新年度の始業式から一週間が経過した放課後。新しい予感に満ちた四月の出来事だった。



       ×    ×    ×



『僕も、あたなの事が好きです』


 最後の一文を読み終わった僕は、空のようにあおい装丁のハードカバーを閉じた。全身に沁み込んでいく余韻を噛み締めて、自室のベッドにごろんと横になる。天井で輝く電灯の光を隠すように本を両手で持ち上げた。


「やっぱりいいよな、この本」


 手を繋ぐ男女と様々な形の雲が描かれた表紙。題名は『雲の気持ち』。お互いの事を意識している高校生の男女を描いた恋愛小説である。物語の冒頭でヒロインが告白し、最後の一文で主人公が返答するという一風変わった構成が話題になって、小説好きの中で少しだけ話題に挙がった。ファンの間では『僕も、あなたの事が好きです』という最後の一文が有名で、『雲の気持ち』の代名詞にもなっている。

 特徴は二人の距離が縮まっていく様子を色々な空模様を使って表現していること。まるでその場所にいると錯覚するほど真に迫る情景描写が好きで、僕は何度も読み返しては心地の良い読後感を味わっているのだった。


 本当は誰かとこの感動を共有したいのだけど、男のくせに恋愛小説が好きなんて恥ずかしくて言えない自分が邪魔をしていた。そもそも著者の『かざユウイチ』はあまり有名ではなく、僕の高校でも読んでいる人はあまりいないんだろう。仲間を探し出すような行動力はなく、ネットで感想を検索して、名前も顔も知らない誰かの書き込みを読んで満足しているのが現状だった。


「(明日、学校でまた読み直そう)」


 ベッドの近くに置いてある通学鞄に本を詰め込んで、僕は寝返りを打つ。ひんやりとした低反発マットの感触が気持ちいい。時刻はすでに午前一時を回っていた。調子に乗って読み過ぎてしまったらしい。そろそろ寝て月曜日に備える必要がある。


 白い壁に掛けられているのは十月のカレンダー。紅葉に色付いた山脈の上空写真が印刷されている。つい先日までは残暑が厳しかったのに、十月になった途端に肌寒さを感じるようになった。夏から秋へと季節を切り替える事を忘れた神様が、慌ててスイッチを入れたのではないかと疑いたくなる程の豹変ぶりである。


「(もう冬服を着ていこうかな)」


 開きっぱなしのクローゼットに掛けられた冬服を見ながらぼーっと考えた。視界の端に勉強机が入り込む。乱雑に積まれた参考書や教科書が目に入って、ふと英語の小テストの存在を思い出した。


「(英語は確か、みや先生だよな……?)」


 中年の男性教師で、僕が所属している整美委員会の顧問をしている。生粋の読書家らしく、特にミステリー好きで有名だ。自称『名探偵』。前期期末試験で英語の長文問題をミステリー小説を使って作成し、平均点を例年より十点も下げたあの事件は記憶に新しい。


「(……まあ、明日の朝にやればいいか)」


 今は心地良い読後感に包まれていたい。

 ベッドの縁に端に置いてあるリモコンに手を伸ばし、部屋の電気を消す。墨汁を零したように黒く塗り潰される視界。レースのカーテンから差し込む月明かりだけが、黄金に夜闇を引き裂いていた。



       ×   ×   ×



 翌朝、僕は欠伸をしながら通学をしていた。

 薄い雲が長く伸びた高い青空。東から住宅街を照らす太陽も、その輝きはどこか控えめで、悪意を持って世界をいていた先月までが嘘のようだ。夏休みに遊び過ぎて疲れた子どもみたいだと思うと少し可笑しかった。


 多くの生徒に混じって、僕は校門を抜けた。

 野球部やサッカー部のボールがグラウンドから出ないように張られた緑ネットの下で、朝練途中のバレー部員が声を出してランニングをしている。校内に植えられた桜の木からも葉が散り始めており、手持ち無沙汰な梢が寒空に伸びていた。

