第2話 人と鬼

 時は流れ、長保21000年、中央では一条天皇のもとに定子ていし彰子しょうしが皇后宮と中宮に冊立さくりつされた。


 時定と椿の住まう家の庭では、梅の花が咲き、穏やかな時間が流れていた。

 椿はいまだに時定を食らいたくなる夜があったが、次第にその間隔もひらき、その欲求を自然に抑えることができるようになった。

 おそらく里で暮らすうちに人に近づきつつあるのではないか。ひそかにそう思い、安堵をしていた。こういう暮らしも悪くはない。


 2年前より続いている鬼討伐は、いまだに達成することができず、とうとう信濃守しなののかみよりかの源頼光みなもとのよりみつにその討伐が依頼されるに至った。

 四天王と称される強力な武士を配下に、数々の武勲、ことに大江山の鬼退治はつとに彼の勇名を天下にとどろかせていた。


 頼光は自ら軍を率いて信濃国へやってきて、着々と鬼退治に向けての準備を進めていた。

 その前線基地となるこの里でも、陣営ともなる屋敷を築き、そこに四天王が一人卜部季武うらべのすえたけを詰めさせ、情報収集に当たらせていた。


 時定は、この時ぞ源氏に仕える好機とばかりに季武を訪問し、その武力をして季武を驚かせ、正式な郎従では無いものの、毎日、季武の元へ出仕していた。


 毎朝、喜々として出て行く時定を、椿は見送っていた。

 鬼討伐に来た武士と聞き、内心では穏やかではなかったものの、自分はすでに一族を捨てた身。いかに中央の精兵せいひょうといえ、鬼が人に負けるとは思いもしなかった。

 それよりむしろ、まるで子供のような笑顔を浮かべて、家を出て行く時定を見るのがほほ笑ましくも嬉しかった。


 帰ってきた時定とともに夕飯を取っていると、時定が実に楽しそうにその日にあったことを教えてくれる。

「やはり季武殿は強い。頼光殿の四天王が一人と呼ばれるだけはある。一度も勝てぬ」

 そう言いながらも、ちっとも悔しそうではない。

 鬼の血により膂力りょりょくも体力も増した時定であったが、季武もその力は負けておらず、その技によって時定は一度も打ち勝つ事ができなかった。けれど、それが時定には嬉しかった。


「なあ椿。まだまだ俺は強くなる。そして、季武殿に認められてもいる。ようやく念願を叶えるための一歩を踏み出せそうだ」

 輝かんばかりの時定の笑顔が、椿にはまぶしかった。


 ――夢。

 それは鬼が持ち得ぬもの。人のみが持つ、生きるという事の意味。けれど、今は鬼であるはずの椿にも夢ができた。それは時定とともに生きるということ。当たり前のようでいて、これほど困難な夢は無いだろう。


「それにもうすぐで源頼光殿もこの里に来るらしいぞ。あの大江山の鬼退治の荒武者が」

 時定の口から鬼退治の言葉を聞いて、表情をこわばらせる椿。それを見て時定も失言を悟った。

「すまぬ。そなたの家族であった。配慮が足りなかった」

 頭を下げる時定に、椿は「構わない」と言う。どういうことかと顔を上げた時定に微笑みかけた。

「易々と討ち取られる者どもではないし、そなたがいれば我には……。存外ぞんがい、この人としての生き方も悪くはないし」

 それを聞いた時定は、我慢できずに立ち上がり、おどろく椿を抱え上げた。

「お主は、最高の女だ」

 真っ直ぐな思いに椿は照れて赤くなった。「やめんか。急に」



 それから1ヶ月後、頼光ひきいる武士団によって、鬼が討伐されたとの知らせが届いた。

 椿はそっと山を見上げ、無言のままでたたずんでいた。



 椿が大きな籠をせおって山道を歩いていた。山菜の季節。かつては見向きもしなかった山菜だが、人の使う調味料を知り、料理というものを知った。

 教えてくれたのは時定だ。諸国放浪の時定はそうしたことをよく知っていたのだ。


 里からそれほど離れているわけでもなく、今歩いている道は村人もよく使っている道。もとは山岳修験者たちが使っていた道で、この先の崖にある渡橋ときょうを越えればお隣の美濃国みののくにとなる。もっとも鬼である椿にとっては道があろうが無かろうが、それほど違いはなかった。


