夜叉姫伝

夜野うさぎ

第1話 炎のなかの出逢い

 今は昔。これは1000年の古の出来事――。


 長徳4998年の11月。にわかに全国で疫病えきびょう蔓延まんえんし、この国そのものが汚れた瘴気しょうきに侵されつつあるかのような気配を漂わせていた。

 京ではあやかしが現れ、ここ木曾の山中でも激しい戦いが始まろうとしていた。


 秋の夜のひんやりとした空気が林に漂っている。武士もののふたちの持つ松明たいまつの明かりが木々を妖しく照らしていた。

 どこからともなく異形いぎょうの鬼が現れたと聞き、信濃守しなののかみ中原致時むねときが討伐を決定したのだ。

 討伐の大将に任じられたのは地元木曾の武士・福島ふくしまの兵衛ひょうえ次郎光俊みつとしたちで、鬼の襲撃を受けた村里を調査し、卒塔婆そとば山より来てると噂する村人の言を得た。

 ならばと総勢500人の武士をひきいて討伐に向かっている最中、突如として異形の鬼たちが林中より現れたのである。その数は30人。


 体長2メートル。いかにも力のありそうな鬼の肉体、そして、瞳がなくランランと血の色に輝く瞳に、その額からのびる2本の角。その手の指先からは長く鋭そうな爪がのびていた。

 村人と同じような粗末そまつな服を着ているのは男の鬼だろうか。着物に身を包んだ女の姿も奥に見えるが、あれは女の鬼なのであろうか。


 現実のあやかし、それも今にも武士を食い殺さんという鬼の獰猛どうもうな殺気に震え上がる武士たち。しかしその姿こそ恐ろしいが、わずか30人である。

 福島光俊らは声高に「ひるむな。たかが30匹ぞ」と呼びかけた。


 それを見た鬼たちは鋭い牙の先からよだれを垂らし、「ぐるるるぅ」と野生の獣のごとくのどを鳴らしている。――果たしてどちらが狩る者か。狩られる者か。


「かかれぇ!」

 号令直下、弓矢が飛ぶ。そして、突撃しようというタイミングを見計らったかのように、鬼もこっちに突撃してきた。途端に、陣形を崩され、乱戦となる武士団と鬼。


 放り投げた松明が、下生えの草や積もった落ち葉を燃やし、辺り一面が火の海となる。轟轟ごうごうと燃える林の中を、鬼と武士とが戦い続けた。

 が、武士の刀を鬼の爪はたやすく弾き、風のように動いて武士を翻弄ほんろうし、人外の膂力りょりょくで鎧の上から粉砕ふんさいし、次々に武士が殺されていく。あきらかに鬼は殺戮さつりくを楽しんでいた。


 炎と血のほとばしる戦場で、流れの武士であった加賀かがの三郎時定ときさだは1匹の鬼と戦っていた。着物に身を包み漆黒の長い髪をたなびかせ、その指先から鋭くも強靱きょうじんな爪を伸ばした美しい女の鬼と。


 ……強いっ。


 天下無双の武士を目指して本拠地の親元を飛び出し、平氏か源氏に仕えようとしたが門前払いとなり、どこぞの受領ずりょうに仕えられぬかと諸国を流浪してきた時定にとって、たまたまタイミング良くこの鬼退治に参加することができたのは僥倖ぎょうこうであった。

 この鬼退治で名を高め、そして再び源平いずれかの郎従ろうじゅうに取り立ててもらおう。そう思っていた。


 しかしである。もとより力自慢ではあったが、どれほど力を込めようと、この女の鬼に刀を受け流され、返す爪は雷のごとく鋭く、あわてて避けるはめとなっている。


 たおやかな見た目。年の頃は18ほどか。京女きょうおんななど足元にも及ばぬ氷のような美貌びぼうに瞳を真紅に輝かせている。額からは小さな2つの角をのぞかせ、恐るべき鬼気を身にまとって、死そのものを体現しているかのような美しさ。