 残暑厳しい時期に行われた体育祭と文化祭も終わり、校内の雰囲気は衣替えに合わせて変化していた。落ち着いたというよりは、寂しくなったという表現の方が正しい。時折吹く冷たい北風も相まって、冬の気配がすぐ近くまで迫ってきている気がした。


 自転車置場を横目に捉えながら生徒玄関へと入っていく。下駄箱に靴を入れてスリッパを取り出し、緑色のリノリウムの床を踏んだ。

 どこにでもあるような県立高校だ。偏差値も普通。僕は自宅から一番近く、中学校からの友人が行くという理由で進学した。


「あ、そうか。今週は特集があるのか」


 生徒玄関正面の壁に掲示板がある。緑色の柔らかい材質の壁に何枚も用紙が画鋲で貼られていた。僕が気になったのは図書委員会からのお知らせだ。この学校では二週間に一度、図書委員による推薦本の紹介が行われる。その告知記事が目に入り、自然と一人の名前を探し始めた。


『推薦本:答えを聞かせて 推薦人:佐伯結』


 目的の名前を見つけて、僕は少しだけ嬉しくなった。


「(えきさん、今回も推薦人になってるんだ)」


 推薦人は図書委員内で順番が決まっている訳ではないらしい。実際に佐伯さんは七回連続で推薦人になっている。


「(だけど意外だな、今更この本なんて)」


 発売自体はもう何年も前の小説だ。著者は『雲の気持ち』と同じかざユウイチ。しかもデビュー作である。ファンの間では不朽の名作として根強い人気を博していて、僕も購入して読んでいた。推薦本として妥当だと思うけど、何故もっと最近のものではなくデビュー作を選択したのか気になった。


「……あの、」


 すぐ近くから聞こえてきた声に反応して、僕は視線を向ける。


 そこには黒いセーラー服を着た一人の少女がいた。

 腰まで伸びる濡れ羽色の髪。触れれば折れそうな華奢な身体は氷細工と見紛う程に繊細で、幼く純粋な顔付きは穢れを知らない新雪のようだ。僕の胸元までしかない背丈のせいもあって中学生に見えなくもない。少女が纏う物静かな雰囲気は、秋の長い夜に鈴虫が鳴くすすきの平原をイメージさせた。


「(佐伯、さん……?)」


 目が合った瞬間、僕は言葉を忘れて立ち尽くしてしまった。まさかこんな場所で出会うとは思っていなかったからだ。


「……えと、その」


 何か言わなければならない。

 そう思った僕は必死に口を動かす。それでも喉に石が詰まっていると錯覚する程に言葉は出てこない。こんな時に気の利いた事を言えない自分が情けなかった。


「今日の放課後も、図書室に来るの……?」


 僕が唇を半開きにして固まっていると、佐伯さんが鈴の音を思わせる可憐な声で訊いてくる。恐る恐ると言った控えめな口調。僕を見詰める瞳は、何故か大海原に落ちた満月のように揺れていた。


「もちろん、今週も行くつもりだよ」


 考える間もなく頷く。


「そう……良かった」


 安堵に胸を撫で下ろした佐伯さんが長く息を付く。そして、野に咲く花のように可愛らしい笑みを浮かべて言った。


「じゃあ、待ってるから。絶対に来てね」


 念を押すように告げて、一度だけじっと僕の瞳を見詰めると、タタタと小走りで隣を駆け抜けていく。振り返るけど、呼び止めるだけの度胸が僕にはなかった。佐伯さんの動きに合わせて長い黒髪が上下している。すぐに廊下を歩く他の生徒に紛れてしまった。


