「言えない気持ち」③

 放課後。悠は一人、校門から出て帰途についていた。隣に美羽はいない。


 帰り際、他の女子に「カラオケ寄らない?」と誘われて、「行く行くー」と飛び跳ねた美羽は、「ごめんね、悠ちゃん。先に帰ってて。遅くならないようにするから、晩御飯は待っててね」と言い残し、さっさと教室を飛び出して行った。


 一学期終了間際から、良くあることだった。中学以来の友達がほとんどいないこの学園においても、美羽はすぐに人気者となっていた。


 海星学園は全国屈指の進学校で、その門は狭い。


 悠は小学生の頃から、この学園に通うことを夢見ていた。なぜなら、小中学校の知り合いが、ほとんどここには入れないからだ。

 ここに入れば、自分を“虐めていた者たち”から逃げられる。そうなれば、きっと新しい、楽しい生活を送ることが出来るようになる。

 それは“逃避”に過ぎなかったが、悠にとっては“夢”であり、“希望”だった。悠は“夢”のため、一生懸命に勉強したのだった。


「おい、神原」


 悠が見つめる地面に、茶色いローファーが現れた。アスファルトの砂をじゃり、と踏むその足は、悠の正面にある。悠は足を辿って視線を上げてゆく。


「なに、高峰くん?」


 悠は腕を組んで自分を見下ろす高峰に尋ねた。

 高峰は背が高い。悠より一五cm以上高かった。高峰は着崩した制服でゆらりと悠に近付くと、ぴんぴんと外向きに跳ねた長い赤髪を、無造作にかき上げた。


「今日は一人でお帰りか?」


 高峰の後ろにも二人立っている。二人とも一年三組のクラスメイトだ。辺りを見回して確認する三人の顔には、底意地の悪い笑顔が張り付いていた。


「うん」


 悠は短く返事をして頷いた。すでに嫌な予感がしていた。小中学生の時に良く感じた空気だ。


「そうか」

「う」


 高峰はにやりと口端を歪め、悠の肩に腕を回した。そのまま舗装もされていない横の小路へと悠を引きずり込む。他の二人は悠の背中を手で押した。五分ほど奥に進んだところにあるちょっとしたスペースまで来て、高峰が腕を解いた。


「な、なに? どうしてこんなところに?」


 体の自由を取り戻した悠が、鬱蒼とした林になった行き止まりを背にして、ナイロン製の青いショルダーバッグを胸に抱えた。木々に囲まれて薄暗く、じめじめとした風が淀んでいる。


「うるせぇ」

「うわっ」


 いきなり、高峰が悠の鞄を蹴り上げた。鞄は悠の手を離れ、林の中へ飛んでいった。がささささ、と音がした。


「ぎゃははは」と、他の二人が笑っている。心底楽しそうなその声に、悠は怒りを覚えた。


「何をするんだよ!」

「だから、うるせぇって」


 高峰に抗議しかけた悠の頬へ、めり、と拳がめり込んだ。


「ぐっ」


 悠はたたらを踏んで後ずさった。すぐに燃えるように熱くなった頬を手で押さえる。指の間から、ぽたたと血が滴った。口の中か唇が切れた、と悠は判断した。


『痛いですぅ』


 悠の頭に、ルヴァの悲痛な声が木霊した。次いで、


『悔しい、ですぅ』


 と聞こえた。悠にはこれがルヴァの声なのか、自分の思いなのか、判然としなかった。

 しかし、「誰かがいるときは黙っていてくれ」と言っておいたルヴァが、こうして自分と痛みを共有してくれている。それだけで、悠の苦痛は多少なりとも和らいだ。


 高峰は、腰を折り曲げ頬を押さえている悠の髪の毛を掴んで、ぐいっと顔を上げさせた。


「お前さ、宝生さんと仲いいよな?」

「う、う」

「なんで? なんで、おめーみてーなやつが、毎日、宝生さんと一緒にいんの? ぶっちゃけさ、すっげー目障りなんだけど」

「…………」


 悠は何も言い返さずに目を伏せた。


(やっぱり、そうか。ここでも、僕はこうして虐められるんだ)