 時定は素直に思う。――なんと美しい鬼か。


 武士の断末魔だんまつま、鬼のえる声、そして剣戟と火の燃える音。

 現実味のない幻想的な戦場で、時定は女の鬼と死力を尽くして戦い……、そして、とうとうその爪で肩から切り裂かれ地面に倒れ込んだ。


 体からどんどん血が流れていく。薄くなっていく意識、重く冷たくなっていく体。命が少しずつ体から抜け落ちていくような感覚。

 女の鬼は時定を見下ろしていた。その爪に時定の血をしたたらせたままで。


 かすみがかっていくような視界に、炎の海を背景に美しい女の鬼が時定を見ている。時定は口元に笑みを浮かべた。「……お前は、美しいな」

 意識が闇に沈んでいく。その最後の瞬間まで鬼を見つめ思った。

 こんなに美しい鬼に殺されるのなら、最期を看取みとられるのならば、それならそれで良いのかもしれぬ――。




 ふと目が覚めた。

 まるで深い眠りについて、まだ寝ぼけているかのように、ここがわからない。体を起こそうとすると、たちまちに激しい痛みが体に走った。

「ぐっ」

 思わずうめき声を上げ、そのまま脱力した。頭ががんがんと痛む。


 目玉をぎょろりとめぐらして、まわりを見渡すけれど、そこは見知らぬ小屋だった。いや、あるいは酒にったせいで忘れているだけかもしれないが。


 時定は意識がはっきりしてくるにつけ、尚のこと混乱した。俺は死んだはずだ。あの美しい女の鬼に看取られたはず。ならばここはどこだ?


 夢ではない。体の痛みが、ここが現実だと教えてくれる。ならばあの世でもこのような痛みがあるのだろうか。


 しかし間もなく小屋に誰かが入ってきた。すぐにその誰かは時定が目を覚ましたことに気がついて、近づいてくる。

 その誰かは、あの女の鬼だった。相変わらず表情の読めない目で、時定を見て、

「目を覚ましたか?」

 ずっと寝ていたせいか、声を出そうにもかすれた声しか出なかった。

「おぬしは……。俺は……」

「我は椿つばき。そなたは生きておる」

「お前が……」


 助けてくれたのか? ここはどこなんだ?


 うまくしゃべれない時定ではあったが、椿と名乗った鬼はそれがわかったようで、

「そなたの仲間は全員死んだ。我らが殺した。……じゃが、お主は我の血を飲ませ、ここの隠れ家にこっそり運び入れた」


 血を飲ませ? ……それがどういう意味かわからないが、この椿に助けられたのは確かなようだ。

 だが、時定はますます訳がわからなくなっていく。なぜ俺を助けたんだ? お前らを討伐とうばつしようとした武士の一人である俺を。

「な、……ぜ」


 問いかけた時定の言葉を聞いて、椿は目をまたたいた。黙り込む。言葉を選んでいるのか? しかし、その表情のない顔からは何を考えているのかわからない。


「我にもわからぬ。……ただ。……そう。ただ、このままお主を殺してしまうのは、してはならぬと思った。助けねばならぬと。なぜかそう思ったのだ」


 そう言う椿もまた答えを探しているようだった。時定は拍子抜けした。そのまま脱力して小屋の屋根を見る。

 椿はそれを見て、

「その傷がえるまでは面倒を見てやろう。この小屋は隣の山にあって一族の者には知られておらぬ。しかし、外に出るでないぞ」

 時定は小さくうなずいた。


 こうして時定と椿の生活が始まった。



 どうやら鬼の血には傷を癒やす効果があるようだ。あるいは鬼の生命力が体に宿るのかもしれない。

 ともかく時定は、あれほど瀕死の重傷であったにもかかわらず、みるみる内に回復していった。

 不思議がる時定に、椿は明かした。「お主の食事に、わずかだが我の血を混ぜている」と。


 椿は時定の面倒を見てくれた。食事もそう。体に巻いた布を外して、傷に当てた薬草を取り替えるなど。重いはずの時定の体であるのに、その細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど軽々と抱き上げたり、体位をかえられたり……。