「(一体なんだったんだろう? 今まで図書室で会うのに約束なんてした事なかったのに)」


 僕と佐伯さんの関係は少しだけ変わっている。

 クラスも別で、委員会や部活といった所属している全てのコミュニティで一緒になった事がない。それでも僕達は図書館という場所で繋がっていた。


 きっかけは推薦本。四月、佐伯さんが『雲の気持ち』を紹介した事だった。偶然にも図書室で出会って意気投合。それ以来、毎週月曜日の放課後は図書室で過ごすようになった。

 最近読んで面白かった本、子どもの頃に読んだ本。生徒がいなくなってから最終下校時刻の予鈴が鳴るまでの数分間、僕は佐伯さんと小説の話をした。僕にとっては初めてできた読書仲間。始めの頃は感想を言い合うだけで満足していた――そう、始めの頃は。


「……恋愛小説の読み過ぎかな、煩悩に溢れてる」


 通学鞄を持ち直して、三階にある二年B組の教室へと向かう。


 読書仲間である佐伯さんと小説の話するため。

 いつからだろう、それを建前にして図書室に行くようになったのは。包み隠さずに本音を言うのなら、僕は佐伯さんの事が気になっていた。この気持ちが恋かどうかで悩むなんて、まるで自分が恋愛小説の登場人物みたいだ。


「(だけど佐伯さん、本当に色んなジャンルを読むんだな)」


 今回の推薦本で七回連続の紹介になるけど、そのどれもが別々のジャンルだった。毎回推薦本を借りて感想を言っている僕もさすがに驚きを隠せない。


『あしたの空』という青春小説に始まり、次が『ナイト・オブ・ブリテン』というファンタジー。『たらこ唇』という恋愛小説が来たと思えば、『がいこつの海』というSFになった。続いて『好美探偵事務所の事件簿』というミステリーが来て、最後は『キミの後ろに居る』というホラーだった。見事にバラバラである。


「(今回の『答えを聞かせて』はかざ作品だし読んだ事があるけど、せっかくだし借りて読み直そう。佐伯さんに感想を言うのが楽しみだ)」


 朝日に彩られた廊下を歩いていると、わいわいと賑やかな朝の喧騒が教室の白い壁から染み出してきた。すれ違う生徒はみんなどこか慌ただしい。火災報知器の赤いボタンを横目に捉えつつ、僕は二年B組の教室に入った。


「……あ、英語の小テスト」


 友人が英単語帳を広げているのを見て思い出した。まずい、英語の授業は一限だ。今からやって間に合うだろうか。焦燥感に胸を詰まらせながら、僕は急いで自分の席へと向かった。



      ×    ×    ×



「珍しいね、君が追試を受けるなんて。初めてなんじゃないかい?」


 放課後。

 準備不足により小テストに落ちた僕は追試を受ける事になった。四限の古典の授業中に頭に詰め込んだ甲斐もあって無事に一発合格。教室から出ようとした時に、小宮先生に話しかけられたのだ。

 丸眼鏡を掛けた小太りな中年男性。丸っこいシルエットも相まって、遊園地テーマパークを歩く着ぐるみのような愛嬌を感じる。何となくフライドチキン好きの有名なオジサンが頭に浮かんだ。


「そうですか? 僕だって偶には失敗しますよ」

「偶には、か……そうだね、じゃあどうして追試を受ける事になったか推理してあげよう」


 くいっ、と小さな丸眼鏡を太い中指で持ち上げた小宮先生の両眼に鋭い光が宿る。


「ずばり、昨日は遅くまで本を読んでいたんじゃないかい?」

「どうして、そう思うんですか?」


 見事に当てられた驚きを表情に出さないように気を付けながら、僕は平静を装って訊ねた。


「君は一限の私の授業で眠そうにしていたよね? つまり何らかの理由で寝るのが遅くなってしまったんだ。加えて普段は真面目な君が追試になったということは、小テストの勉強を忘れるほど何かに熱中していた事になる。君が読書好きだという事は知っているからね、時間もテスト勉強も忘れてしまう事と言えば読書しかないと考えた訳だよ」

