「言えない気持ち」②

「新学期から貴様らの担任になる東雲だ」


 海星学園高等部一年三組の教壇上で、東雲は重厚な造りの教卓に手をかけてそう言った。朝のホームルームに臨んだ三組の生徒たちは、教壇に立つ男を未知の生物でも見るかのように見つめている。

 いきなりそんな事を言われても、「そうなんだ」と素直に飲み込める者はいなかった。大体、東雲の言葉が簡明率直に過ぎる。だから、


「ちょ、ちょっと待ってください。僕らの担任は赤城先生のはずです。赤城先生は、どうなったんですか?」


 がたっと椅子を鳴らして立ち上がった眼鏡の男子生徒が東雲に訊ねた。七三分けの細面には黒縁メガネがぴしっと真っ直ぐかけられて、清潔感に溢れている。「これぞ学級委員」といった男子だ。


「あ? 貴様に発言を許した覚えはないぞ、浅野章二。立てともな。座れ」

「えっ? は、はい……」


 名前を的確に呼ばれて浅野はすごすごと着席した。自分が今、初めて会った相手に名前を呼ばれるのは、あまり嬉しいものではない。それどころか、気持ちが悪い。東雲に得体の知れないものを感じた浅野は、反射的に従っていた。


「俺に意見を出来るのは、挙手して指名された場合に限る。勝手な発言、行動は許さん」


 東雲が教室中を睥睨した。東雲の発する良く分からない“凄み”に、生徒たちは次々と目を伏せてゆく。


 そんな中、


「なんだそれ? それって横暴なんじゃねーの?」


 と、一番後ろの窓際に座る、赤い髪をした男子生徒が発言した。手を頭の後ろで組み、椅子をぎぃぎぃと揺らしている。見るからに反抗的な態度だ。


「お? ここは有名な進学校だと聞いていたが、ちゃんと生意気なやつもいるじゃないか。俺はそういうやつは好きだぞ、高峰純也」


 東雲は高峰に目を留めると、嬉しそうに微笑んだ。笑うと印象ががらりと変わり、人懐っこくも見える。しかし、傷を内包した深い眉間のシワが、開くことはなかった。


「なんで俺の名前知ってんだよ?」

「教師が生徒を把握するのは当然だ。名前、性格、成績、功罪、趣味嗜好、家族構成に親類縁者、家庭の経済状況まで。俺はお前らの全てを把握している」


 言いながら、東雲はずかずかと高峰に迫った。無駄なく流れるような足運びに、高峰は油断した体勢を整える暇も無い。


「うあっ」


 だから、高峰は東雲にあっさりと髪の毛を掴まれた。東雲の右手に握られた、ぴんぴんとはねている長めの赤髪が、ぎぎぎと鳴いた。東雲が上に引っ張っているからだ。高峰は東雲に引っ張られるまま席を立ち上がるしかない。しかも、そのまま――高峰の、足が浮いた。


「うあ、あああ」


 高峰はぎゅう、と目を閉じて痛みに耐えた。東雲の握り込まれた拳に添えられた高峰の両手には、力が入らないようだ。

 クラスメイトは皆、その光景に目が釘付けとなっている。ごく、と唾を飲み込む音が複数起こった。気の弱そうな女子生徒などは、手で口を覆ってがたがたと震えだした。


「――生意気なのは、いいことだ。が、相手は選ばなければな。平和に慣れきった貴様らには言っても分からんかも知れないが、それで命を落とすことすらあるのだから」


 高峰はクラスで一番体格のいい男子だ。一九〇cmある東雲ほどではないが、上背もかなりある。そんな高峰を、東雲は直立した姿勢のまま、右腕一本で持ち上げている。


「なぁ、高峰。貴様は俺に横暴と言ったが、そういう貴様はどうなんだ? 俺は教師で、貴様らを導く立場にあるわけだ。当然、責任を負っている。俺は健全な学園生活を貴様らに送ってもらうために、“規律”というものを教えていた。それを一言で片付ける貴様は、横暴ではないのか? 無秩序なクラスで、勉強に集中できるのか? 俺は出来ないと思うなぁ。なぁ、貴様はどう思う? 高峰ぇ」