 相変わらずの無表情であるが、時定はいつしか椿に恋をしていた。あるいは出会った時からかも知れないが、その無表情の下の椿の感情が感じ取れるようになっていた。


 切り裂かれた胸も腹も、いつしか傷のところの肉が盛り上がり、さらに色がほかの肌と同じようになり、痛みも感じなくなっていく。体も起こすことができるようになり、立ったり歩いたりできるまでに回復した。

 だがしかし、時定はその小屋から出ようとはしなかった。この小屋を出て山を下りたいと思わなかった。むしろ、椿のそばから離れたくなかったのだ。


 何日かに一度の夜、椿は留守にした。帰ってくるのはだいたい深夜だったが、時定は起きて待っていた。「先に寝ておればよいのに」と呆れたように言う椿は、何をしてきたのか教えてはくれなかったが、かすかに漂う血の臭いでどこかで戦ってきたのだとわかっていた。それが動物相手か、あるいは武士相手かはわからなかったが。


 ある時、日中にもかかわらず椿がどこかに出かけており、帰りが遅かった。夕飯時になっても帰ってこない椿を、時定は心配しながらも手持ち無沙汰ぶさたにして待っていた。


 次第に気心きごころを許すようになっている椿だったが、その料理はお世辞にも旨いと言えるものではなかった。調味料が無いのである。

 そんなこともあって、時定は小屋にあった山菜に、昨日調理した残りの鳥肉、自らの懐中袋から竹筒を取り出し、中に入れてあった味噌を使って鍋にした。帰りが遅くなっている理由はわからないが、椿を殺せる生き物などいまい。疲れて帰って来るであろうから、旨いものを作ってやろうと。


 ちょうど味噌鍋ができたころに椿が帰ってきた。

 少し急いで帰ってきたのか、その頭に草の葉っぱが乗っかっていた。まるでかんざしでも挿しているかのように。


 時定は笑いながら、椿に近寄ってその葉っぱを取り、

「面白い髪飾りをしてきたな。……こんど、ちゃんとしたかんざしを買ってやろう」

というと、椿は初めて笑った。「それは楽しみだ」

 時定はその笑顔にみとれてしまった。


 それから二人で味噌鍋をつつくや、椿はその鍋の旨さに驚いた。

 今日はいつになく感情が表れることよ。

 時定はそう思いながら、幸せな気持ちになり、とうとう椿に告白した。

「お主が好きだ。一緒になってくれ」

 確かにその日は椿の色々な表情が見られる日であった。キョトンとした椿が、「我は鬼ぞ」と言うが、時定は「構わぬ。心底れた。お主がいいと言うまで、俺は結婚を申し込む」

 微妙な表情になった椿は表情を消し、「すまぬが少し外に出る」と言って、食事も途中のままで出て行った。


 時定は落胆したが、勇気を振りしぼり、椿が駄目だと言っても決して諦めぬと固く誓った。

 そのまま椿が帰ってくるのを待ち続けたが、深夜になっても帰っては来ない。時定は起きて、椿の帰りを待ち続けた。


 このまま帰ってこぬのではないかと心配になったが、ようやく朝がたになって椿が帰ってきた。時定を見るなり、

「良いぞ」

 ただ一言だけ言った。時定は思わず椿を抱きしめたまま、喜びの余り、小屋の中をぐるぐると踊った。

 いつしか椿も微笑みを浮かべていた。


 小屋から遠くに行かぬ、そして午前中だけという約束で、時定は外に出ることを許された。

 これで刀の稽古けいこができるとあって、喜びいさんで外で刀を振るう。不思議と怪我をする前よりも体の調子も動きも良い。……いや良いどころではない。力がどんどん湧いてくるし、飛び上がれば2メートル、3メートル平気で飛び上がれるようになっていた。