「……お見事、完璧に合っています。流石ですね、小宮先生」

「なーに、簡単な推理だよ。それから、私の事は『名探偵』と呼びなさい」


 ふっふーと得意げな顔になった小宮先生は、脂肪で膨らんだ胸を張った。


「それでね、名推理を披露してあげたお礼として、一つだけ依頼を引き受けて欲しいんだ」


 そう言うと、『整美委員会倉庫』とタグのついた鍵を僕に差し出した。


「本来なら体育倉庫にあるべきものが、間違って整美委員会の倉庫に片付けられているんだ。それを元に戻して欲しい。私がやるべき仕事なんだけど、少し立て込んでいてね」 

「それは、いいですけど……」


 ちらりと黒板の上にある時計へ視線をやる。

 佐伯さんと放課後に図書室で会う約束をしているが、それは最終下校時刻の直前だ。まだ一時間以上ある。頼み事を引き受けても遅れる事はないだろう。


「分かりました、それで何を運べばいいんですか?」


 小宮先生が差し出した鍵を受け取り、運ぶ物をスマホのメモ帳に書き記した。どうやら白線を敷く時に使う石灰の袋が間違えて入れられているらしい。スマホをズボンのポケットに入れて、通学鞄を手に持った。


「作業が終わったら、私に鍵を返しにきてくれ。職員室で仕事をしていると思うから。ああそれと、作業は少し急いだ方がいいかもしれないな。体育倉庫を使う陸上部なんだけど、月曜日は部活を早めに切り上げるらしいから。今はまだ体育倉庫も開いているだろうけど、遅くなれば閉まってしまうだろう。そうなると面倒だよ」

「分かりました、すぐに取り掛かります」


 僕は教室を後にして、放課後の廊下を進む。生徒玄関から外に出ると、秋の高い風に乗って吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。グラウンドでキャッチボールをする野球部を眺めながら教員用の駐車場を横切り、体育館へと向かう。

 整備委員会の倉庫は体育館の一階部分にある。ダム、ダム、とバスケットボールが跳ねる音が聞こえてくる中、マンションのように横一列に並んだ扉から整美委員会を探し出す。小宮先生から借りた鍵を使って、体育館と同じく金属製の扉を開けて中に入った。


「これか」


 ごちゃごちゃと物が置かれた薄暗い倉庫内に、石灰と書かれた大きな袋が置かれていた。想像していたよりも大きい。10kgの米袋くらいか。試しに持ち上げてみると、膝を曲げて力を入れるせいか、ズボンが引っ張られてポケットに入れてあるスマホが足に食い込んだ。


「入れっぱなしだと痛いな……」


 内ポケットなども考えたが、作業中に落として画面が割れる事は避けたい。通学用の鞄に入れてここに置いておこう。時間なら腕時計で確認できる。


「さて、始めますか」


 体育倉庫はグラウンドの傍ではなく、陸上部が使う競技用トラックの奥にある。この場所からは400メートルくらい離れた学校の敷地の端だ。僕は気合いを入れて石灰の袋を両手で持ち上げて、ゆっくり歩き出した。



        ×   ×   ×



「これで、最後……!」


 両手で抱えていた石灰の袋を、僕は体育倉庫の奥にある『石灰入れ』と書かれたプラスチックの箱に入れた。一息付こうと思って、走り高跳びで使う緑色の太いマットに腰を掛ける。鼻孔に貼り付くのは赤いラインマーカーから漏れ出した石灰の匂いか。体育祭で綱引きをした後の両手を思い出す。薄暗い室内を照らすのは高い位置にある窓から差し込む真っ赤な夕焼けだった。