 2人で暮らす分にはそれほど食糧がなくとも充分だ。ほどなくして村へと戻ることにした。

 ちょうどふきを取り終えたところで、山道に戻るでもなく、このまま沢ぞいを歩いて下る。

 もうまもなく村というところで、子供たちが遊んでいるところに遭遇そうぐうした。どうやら沢ガニを獲っているらしい。

 子供たちは一瞬、椿を見て身構えるも、新しく村にやって来た夫婦の片割れとわかって、安堵したようだ。


 椿はどこか子供が苦手だったこともあり、軽く挨拶だけして通り過ぎようとした。が、その時、対岸の林から大きな熊が姿を現した。すでに子供たちを見つけていて、真っ直ぐに飛び込んでくる。


 熊を見て体をこわばらせていた子供たちだったが、椿が「逃げよ!」と叫ぶと、あわてて体をひるがえして逃げようとした。

 しかし、熊の方が速かった。一番後ろの女の子に襲いかかる熊だったが、間一髪、そこに椿が体を割り込ませて勢いを利用して投げ飛ばす。そのまま河原の石に落としつけて、熊の頭をかち割った。


 ……ふん。他愛もない。


 そう独りごちて、子供たちを見ると、誰かがつぶやいた。「……角」


 気がつくと、隠していたはずの角が出ていた。あわててすっと引っ込めて、「怪我はないか?」と問いかけると、おそるおそるではあるが、子供たちはうなずいた。

「この辺りは危険もある。せめて大人と来るがよい」

 そういって椿はその場を立ち去った。



 その日の午後。夕飯の準備をしている椿のもとへ、子供たちの親がお礼にやって来た。

 椿はわざとおでこを見せるように前髪を分けてから、親たちに会った。やはりどの子かわからないけれど、角のことを言ったのだろう。どの親もお礼を言いがてら、椿の額を見るもそこには角などない。

 戸惑った様子ではあったが、どこか納得したようで、親御さんたちは帰って行った。


 どうやら上手く誤魔化せたようだ。きっと子供たちの見間違いとでも思うことだろう。


 椿は一人安堵して家の中に入った。

 やがて時定が帰ってきて、いつも通りの夕飯。結局、子供たちを助けたことを時定には言わなかった。


 翌日も時定は上機嫌で季武の元に向かった。


 鬼討伐が終わり源頼光はすでに京に去ったが、残党がいた場合を考慮して卜部季武すえたけとその一部の武士だけは残っていた。けれどこのまま何もなければ、来月には京に戻るらしい。

 時定にはまだ誘いはなかったが、せめて季武が出発するまでは欠かさず出仕して、何とか郎従に取り立ててもらえるように申し込むつもりだった。



 それから7日が経った。

 時定がいつものように季武のいる屋敷に向かうと、なにやら様子が物々ものものしい。

 何かあったのかと思いつつ、すでに顔見知りになった一人の武士を見つけて声を掛けた。

 すると季武殿より時定に内密の話があるらしいと言う。今、そなたには話せぬがバタバタしており、すぐに季武殿を呼んでくるので、申しわけないがそこの小屋で待っていて欲しいと。


 いぶかしく思いつつも了承した時定は、指示された小屋に入る。

 壁の外からは武士たちの騒ぐ声。何かを運び積んでいくような音。小屋の壁にも何かを立てかけているようだ。


 やがて季武が声が聞こえてきた。しかし、すぐに小屋の引き戸から、何かを打ち付けるような音がする。


 なんだ? どういうことだ?


 疑問に思った時定だったが、すぐに季武の声が聞こえてきた。

「時定よ。そのままで聞け」

「はい」

「討ち漏らした鬼が見つかった故に、我らは討伐に向かう。……お主そこで待っておれ」


 時定は悟った。椿が見つかったと。そして、椿の身が危ないと。

「ははは。季武様。もしや椿のことでは無いでしょうな? あれは確かに美しい女人。ですが、我の妻であれば鬼などではありません」

「誤魔化そうとしても無駄だ。子供を助けるためとはいえ、熊を素手で殺すような者が人で有るはずがなかろう。角も目撃されておる。……武士とは王に仕える者。人を守り、妖しを討つ者。そなたは妖術に取りかれているのだ。すぐに鬼を討ち解放してやろう」


