「与那国海底遺跡」②

「どうしたんですかぁ、マスター?」


 悠の反応がないのを心配してか、ルヴァが小首を傾げる。ふわーんと長い銀髪が揺れ、ゆっくりとルヴァの体に沿う。


 はっと我に返った悠は、恐る恐ると自分を指差し、ルヴァを見た。「マスターって、僕のこと?」と確認しているのだ。悠はルヴァの声が、耳から聞こえているわけではないように感じた。


「そうですよぉ? 当たり前じゃないですかぁ」


 にっこりと笑うルヴァに、悠は眉を寄せた。


「え? え? も、もしかして、ルヴァのこと、忘れちゃったんですかぁ? ルヴァは、ここで六千年、ひたすらじぃーっと大人しくして、マスターのお帰りをお待ちしていたのにぃ……」


(ろ、六千年っ! は。そういえばこの海底遺跡、年代測定結果がそれぐらいだったような)


 ルヴァの言葉に驚きながら、悠はそんなことを思い出していた。悠の表情は大きめなフルカバータイプマスクのせいで丸見えだ。ルヴァはその表情に激しく不安を覚えたらしく、両手を胸の前で祈るように組み、水中だというのに目をうるうるとさせ始めた。


 泣かれると思った悠は慌てて手を振り、


「ち、違う違う! 忘れてなんかいないよ!」


 と、慌てて取り繕った。


 巨大で装甲を身につけているところを除けば、容姿はかなりの美少女だ。そのせいだろう、自分などひと捻り出来るに違いない巨大な少女を、悠は無意識に気遣っていた。


「良かったぁ。ルヴァにはマスターが全てなのですぅ。忘れられたら泣いちゃいますからぁ」


 ルヴァは小さく握った拳で(それでも大きいが)目尻を拭い、心底ほっとしたような笑顔を見せた。


(なんだこのシチュエーション? まるで幼い頃に結婚の約束をしていた子と再会したようなやりとりだけど。僕、こんなにばかでかい女の子、絶対知らないはずだぞ!)


 間違いない。忘れる方が難しいのだから。


『何を忘れてないの、悠ちゃん?』


 その時、美羽から無線が入った。この状況を知らない美羽からすれば、ルヴァとの会話は悠がひとり言しているようにしか思えないだろう。


「美羽。い、いや、なんでもないよ」


 悠は咄嗟にそう答えた。とりあえず、美羽をここに来させるわけにはいかないと考えたからだ。今のところ危険は感じられない。とはいえ、相手は未知の巨人だ。何が起こるか分からない。


 大人気のダイビングスポットであるにも関わらず、この時間は奇跡的に悠と美羽しか潜っていない。助けを求められそうな人は近くにいない。それが悠の責任感を増させていた。


『そう? 早く来てね、悠ちゃん。今ね、あたしの側に、またかわいいお魚が来たんだよ。青くって、おでこが飛び出てるの。ほら、有名なアニメにも出てた子。知らない?』

「こっちでは、もっと凄いものが見られるけど……」

『え?』

「ああ、なんでもない。それ、多分ナンヨウハギだろ。すぐに行くから、待ってて」


 悠は「人の気も知らないで」と思いつつ、そう言っておくことにした。


「お友達ですかぁ、マスター? 呼んでくれたら嬉しいのですぅ。ルヴァにも紹介して欲しいですぅ」


「なんて紹介したらいいんだよ!」と突っ込みたくなるのを悠は堪えた。それよりこの巨人少女は、二人のやりとりが聞こえている。どうやら無線を傍受出来るらしい、と悠は推察した。


 ルヴァを美羽に、いや、他の誰にでも見られれば、確実に大騒ぎになる。だからといって、このままこうしているわけにもいかない。差し当たっては、美羽をなんとか誤魔化さなくてはならない。どうしたものかと悠はウェットスーツに覆われた頭を掻き毟ったが、名案は浮かばなかった。


