「言えない気持ち」①

 夏休みが終わり、新学期が始まった。暑さはまるで収まる気配をみせず、セミは元気良く鳴いている。今日も朝から陽射しが強い。夜に雨が降ったのか、木々や家々を濡らしている水滴が、陽光をきらきらと弾いていた。


「おはよ、悠ちゃん」

「おはよ」


 家を出た悠は、玄関先で待っていた美羽と挨拶を交わした。

 悠と美羽も今日からまた学校だ。家が隣同士の二人は、幼稚園から中学校、そして高校生になっても、毎日一緒に登校していた。

 悠は薄緑色をした制服のシャツのボタンを、一番上までしっかりと留めている。ルヴァであるペンダントを隠す為だ。


 美羽は大きめなカラー(襟)が特徴的な指定のトップスに、オリーブグリーンのプリーツスカート、黒いハイソックスという姿だった。いわゆるセーラー服だ。スラックスにもスカートにも、横にゴールドのラインが一本入っている。このデザインはイギリスの近衛兵をイメージしていると入学時に説明されたが、悠には良く分からなかった。


「あーあ。もう夏休み終わっちゃったねー。ちょっと事件もあったけど、楽しかったね、沖縄」


 美羽が悠の左隣で伸びをした。ん、ん、と腕を上げた拍子に、上着と スカートの間から、細い腰が見えた。悠はそれに気付くと、どきりとしながら目を逸らした。


「あ、ああ。あの時は助けてくれてありがとな、美羽」

「えー? 助けられたのはあたしだよ? お礼なら、あたしの方が言わなくちゃ」


 美羽はくすくすと笑った。


 与那国島で気を失った悠は、美羽が呼んだお互いの両親によって病院にまで運ばれた。昔、大人気ドラマのロケセットだったところだ。病院というよりは“診療所”といった佇まいの小さなところだったが、悠の母が「どうせならあそこに運ぼう」というのでそこになった。なんとものん気な親である。


 小一時間ほどで目覚めた悠はすぐに元気を取り戻し、翌日の昼の便で帰ったのだが、その間、悠は非常に神経をすり減らせる羽目になった。


『うわぁ。ルヴァ、飛行機なんて初めてですぅ』

『はわわ。ルヴァ、車も初めてですぅ』

『ひゃあああ! 人が! 人が、こんなに沢山いるですぅ!』


 などと。


 亀型(星型?)ペンダントとなったルヴァは、ことあるごとに大はしゃぎをした。ルヴァの声は悠にしか聞こえないらしく、迂闊に「静かにしろ」とも言えなかった。悠は「ルヴァの存在に気付かれてはまずい」という一念で、それにずっと耐え続けた。これはかなりの苦痛だった。



 電車で二駅。悠と美羽は電車から降りた。学校は、駅から徒歩五分とかからない。改札を出ると小高い丘の上に建つ、悠たちの通う学校海星学園が見えてくる。

 丘を覆う緑からにょきりと伸びた時計塔が、海星学園の目印だ。ビッグベンをそのまま小さくしたような時計塔から分かるように、学園の建物は全てゴシック風に統一されている。

 小、中、高、そして大学まで同じ敷地内にあるこの学園には、ランドセルを背負って走るはつらつとした子どもから、髭を生やしてたばこを咥えている生気の無い若者まで、様ざまな生徒が通っていた。


「おはよー、美羽」

「おーす、宝生」

「ひさしぶりー、みっはねー」


 登校中、美羽にはたくさんの明るい声が掛けられた。


「おはよー」


 美羽はその都度にこにこと挨拶を返している。


「ち。生きてやがったか、神原」

「宝生さんと一緒に登校すんなって言っただろうが」

「護衛おつかれさん。もう帰っていいぞ、アカン原」


 悠にもたくさんの声が掛かっている。露骨に悪意のこもった、ドスの効いた声が。


「…………」


 悠は俯いたまま返事もしない。


「あっはっは。みんな、悠には相変わらず冗談きついねー」


 美羽が笑う。その頬は少しひくひくとしている。


「……そりゃきついさ。だって、冗談じゃないんだから」


 悠はぶすっとして言い返した。


 新学期早々にこれだ。悠は暗澹たる気持ちになった。


「はぁ」


 と溜め息をした悠の背中をばんと叩き、美羽は、


「ほら、元気出して。それでも小中学校の頃と比べたら、大したことないじゃない。大丈夫。今度は同じクラスだし、あたしが悠を守るから」


 と言って、にかっと笑った。


 美羽の眩しい笑顔を見上げ、悠は思う。


(……確かにそうだ。これぐらいなら大したことない。けど……これから、なんだよ、美羽。きっと、これから……)