「(かなり時間が掛ったな、急いで戻らないと)」


 腕時計を見ると、最終下校時刻までは残り三十分だった。あまりゆっくりしている時間はない。立ち上がろうと両足に力を入れた——直後だった。


 ガララ! と金属製の重たい扉が音を立てて閉まった。


 外からの明かりが遮断され、室内が一気に暗くなる。訳が解らず呆然としていると、ガチャンと重たい音が響き渡った。それが鍵の締まる音だと気付いた瞬間、猛烈な危機感が脳天から僕の全身を貫く。慌てて立ち上がって閉められた扉に駆け寄った。


「ちょっと、待って! まだ中に人がっ!!」


 ガンガンと硬い扉を叩いてみるも、外からの反応はない。鍵を締めた陸上部員が走り去ってしまったのか? 体育倉庫は学校の敷地の端にある。早めに部活を切り上げた陸上部員が去ってしまえば、明日の朝練の時間まで誰も体育倉庫には近づく事はないだろう。スマホは整美委員会の倉庫に置いたままで、誰かに助けを求めようにも方法がなかった。


 さぁ、と顔から血の気が引いていく。

 縋るような想いで薄暗い室内を見回す。分厚い金属製の扉の内側に鍵は付いていない。人が出入りできるような窓も天井付近の高窓しかない。何か役に立ちそうな物を探そうにも、あるのはハードルやサッカーボールと言った体育の授業で見慣れた物だけ。特に脱出で役に立ちそうな物はなかった。走ったせいで足下に零れた石灰が舞い上がったのだろう。吸い込んでしまい、盛大に咳き込んだ。


「そんな……これじゃあ、出られない」


 絶望した僕は再び太いマットに腰を掛けて、頭を抱えた。


「図書室で会うって、佐伯さんと約束したのに……っ!」


 高い位置にある窓から差し込む夕日には、夜の色が混ざり始めていた。


 今まで一度もしていなかったのに、わざわざ会う約束をした。つまり佐伯さんには何か僕に伝えたい事があったのだ。そんな彼女の想いを踏みにじってしまうと考えるだけ胸が張り裂けそうに痛んだ。

 問題はそれだけじゃない。本当にこのまま誰にも気付かれなければ、僕は今晩この場所で夜を明かす事になる。冗談でも笑えない。想像しただけでも恐怖で全身が粟立って、バクバクと猛烈な速度で心臓が脈を打ち始めた。


 何度も腕時計を見ては、絶望して頭を抱える。そんな無意味な行動を繰り返す事しかできない。このまま暗闇に意識が溶けていくと錯覚し始めた時だった。


 ガララ! と重たい金属の扉が唐突に開いたのだ。


「やっぱり、ここにいたね」

「小宮、先生……っ!?」


 茜色に染まった空気を背に体育倉庫を開けたのは、小太りで丸眼鏡を掛けた小宮先生だった。胸の奥から込み上げてくる安堵が、全身の緊張を解していく。


「どうして、ここが……?」

「なーに、簡単な推理だよ」


 太い中指でくいっと丸眼鏡を持ち上げた。


「整美委員会倉庫の鍵が帰ってこないから不審に思ったのさ。真面目な君が返却を忘れて帰ってしまうとも考えにくい。それで様子を見に行って、扉が開きっぱなしの倉庫の中に君の通学鞄とスマホが置いてあったからピンと来たよ。何か不測の事態に巻き込まれているとね。後は簡単だ、君の行動を予想すれば自ずと正解に辿り着く」


 ふっふー、と得意げな顔になって、脂肪で膨らんだ胸を張った。


 僕は急いで整美委員会倉庫の鍵を小宮先生に渡し、通学鞄を受け取ると、体育倉庫から飛び出した。新鮮で冷たい空気を肺一杯に吸い込んでから腕時計を見る。最終下校時刻まではまだ十五分だけ残っていた。


「ありがとうございました、小宮先生……いや、名探偵!」

「分かればいいのだよ、さあ行きたまえ」


 満足そうに頷く名探偵小宮を背にして、僕は陸上部が使うトラックの中央を一直線に駆け抜けた。スパイクを使って走る硬い地面を運動靴で蹴り飛ばす。イメージするのは短距離走者スプリンター。今ならオリンピックにだって出られそうな気分だった。