 だが、次の瞬間、そんな事を考えている暇は無くなった。


『きゃあぁぁぁぁっ!』

「美羽っ!」


 無線から美羽の悲鳴が聞こえてきたからだ。


「どうした、美羽? 何かあったのかっ?」

『きゃあっ! きゃあぁっ!』


 悠が必死で呼びかけるも、美羽は叫ぶばかりで要領を得ない。どうやら普通に話すことはおろか、助けを呼ぶ余裕もないらしい。


「すぐ行く! 待ってろ、美羽!」


 とにかく大変な事態が起こっている。巻き込まれているのかも知れない。そう結論を出すと、悠は一気に水を蹴った。ぐん、と体が水中で加速する。だが、フィンには特に動力源など付いていない。昔ながらの足ひれだ。大した速度を得られるわけもなく、気持ちだけが逸った。


「お友達に何かあったみたいですねぇ、マスター。ここはルヴァにお任せなのですぅ!」

「わ、わわ! お、おい、ルヴァ!」


 ぐわ、と迫ったルヴァの大きな手の平に悠が包まれた。


「アッパーテラスにいるって言ってましたねぇ。行きますよぉ、マスター!」


 ふわ、と海底から足を浮かせたルヴァが、華麗に姿勢を制御して水を蹴る。


「ぐえぇ」


 最初の一回目のバタ足で、体を包むルヴァの手から頭だけ出している格好だった悠の首が折れ曲がった。ルヴァの蹴り足で海底の砂利どころか、わりと大きめな岩までもがごろごろと転がり、砂塵が巻き上がる。凄まじい加速力で発生した水の抵抗に、ただの人間である悠の首はあまりにも無力だ。特に悠は一般的な高校生男子の体格より華奢だ。危険度はさらに高い。


 ぼぼぼぼぼと水を切る音と圧が悠を襲う。進行方向を真っ直ぐ向いているお陰でマスクは外れずに済んでいるが、縁が顔に思い切り食い込んでいる。悠はこのままだと顔がマスクの形に切り取られると思い、恐怖した。


「あ。すみません、マスター」


 激痛に気が遠くなりかけたところで、ルヴァがもう片方の手を悠の前に置いた。水圧避けだ。命の危険すら感じる加速負荷から解放されて、悠は「ほ」と息を吐いた。


 ルヴァの手で視界を遮られる前には、もうアッパーテラスが見えていた。加速からわずか三秒ほど。とんでもないスピードだと考える余裕が悠に出来たところで、ルヴァは減速した。


 それも、一気に。


「ぎゃあぁぁぁぁ!」


 今度は首が前に折れ曲がった。ぐききききと首が嫌な音を立てている。悠の視界がわずかに赤く染まった。レッドアウトだ。Gによって血液が眼球に集まった結果だ。死ぬ、と思った刹那、ルヴァは完全に停止した。そして間髪を容れずに浮上を開始。どっぱーんと海面を突き破るルヴァに、悠はまたしてもダメージを受けた。


「あがががが」


 ぐんぐんと上昇するルヴァ。もう緑に覆われた与那国島が見渡せる。島を囲む海がエメラルドグリーンに輝いている。素晴らしい景観だが、悠にそれを楽しむ余裕は失われている。現実感の無い高度に、非現実的な方法で辿り着き、悠は激しい恐怖を感じていた。


「『あがががが』ってどういう意味ですかぁ、マスター? ルヴァの集めた現代日本語のデータには、該当する言葉がないですぅ。それよりも、見てくださいぃ、マスター」


 悠はルヴァの丸太のような指が指し示す方へ、のろのろと顔を向けながら考えた。


(現代日本語のデータを集めた? どうやって? でも、それならこんなに自然に言葉が通じることにも納得がいく。六千年前から沈んでいた巨人が、日本語を使っていたはずないし)


 そしてようやくルヴァと同じところを見た悠は、自分がまたしてもとんでもない場面に遭遇していることを知る。


「あれは確か……中華人民共和国、という国の艦船ですねぇ、マスター?」


 マスクが曇り、良く見えない。悠はマスクを乱暴に外し、ルヴァの手の中から眼下を望んだ。


「本当だ。堂々と、中国国旗を掲げたフリゲート(護衛艦クラス)が……こんなとこに!」


 悠はぎゅう、と拳を握った。


 与那国は沖縄県の一地域であり、当然日本の領土だ。悠々と航行する中国のフリゲートは、与那国島の沿岸に位置する《与那国海底遺跡》にいる悠から、はっきりとその存在を確認出来た。岸からかなり近いところだ。