 美羽にははっきりと話していないが、悠は自身の虐められる理由が分かっていた。

 自分が貧弱なのもその一因だが、最も大きな原因は、美羽にある。


 明るく快活で性格も良く、しかも、ちょっとなかなか見ないほどに可愛い美羽は、天然なところもあって、やはり人気者過ぎた。誰もが美羽と友達になりたいと、また、男であればそれ以上の関係にもなりたいと思い、近付いてきた。そこで気付く目障りなやつ。それが悠の立ち位置だった。


 悠が最低でも“普通”の男であれば、誰も虐めようなどとしないだろう。だが、悠はいつもおどおどとしていて表情も乏しく、見る者にどんよりとした印象を与えた。そんなやつが憧れの子の一番側にいて、毎日一緒に登下校をしている。同じクラスであれば他にもチャンスはあるだろうが、そうでない者には気持ちを伝えるのに一番やりやすいタイミングである登下校が、悠に占有されている。


 そういった者たちが溜めに溜め込んだフラストレーションを抱えきれなくなった時、悠に不幸が訪れる、という仕組みだ。

 靴が隠される、あっても画鋲が仕込まれているなどという下駄箱関係の陰湿な虐めは、大概この輩からだった。


 そして、カバンが無くなる、机に「美羽と離れろ」と書かれる、教科書がびりびりに破かれている、などはクラスメイトの仕業だ。

 高校生になってからは、クラスメイトによる物への嫌がらせはない。これは美羽と初めて同じクラスになれたからだと悠は思っている。


 同じクラスに悠を虐めている者がいるなどと知ったら、友達である美羽が悲しむから。万一犯人として見つかれば、そいつが美羽と仲良くなる道は閉ざされてしまうから。虐めの原因も美羽なら、助けてくれているのも美羽。そう考えると、悠はいつも複雑な心境に陥った。


 でも。


 虐める側は、いつも虐められる側からは考えもつかないような事をしてくる。

 長い虐められっ子生活で、悠はそれをいやというほど知っていた。

 今のクラスでも、このままでは終わらない。悠にはその確信があった。


 長い坂を登りきり、二人は黒い鋼鉄で出来た唐草紋様の校門をくぐった。

 たくさんの生徒が吸い込まれるように各校舎へと消えてゆく。


 二人が高等部棟へと消えた頃、時計塔の上で、迷彩のイヤフォンマイクを耳にはめた男が「よっこらしょ」と腰を上げた。


「は。なんだぁ。救国のヒーローになろうってやつが、まさか虐められっ子だったとはな」


 陸上自衛隊一等陸尉、東雲四十万だった。


『調査によれば、彼、神原悠は、ずっとそんな感じだったそうです。与那国へダイビングに来ていたのも、タラソテラピーの延長線上にある治療の一環だったようです』


 東雲のイヤフォンから聞こえる重く低い声は、部下の加藤のものだった。


「ふーん。海洋療法ってやつか。そんな癒しが必要とは、惰弱な少年だな」


 東雲の声には明らかに侮蔑の意がある。


『子どもの虐めは、ヘタをすると大人のものよりもタチが悪いですから。子どもは加減知らずで残酷です。一概に惰弱とも言い切れないかと思いますが』

「ほう。あの少年を庇うのか、加藤。お前は優しい男だな」


 からかうような東雲の物言いに、


『そういうつもりはありません。ただ、事実を元に推察しただけです』


 加藤は冷静に否定した。


 東雲は「くくく」と楽しげに笑うと、


「ま、いい。思い込みで断定するのは確かに良くないからな。慎重に、じっくりと観察しよう。……。あの巨人を動かせるのは、あの少年だけなのかも知れないからな」


 東雲は時計塔の頂上に立ち、片足をへりにかけて学園を見下ろした。


「俺が、高校教師か。生徒をぶん殴ったりしないよう、気をつけないとな」


 頭のてっぺんにある、とさかのような髪と黒いコートが風に揺れた。



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