 悠は静かに自分の運命を受け容れた。


(いつものことだ。分かっていたことだ。美羽はかわいいし、僕は人から好かれるタイプじゃない)


 そう考え、自分を必死で納得させる。


(もしも美羽が海星に来なければ、こうはならなかったかも知れない)


 悠は首をぶるぶると振った。


(でも、美羽は僕と同じ高校へ進学する為に、毎日徹夜で勉強してた。毎日、必死で頑張っていた……。それが悪いことだったとは思いたくない。これは、美羽のせいじゃ、ない……)


 悠は、美羽の好意を汚したくなかった。だから、


(これは自分が弱いせいだ。僕に虐めを退ける力が無いせいだ。美羽は悪くない。美羽は、悪くないっ……!)


 何度も何度も、呪文のように自分に言い聞かせた。


「ダンマリかよ」

「がっ」


 高峰が悠の腹にローファーのつま先をめり込ませた。途端に呼吸が苦しくなり、悠は地面に膝を付く。片手で頬を、もう片方でお腹を押さえた悠は、苦しさに喘いだ。


「ちっ。なんて弱っちぃやつだよ」


「あぐっ」


 高峰に頭を踏まれた悠は、地面を舐めた。ごろごろと転がる石は小さくないし、尖っている物もあった。悠の顔にはそうした石がめり込んで、じわりと血を滲ませた。


『痛いですぅ。悲しいですぅ。悔しいですぅっ……!』


 ルヴァの声が、さっきよりも大きくなった。悠は「ふ」と小さく溜め息をついた。


(ああ、そうだね。僕だって、そう思う。でも、それだけ。僕に出来ることは、そう思うことだけだ――)


 悠はそんな風に思い、自虐的な笑みを浮かべた。


 ――直後、思いがけない言葉が頭の中に響いた。


『ねぇ、マスター。この人たち、やっつけちゃって、いいですかぁ?』

「は?」


 悠は思わず声を出していた。

 胸のペンダントが、服越しにでも輝き始めているのが分かった。


(本気だ! フリゲートをぶん投げちゃうようなルヴァが、人間相手に、本気で?)


「だ、だめだよ! 僕はいいから、大人しくしてて!」


 悠は胸を押さえて叫んだ。ルヴァに出てこられたらどうなるか? 悠は瞬時に悟っていた。

 なにしろ大きなルヴァだ。ここだけならともかく、他の誰かに目撃されれば、パニックすら発生させかねない。ここは学園からもそんなに離れていないのだから。想像して、悠は身震いした。


「あー? 誰に述べてんだ、てめー」

「うっ」


 ごつ、と高峰の靴が悠の頭を再び踏みつけた。


『痛いですぅ! ルヴァは、もー、我慢の限界ですぅっ!』


 胸を押さえる手の間からシアンの輝きが漏れ出した。体を丸め、悠はそれを閉じ込める。


 ルヴァが怒っている。悠はルヴァが自分を「マスター」と呼ぶことから、きっと命令には服従してくれるものだと思い込んでいた。しかし、どうもそうではなさそうだ。この巨人には意思がある。それは優しいものだけど、ひどく近視眼的なものらしい。悠は抑えきれない巨大な力に戦慄した。


「おーい、聞いてんのかよ、てめー? ずーっと無視しやがって。傷つくんだぜ、そーゆーのってさ。まーいっか。とにかくさ、おめー、もう、宝生さんと馴れ馴れしくすんじゃねーよ」

「あ、が、ぐ」


 高峰に踏みつけられ、ごつ、ごつ、ごつ、と悠の額が地を叩く。その度、光が強くなる。高峰からは角度的にペンダントの放つ光が見えていないようだが、後ろの二人は怪訝そうに覗きこんでいる。