 まずい。このままでは椿が危ない。あわてて外に出ようと引き戸に取りつくが、板と釘を打ち付けられて、時定の力でも開かなかった。


「なりません! 私が保証します。椿が危険な鬼などということはありませぬ!」

 必死に叫ぶ時定の言葉は、すでに誰も聞いていなかった。すぐに季武が軍勢をつれて屋敷から出て行く気配がする。

「させぬ。椿はさせぬ!」


 ここで刀を抜いては、もはや謀叛むほんも同然。郎従ろうじゅうにしてもらうことは無理だろう。

 一瞬そのことが頭をよぎるが、時定はそんなことより妻を守るために刀を抜いた。引き戸に切りつけ、破って外に出るも、そこには時定を逃がさぬ為に待機している者どもがいた。

 どの顔も、ここに通ううちに親しくなった者たちだ。


「時定。おとなしくしろ。すぐに終わる。お前は鬼の呪縛じゅばくから解放されるんだ。そうしたら一緒に京にゆこう」

 しかし、時定は刀を構えた。「それはよいな。……だが、それは椿も一緒にだ。妻は殺させぬ!」

「くそっ。この愚か者め」


 時定は自らを包囲する武士に突進していった。なんとしても椿のもとへ。ただその一念がその身を突き動かしていた。



 天気が良いので庭先で洗濯物を干している椿であったが、急に空気がおかしいことに気がついた。

 この張りつめた空気。あたかもこれから狩りをおこなうときのような、戦場の空気のような。


 次の瞬間、どこからともなく飛んできた矢が物干し竿をはじき飛ばした。

 はっとして顔を上げると、すぐに第2の矢が飛んでくる。それを左手の爪をのばして切り飛ばすと、ずっと遠くからここに向かってくる武士の一団が見えた。


 次々に飛んでくる矢をいなし、かわし、一目散に家の裏に逃げる椿だったが、さばききれなくなった矢が左の肩に突き刺さる。その痛みに顔をしかめながらも、そのまま裏手から山へと逃げ込んだ。



 木々の間を走る。人には出せない速度。これなら逃げ切ることはできるだろう。

 ……だが、その先はどうする?