 夕焼けに染まる秋空には東の空から濃い藍色が押し寄せていた。あの淡い輝きは一番星だろうか。薄らと浮かび上がるまるい月が夜の訪れを告げているようで、僕の気持ちを急かしてくる。


 図書室があるのは校舎の四階だ。生徒玄関から校舎に入って、一段飛ばしで階段を駆け上がる。何とか最終下校時刻の十分前に、図書室の前に辿り着く事ができた。


 深呼吸をして、上がった息を落ち着ける。

 横開きの扉を開けた。飛び込んでくる紙の匂い。換気のために開け放たれた窓からは夜の滲んだ茜色が差し込んでいる。本棚や机から伸びる長い影の輪郭も、木目調の床に染み付いた薄闇に溶けかけていた。

 秋の冷たい風に揺れるレースのカーテンを見ながら、僕は歩いていく。誰もいない静かな室内。耳を澄ませば蔵書達の寝息が聞こえてきそうな気がした。


「良かった、来てくれたんだね」


 カウンターに座っていた佐伯さんの顔が安堵に綻んだ。柔らかい眼差しで僕を見詰めていたが、すぐに目を逸らして前髪で顔を隠すと、両手で何かを抱えてトテトテと近づいてくる。夕焼けを受けた白い頬は、ほんのりとあかく色付いていた。


「あの、これ……!」


 そう言って差し出したのは一冊のハードカバー。淡いピンク色に装丁された表紙には『答えを聞かせて』と丸みを帯びた文字が印刷されていた。


「これは、今回の推薦本……でも、どうして?」

「えと、あの……っ」


 何かを言いたそうにあどけない唇をぱくぱくさせるけど、なかなか言葉は出てこない。俯いたまま目を泳がせているのか顔が左右に揺れていた。


「思い出して、欲しいのっ」


 意を決した様子で佐伯さんが顔を上げる。前髪が左右に流れ落ちて、艶のある黒絹が茜色を反射した。普段は触れれば折れそうな程に繊細な雰囲気で、まるで氷細工のように華奢だと感じていたけど、今こうして正面から向かい合う彼女の佇まいは、決して折れない芯に支えられていると思う程に力強かった。


「推薦本……順番通り……頭文字……それが、私のっ!」


 熱っぽい声にドキリとする。

 佐伯さんは真っ直ぐ僕を見詰めていた。夕日を湛えた瞳がきらりと光る。ぎゅっと真一文字に噤まれた口許に、きりっと持ち上げられた柳眉。揺れ動く瞳を逸らさずに、じっと僕の反応を待っている。


「(佐伯さんの推薦本で、頭文字……? それって、確か)」


 あしたの空。

 ナイト・オブ・ブリテン。

 たらこ唇。

 がいこつの海。

 好美探偵事務所の事件簿。

 きみの後ろに居る。


 「(あなたが好き……?)」


 僕は言葉を失って立ち尽くした。

 気を抜けばふわふわと両足が床から離れていきそうだ。胸を突き抜けるのは雲一つない秋晴れのように爽やかで、山々を染め上げる紅葉のように鮮やかな感情の奔流。真冬の冷たい夜に風呂に入ったような心地良い温もりが全身に広がっていく。


「(そうか、だから今回の推薦本は――)」


 答えを聞かせて。


 佐伯さんが白魚のような指で持っているハードカバーの題名を見て、僕は全てを得心した。

 ならば彼女の想いに応えなければならない。考えるまでもなく答えは決まっていた。胸の中に溢れる想いを口にしようとした瞬間に、ある閃きが僕の脳裏を過ぎる。


「佐伯さん、これが僕の答えだよ」


 そう言って、僕は鞄の中から『雲の気持ち』を取り出して、佐伯さんに手渡した。


 

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