 東雲は肘を曲げ、高峰の顔を引き寄せた。至近距離で東雲の目を覗く格好となった高峰は、歯をかちかちと鳴らしだした。

 高峰は東雲の瞳に心を吸い込まれ、足場の無い暗闇に突き落とされたような、底知れない恐怖を感じていた。


「どう思うかと訊いている。答えろ、高峰ぇっ!」


 答えない高峰に、東雲が吼えた。猛獣の咆哮にも似た音声に、クラス中の人間がびくりと肩を震わせた。


 高峰は、


「……はい。すいま、せん、でした……」


 やっとのことで、搾り出すようにそう答えた。


「よし」


 ぱっと東雲が手を離した。「あぐ」と呻いて高峰が椅子に落下した。高峰はそのまま壊れた人形のようにだらりと手足を投げ出し、ぼさぼさになった頭をがくりと前に倒した。


 高峰に興味を失くした東雲は、後ろ手につかつかと歩いて教壇に戻ると、


「分かったかな、皆?」


 口元だけで笑い、教室を見回した。


 この教室に、悠と美羽もいる。二人も、皆と同じように表情を凍りつかせていた。



「――ありえねぇよ、あの東雲ってやつ。あれは人殺しとかしてるぜ、絶対」


 昼休み。机を自由に動かして、思い思いに昼食を貪る教室で、高峰が椅子を蹴った。高峰は落ち着かないのか、立ったままコロッケパンにかじりついている。


「……かもしれない。僕も、あの先生は只者じゃないと思う」


 高峰の前にある机に姿勢正しく座り、ひつまぶしのお櫃からお茶碗にご飯をよそっているのは浅野だった。横には有田焼の急須がスタンバイしている。最後はお茶漬けにしていただくつもりなのだろう。豪華すぎる昼食だ。


「僕さ、あんまりにもおかしいから、一限終わってすぐ、職員室に行って、他の先生に訊いたんだ。『赤城先生はどうしたんですか?』って。そうしたら、『家庭の事情で実家に帰った』って言われたんだ」

「なんだって?」


 高峰が目を剥いた。浅野はその反応に満足したように頷いた。


「な? おかしいだろ? 赤城先生ってさ、ことあるごとに『私は家族と親戚全てを大震災で失いました。でも、今はすっかり復興した街と同様、私も元気です。どんな悲劇が起ころうと、人はまた立ち上がれる。だから頑張りましょう』って言ってたし」

「だな。しかも独身なんだから、“家庭の事情”なんてあるわけない」


 悠はその会話を、少し離れた机に座り、聞いていた。


「……だって。なんなんだろ、あの先生? ね、どう思う、悠ちゃん?」


 悠の正面には椅子だけ持ってきた美羽が座っていた。高校に入り、二人は昼夜の食事を共にしている。お互い、今や家族以上に同じ時間を過ごす相手となっていた。

 悠はそれが嫌じゃなかった。むしろ嬉しかった。例え、無数の悪意ある鋭い視線に晒されていようとも。


「そんなの、僕に分かるはずがないよ」


 そっけなく答え、悠は美羽の母が作ってくれたお弁当を掻き込んだ。


 二人のお弁当は、両家の母親が交替で作っている。自然と芽生えた競争心から、お弁当は日に日に豪華になっていった。今日のお弁当のメインは、猫みたいな顔が描かれた、俵形のおにぎりといなり寿司だ。さらにミートボールが添えられて、タコになったウインナーとほうれん草の卵和え。それに、ブロッコリーとデザートのぶどうが五粒ほど。彩り豊かで見た目にも美しい。量を無視すれば、まるでお子様に持たせるようなお弁当だった。


 幸い箱だけは一般的なプラスチック容器だったので、覗かれなければ大丈夫だ。堂々と食べる美羽とは対照的に、悠はいつも弁当箱の蓋を立てて食べている。それでもいつもならおいしいと感じるはずのお弁当だが、悠に味わう余裕はなかった。


(与那国から帰ってすぐ、こんなに変なことが起こるなんて。……ルヴァと無関係とは思えない。あれだけ派手に暴れたんだ。誰かに見られていてもおかしくない……)


 そんな考えが、悠の頭に渦巻いていたからだ。


 悠はちら、と胸元を見た。シャツの中に隠れるようにしているルヴァのペンダントだ。「学校では静かにしてて」という悠の言いつけどおり、ルヴァは沈黙を守っている。


(何も起こらなければいいけど……)


 そんな悠の願いは、すぐに叶わぬこととなる。


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