(うう。ルヴァを抑えるには、僕がこいつに反撃するか、逃げるかしかないみたいだ)


 悠は長い虐められっ子生活の中で、反抗が何を招くか知っていた。反抗は、虐めをさらに加速させる。悠にとって、虐めへの一番の対処法は“耐える”ことだった。

 高峰に足蹴にされながら、悠の頭脳は反撃を主張し、体はそれを拒否していた。屈辱の記憶は、痛みと共に、強く体に刻みこまれている。悠の中で、いまだかつて味わったことのない、激しい葛藤が生まれていた。


『う~~っ! マスターを、いじめるなあぁぁぁぁ――――っ!』


 カーッと、ペンダントが青い光に包まれた。悠は眩しさに目を閉じた。


(もう、無理だ……っ!)


 悠が諦めた、その時、


「ぎゃあぁっ!」

「え?」


 高峰の悲鳴と、他の二人のきょとんとした声が聞こえた。後頭部にのしかかっていた重みがなくなった悠は、何が起こったのかと急いで顔を上げた。高峰は藪の中にがささささと音を立てて倒れゆくところだった。


「わっ」

「ぎゃっ」


 他の二人も高峰の後を追うようにして藪に吹き飛んだ。


「……ふー。いつになっても、虐めってのは、なくならないもんだなぁ」


 冷淡にも思える声がした。ここに至る小路の方だ。悠は声の主に目を向けた。


 そこには、


「大丈夫か、神原悠?」


 広がった黒いコートの裾から、にょきりと伸びた足を上げたままの東雲がいた。三人は、この足に蹴り飛ばされたのだ、と悠は理解した。


「し、東雲……せん、せい……?」


 悠は地に手を付いたまま、呟いた。逆光になっているので表情は良く見えないが、その姿は悠の瞳に神々しく映った。実際、救いの神なのだ。


 ルヴァのペンダントは光を消していた。


「ほら、立てるか? あーあー、顔が血だらけじゃないか」

「あ。す、すいません」


 悠は、差し伸べられた東雲の手を取った。


(この手……?)


 細身な見かけからは想像もつかないほど固い東雲の掌に、悠は驚いた。いつも素振りばかりしている野球部やテニス部の手に似ている。並みの鍛錬では作られない手だ、と悠は思った。


 悠を立たせ、血や泥で汚れた悠の顔を、自分のコートの袖で軽く拭いた東雲は、まだ藪に倒れたままの高峰他二名を睨んだ。


「そっちも、そろそろ起きたらどうなんだ? 一発で終わりとは、かっこ悪くて恥ずかしい話だろう?」


 東雲の呼びかけに応え、高峰たちがのろのろと起き上がった。


「くっそ……。なんなんだよ、てめー?」

「お? ははは。さっきは素直に謝っていたのに、まだそんな口を利くのか? 貴様は本当に俺好みな生徒だな」


 毒づく高峰に、東雲は目を細めた。笑っている。笑顔だ。しかし、悠はその笑顔に凍りついた。


「へっ。余裕こいてていいのかよ、せんせー? これってさ、暴力だよなぁ? 教師が、生徒に暴力をふるっていいのかよ? 体罰禁止。こんなの、どこでも常識だろ?」

「あ!」


 高峰のいやらしい笑みに、悠は一つの記憶を蘇らせていた。

 担任の赤城先生が、この高峰の親に、一度訴えられていたことを。

 今のクラスになって初めてのホームルームで、高峰はやはり教師に生意気な態度をとった。赤城は高峰の高慢さに腹を立て、胸を小突いて転ばせた。その際、高峰は少しだけ手を切った。

 翌日、すぐに母親が学園に乗り込んできて、赤城に謝罪を要求した。拒否されると、弁護士を連れてきた。結局、赤城は謝罪せざるを得なくなった――。




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