 もはや同族はいない。里にもいられない。それに、時定はどうしたのだろう? 自分を売り渡したとは思わないけれど、時定が心配だ。


 急に一人になった椿は孤独に身を震わせた。どんどん悪い方へ悪い方へと考えてしまう。もしや時定もすでに……。

 そしてそれが隙になったのか、どこからともなく飛んできた矢が椿の右足を貫いた。


 たまらずその場に倒れ込んだ椿。

 そこへ第2、第3の矢が襲いかかる。体をひるがえし、どうにか矢をよける。……速い。さすがは中央の精鋭というべきか。

 それでも椿は諦めない。ひとまずこの場を逃げ切る。時定との合流はそれから考えれば良い。

 もうすぐあの渡橋だ。あそこを越えれば美濃国。さすがに国境を犯してまで追いかけては来ないだろう。


 右足に刺さった矢を抜き、再生力が傷を癒やすのももどかしく、足をかばいながら橋に向かう。

 一歩ごとに体に走る痛みに額から汗が出てくる。

 後ろから迫り来る気配。自分は追い詰められた手負いの獣となってしまった。


 あと少しというところで、椿はとうとう武士団に囲まれてしまった。

「鬼め。よくも我らをたばかってくれたな。それに時定をたぶらかしおって」

 初めて対面する季武が、鋭い目で椿を見据えていた。

「あの男を解放せよ。そして、貴様をここで退治してくれる」


 椿は手から爪を伸ばした。

「たぶらかしてなどおらぬ。それに時定はどうした」

 囲まれた今ならわかる。このなかに時定はいない。愛しいあの男の匂いはここにはない。

「殺してはおらぬが、ここには来ぬ」

「……そうか。無事ではおるのだな」


 椿の言葉に意外そうな表情をする季武。

「だが貴様ともはや会うこともない。諦めよ」

「諦めるものか。再び時定と会うまで、我は死ぬわけにはゆかぬ」

「ほざけ」


 季武が刀を抜いてゆっくりと構える。


「我こそは、清和天皇より4代後の子孫、大江山の鬼退治の大将、みなもとの頼光が四天王。坂上季武さかのうえのすえたけなり。あやかしの鬼よ。我が刀のさびとなれ」



 一瞬だった。人とは思えぬ速度でを詰められ、刀が振り下ろされた。椿が両の爪を交差してそれを受け横に流すも、その隙に逆から腹をられ、地面に転がる。

 すかさず後ろに飛ぶと、目の前を刀が通り過ぎていった。


 距離を取って再び爪を構える。人差し指の爪が切り落とされていた。


 ……強い。我よりも。


「射かけよ」

 季武の号令により、左右の武士たちが一斉に矢を放った。「くっ」

 逃げ場は無い。爪を振り回し矢を振り払うも、2本、3本と体に矢が刺さっていく。

 斉射せいしゃが収まると、次々に武士たちが切り込んでいく。傷ついた体に血をにじませたままで、必死で刀を受け流し、反撃し、そして、なんとか包囲網を破ろうと右に左に動き回る。

 あたかも追い詰められた獲物が逃げ道を探しているかのように。



 刀一閃いっせん。椿の背中が切られて血がほとばしった。息を荒げる椿はとうとう膝をつく。


 ここまでか……。せめて今一度、時定に会いたかった。


 すでに角も露わになっている。瞳も赤くなっている。それでも季武らにはかなわない。

 満身創痍まんしんそういの椿の姿を見て、季武が刀を構えてジリジリと近づいて来た。


「鬼よ。終わりだ。せめてもの情けだ。苦しまぬよう一太刀でその首をはねてやろう」


 妖しは死ねばちりとなる。故に首がさらされることはないが、それならせめて時定に殺して欲しい。鬼の愛し方にならって、愛する者の手で殺されるならば納得ができるというもの。


 その時だ。武士の背後より「うおおぉぉぉ」と声がして、人々をすりぬけて誰かが飛び込んできた。

 突然のことに武士たちが混乱している間に、その誰かは椿と季武の間に割り込んできた。

 ――時定だった。


「時定!」「お主!」

 椿と季武が同時に叫ぶ。時定もここに来るまで無理をしたのだろう。あちこちに刀傷を負い、服に血がにじんでいた。

「させぬぞ。椿は無事か!」

 そういう時定から季武は少し距離を取った。そしてさとすように語りかけた。


「馬鹿を言うな。鬼と人。一緒になどなれぬ。お主は知っておるのか? 鬼がどうやって他者を愛するのか」

 途端に椿が叫ぶ。「言うでない! その先は――」

 季武は非情にも時定に言い放った。

「鬼の愛し方は、相手を食らうこと。そなたはそのうち、そのものに食われるぞ」


 椿はその場に崩れ落ちそうになった。……知られてしまった。鬼の愛し方を。呪われたその習性を。もう時定とは一緒に暮らしてはいけぬ。

 ここまで椿を支えてきた心の柱が、ぽっきりと折れてしまった。


 季武の方を向き続ける時定に、後ろから声を掛ける。

「時定よ。今こそ我にとどめを。そなたの夢を叶えるために。……もはや我には親も姉弟もおらぬ。世界で一人きりで生きていく気力も無し。せめて仮初かりそめでもちぎりをわしたそなたに殺されるならば、我は本望ぞ」