 つまり、領海侵犯をしているということになる。


 艦艇は中華人民解放軍海軍主力哨戒艦、『053型フリゲート』。旧ソ連軍50型警備艇を見本に造られた骨董品だが、この時には米国イージスⅢシステムにも劣らない、中国独自の火気管制策敵機構を搭載していた。


 灰色をした船体は、全長一〇三・二m、全幅一〇・八m。基準排水量一四二五t。艦橋や船体のバランスがスマートな、その美しい船には、前後に一門ずつ載った、ガトリング砲が砲身を構えている。蜂の巣をざっくり四角く切り落としたような50連装ロケット砲も、後部甲板で空を見上げていた。


 巡洋艦、駆逐艦クラスよりも一回り小さいが、能力的にはひけをとらないほどに恐ろしい、NATOコード、江滬(ジャンフー)Ⅰ型と呼ばれる、中国海軍最大の数を誇る艦種だ。


「あれのせいで美羽が? どこにいるんだ、美羽!」


 美羽からの返事は無い。悠はマスクを外しているため、返事があっても聞き取れない。焦る悠は、それを忘れていた。代わりに、妙なことには気づいていた。


(島にこんなに接近されるまで放置しておくなんて、海上保安庁や自衛隊は、何をしているんだ?)


 しかし、今はそれより美羽だ。悠は目を皿のようにして海を注視した。


「もしかしてあそこにいるのがマスターのお友達ですかぁ? 船体の作り出す波のせいで、かなり困っているみたいですけどぉ」


 ルヴァが降下を開始した。海面とフリゲートが近付いてくる。


「いた! 美羽!」


 おかげで悠にも発見出来た。派手なピンクのウェットスーツを着た美羽が、姿勢を上下左右に忙しなく回転させ、波に弄ばれている。体はぐにゃりとしていて力が無い。おそらく気絶していると悠は見た。


「マスター! あのままではお友達が船のスクリューに巻き込まれてしまいますぅ!」


「なんだって?」


 悠は美羽の動きを確認した。確かに美羽の体は徐々に船の後方へと流されている。


 スクリューに巻き込まれるとどうなるか? きっと美羽は体をばらばらにされてしまうに 違いない。絶対に生きてはいられない。そう想像し、悠はぞっとした。さー、と血の気が引いてゆく。


「美羽! 美羽! 起きろ、美羽! くそっ! なんとかして助けなくっちゃ! 美羽を、助けなくちゃ!」


 悠はパニックに陥った。


 悠にとって、美羽は大事な存在だった。

 限界ぎりぎりのところでも、これまで悠がなんとか無事生活してこられたのは、美羽の力が大きかったからだ。

 もちろん、生活費を始めとするお金の問題ではない。それは両親が主に担う部分だ。悠の家は裕福な方だと言えたので、そんなことには困っていない。


 悠は、虐められていた。

 学校で、孤立していた。

 高校生になってからは減っているが、そのうち、また激しくなるだろう。

 悠はそう考えている。


 小中と同じ学校に通った美羽は、当然そのことを知っている。クラスは違うが、美羽は事あるごとに出来る限り悠の力になってくれていた。

 家に帰ってから親に心配をかけずにいられるのも、美羽のお陰だった。“晩御飯は悠の家で”を日課にしている美羽は、さりげなく食卓を盛り上げてくれる。だから、いくら学校で嫌なことがあっても、悠は両親の前で笑う事が出来た。


 自分を情け無いと思いつつ、悠は美羽の優しさに、いつも救われるままだった。


 いつか。

 いつか、美羽にお返しがしたい。

 絶対に、美羽には幸せになって欲しい。

 強く、強く。

 悠は、いつもそう思っている。


「美羽―――――っ!」


 ルヴァの手の中から、悠は美羽へと手を伸ばした。




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