 しかし時定ははっきりと言った。

「せぬ!」

 その答えに驚いたのは椿である。

「鬼の愛し方などとっくに知っている。だが、それがどうした」


 季武が顔をいからせて時定をにらみつけた。

「おのれ。そこまで魅入みいられておるか。……すぐに目を覚まさせてやる」

 そう言って季武は時定に切りかかった。


 上段からの切り下ろし、それをかわすや、すぐに左へ切り上げられた刀が、時定の目の前を通り過ぎていく。

 あがっりきった瞬間を狙って時定も切りかかるが、それはあっという間に返された刀に防がれて、刃の上をギリギリとすべるにとどまった。

 つばとつばとで競り合うが、やはり季武の方が上手。わずか一拍いっぱく合気ごうきによって、身体を入れ替えるように流されて、体勢が崩れたところを切りかかられる。


 しかし、その季武の背中を椿の爪が切り裂いた。「ぐおっ」

 そのまま刀を杖にして身体を支える季武。その脇を時定が走り抜け、椿の手を取って包囲する武士の一画へと突っ込んだ。


「どけどけどけぃ!」


 武士たちは季武の怪我も気にしているせいか、はたまた知り合いの時定を切る覚悟ができていなかったのか。たちまち打ちえられて、あいた隙間を2人は突き抜けていく。


 2人はそのまま、山道を奥へ奥へと走り出した。その背後から、季武の「追え!」という声が聞こえてきた。



 ようやく谷間に架かる橋にまで辿たどりついた2人。

 これを渡れば美濃国。さすがに美濃守みののかみの許可無くして追いかけては来られまい。


 そのまま橋を渡る2人。そこへ次々に矢が射かけられた。

 狭い橋。不安定な足場。対岸の武士からすれば、格好のまとだ。

「くっ」

 必死で刀を振り、椿を守ろうとする時定。椿も怪我をした足をかばいながら、自らも爪で矢を弾き落としつつ、橋を先に進もうとする。

 しかし余りにも矢の数が多すぎた。橋の半ばを過ぎる頃には、身体の大事な部分は守っているものの、時定の手足に5本もの矢が刺さっている。もはや刀も満足に振ることはできないだろう。


 橋を季武がゆっくりと渡ってきた。味方の矢に当たらぬように2人から距離を置いて立ち止まる。

「あきらめよ。向こうに渡ることはできまい」

 そういって刀を構えた。時定の傷。矢の援護がないにしても、すでに季武の敵ではない。

 季武にとって時定を殺すのは惜しい男だった。しかし、鬼を殺すためには最早、手加減をするつもりもなかった。


「我らが目的は鬼の討伐だ。黙って刀を置いて、こっちに来ればお前の命は助けるぞ」


 これが最後通牒だとばかりに、そう告げる季武。

 時定は笑った。


「人だ。鬼だ。笑わせる。それがどうした。種族が違えようと、あいつと我は夫婦ぞ。命をかけても、殺させなどせぬわ」

 時定はそう宣言すると、刀を一閃して橋を吊っていた荒縄を切り落とした。


 パーンと音がして、中央から切り離された橋が、あたかも振り子が戻るように、それぞれの崖へと引き寄せられていく。

 岩に打ち付けられた衝撃で、時定は縄をつかんでいた手を離してしまった。血のりで手が滑ったのだ。

 空中に放り出されようとしたところを、椿が捕まえた。


 反対側の信濃国側では、同じように崖から垂れ下がった橋の残骸ざんがいに、季武がぶら下がっている。


「射かけよ!」との号令が谷間に響いた。


 次々に矢が飛んで来るも、もはや時定にも椿にも防ぐことはできない。

 時定は刀も取り落としてしまっているし、身体から血を流しすぎて上手く力が入らない。

 椿は椿で片方の手で縄を、もう片方の手で時定を捕まえていて、どうにか足を巧みに動かして、じわりじわりと崖の上に登るのが精一杯だった。


 とはいえさすがに彼我の距離がある。谷間を吹く風もあって矢は狙いのとおりに飛ばない。それでも次々に身体を掠めるように飛んでくる矢に、2人はすべも無かった。


「うおおぉぉ」

 不意に時定が叫んだ。

 全身に力を込め、動かぬ腕を動かし血まみれの足を橋の底板だった木の板に掛け、自らの身体を支えて登り、椿の身体におおかぶさる。

 次々に時定の背中に矢が突き刺さっていった。


 その衝撃を感じ、椿は涙を流しながら時定の名前を叫ぶ。「時定!」

「大丈夫だ。椿。さあ登るぞ」

 安心させるように椿に微笑みかける時定であった。


 そのまま2人はあきらめずに縄ばしごになった橋を登り、最後は椿に、時定がおんぶされつつも、とうとう崖の上に転がりこんだ。

 しかしこの時、時定の背中には何本もの矢が刺さり、執念で登ったはいいものの、すでに意識は薄くなりかけていた。


 対岸から季武の声が聞こえてくる。

「たとえ他国に逃げようと、そなたの顔をしかと覚えたぞ。かならず息の根を止めてやる」


 椿にはその声ももうどうでもよかった。


 ただ倒れ込んだ時定の所ヘ行き、自らの血を口にふくませ、そして矢を抜いた。

 ぐはっと血を吐く時定を見て、椿が泣きながら、時定の身体を仰向けにして抱き上げ、必死でなおも自らの血を与えようとする。


 時定は力なく微笑んだ。

「椿。もういい。……もう、いいんだ」

「時定。何を言うか。血を飲め。我の呪われた血だが、前のようにそなたの命をつなぐんだ」

「いや、もう無駄だ。いかに鬼の血とはいえ、俺は血を流しすぎた」

「馬鹿を言うな」

 抗議こうぎする椿にも薄々わかっていた。前の時は人であったからこそ、鬼の血で驚異の再生力を発揮したのであって、今は同じ鬼の血をいかに与えようと、さらなる再生力には限界があると。それはつまり、時定が死にかけているということだった。


「泣くな……椿」

「時定。時定。……頼む。我を一人にするな。こんな。我ひとり助かっても、そなたがいなくて、我にどう生きろと」

「泣くな椿」


 そして、時定は言った。「俺を食らえ」

「え?」


「俺の人生はもう満足だ。お前を守る事ができたんだからな。この上もなく満足だ。……だから、これからはそなたと一体となり、ずっと一緒に生きよう」


「と、時定……」

「俺はそなたを愛してる」「我もだ」

 涙ながら口づけを交わす2人。泣き顔の椿を見て時定はにっこり笑った。


「――ああ、やはりお前は、美しいな。……美しい、俺の、椿」


 そう言い終えた途端、がくんと力が抜ける時定を見て、椿は号泣した。叫んで叫んで、叫びつづけた。

 死んだ。時定が死んだ。死んでしまった。


 やがて鬼の目に、時定の胸から浮かび上がってきた魂が見えた。青白く、美しく輝く時定の魂。椿の耳に時定の声が聞こえてくる。俺を食らえ。そして一緒になろうと。


 椿は、涙を流しながらもそれを大切に、大切に手でそっと捕まえ、やさしく口づける。そして、そのまま飲みこんだ。


「おお、おお。時定。お前様よ。これから我らは一体となる。何ものも我らを離れさせることはできぬ」


 そうして椿は泣きながら時定を、――食らった。




 それからおよそ1000年の時が流れ、かつては駿河国するがのくにとよばれた地方のとある都市。

 黒地に椿の絵柄の着物に身を包み、鬼の椿は車の後部座席から商店街を眺めていた。


 平成の日本。コンクリートの建物にアーケード街。


 ふと4人の高校生のグループが窓の外をよぎった。

 うち2人は知っている。不尽川ふじかわの西、峠を越えた先にあるここ静岡で有名な古刹寺院の跡取り息子と、古くからの剣術道場の一人娘だ。


太秦うずまさは 神とも神を 聞こえくる 常世とこよの神を 打ちきたますも」

 何かを思い出したのか、椿の口から古い和歌が漏れる。椿はそっと微笑んだ。


「のう。時定。何やら戦が近いやもしれぬぞ」

 すると椿の胸の内に時定の声がする。

〝そうだな。久しぶりに大暴れできそうだ〟

「くくく。楽しみなことよ」

 それっきり黙りこくった椿であったが、すこぶる機嫌が良さそうだ。


 椿を乗せた黒い車は、まっすぐに街道を山の方へと進み、さらに枝道に入っていく。やがて立派な屋敷の中に入っていった。

 車が停まるやドアが開かれ、椿が降りると、目の前を屋敷の玄関まで黒服の男たちが並んでいた。

 極道のようでいて極道ではない。生き残った鬼をまとめているのだ。その名も黒椿組。その組長である椿は、夜叉姫と呼ばれていた。


 子分を伴に、椿は薄く笑みを浮かべながら歩いていく。頭上に広がる空は、きれいに晴れ渡っていた。




――――

※最後の方で少し混乱されたかもしれませんが、これは、そのうち書こうと思っている現代ファンタジー(仮題)『星天の守護者』に登場する脇役のエピソードです。

※翌年、源頼光は美濃国司となり、任国へ赴いていたと考えられています(wiki「源頼光」)

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夜叉姫伝 夜野うさぎ @usagi-yoruno

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