 これも椿の鬼の血のお陰であろうか。


 椿は眠そうにしながらその訓練を見て、

「朝から飽きもせず、よくやるものよ」

と言った。眠そうなのは、あれだ。昨夜は遅くまで夫婦の営みをしていたからだ。


「俺の夢は、天下無双の武士となることさ。お前のお陰でなにやら調子が良い。この状態で技こそ身につければ……」

と輝くような笑みで言う。

「ふむ。天下無双の武士……か」

 椿は考え込んでしまった。確かに椿が自らの血を与えたことにより、時定は鬼の力をその身に宿している。十全とはいかなくとも、このまま技を身につければ、一族の者とも対等に戦えようと。



 夫婦となった2人は仲良く暮らしていた。時定が気がかりだったのは、何日かに一度、椿が夜を留守にすることだった。戻ってくるときは決まって疲れ果てた様子だった。

 それも初めは7日に一度。それが5日に一度となり、最後には3日に一度となる。

 何をしに行くのかと尋ねたことがあったが、苦笑いを浮かべて「鬼の習性だ」とだけいわれ、さもありなん、仕方あるまいと思うことにした。


 椿には秘密があった。いや、鬼の習性といった椿の言は正しかったというべきか。

 数夜に一度、椿が留守にしたのは、鬼生来の欲求に耐えるためだった。

 鬼の愛し方は、その愛する者を食らう、そしてその者と一体になること。この愛の在り方こそ、鬼の呪われた習性だった。

 夫婦になった椿は、四六時中、この欲求に耐え続けた。表情には出さない。そして、夫にも隠して耐えた。


 そもそも椿が時定の命を助けたのは、自らを美しいと言ってくれたことにあった。お前は美しい、その想念を込めて見つめられたこと。鬼である椿にとって矛盾ではあるが、時定を死なせてはならぬと思ったのだ。

 そして夫婦となり、人が人を愛することの心地よさを知った椿。天下無双の武士となりたいとの時定の夢を知ればなお、鬼の習性に従って時定を食らうことはできなかった。


 故に耐えた。耐えて、耐えて、そして数日に一度、我慢できそうになくなると、一人谷川にある洞窟にもって自らを傷つけ、その欲求に耐え続けていたのだ。


 それでも椿は幸せだった。まだ喜怒哀楽が表情にはっきりと出るわけでもなかったが、それでも時定といるのが幸せだった。その言葉を耳にし、見つめられ、彼の者の匂いをかぎ、ぬくもりを感じ、そして抱かれて一つになるのが喜びだった。



 こうしてひっそりとした人と鬼の夫婦の生活はつづいた。

 けれど、悲しき宿命が二人に忍び寄っていた。いつまでも続くと思えた生活の終わりが近づいてきたのだ。


 ある朝、時定がいつものように刀を振っていると、少し離れた林の中から話し声が聞こえてきた。そっと視線をやると椿と2人の女が対峙している。この女、その正体は椿の2人の姉だった。もちろん鬼である。

 あわてて小屋の影に時定は隠れた。このような山中に妖しげな女人。明らかに鬼であろう。ここに人間である自分がいると知られるのはまずい。


 一方、椿は話し声が時定に聞かれはしないかと心配で小屋の方をちらりと見た。この時間、時定は稽古をしているはずだが、今はその姿はない。小屋の中に戻ったのかと安堵した。


 2人の姉は椿を責める。「人間の男などとなぜ暮らしている」と。

 椿は言う。「夫婦となった」と。

 姉は悲痛な眼差しで椿を見た。

「一族のおさからの通告だ。人と鬼とは一緒に暮らせぬがおきて。椿がその人間を殺せ」

 しかし椿は「せぬ」と断る。2人の姉は次第にすがるような表情になり、

「なぜだ。鬼の愛し方は、相手を食らい、愛する者と一つになることではないか。ならば殺して食らえばいいではないか」

 椿は気まずい表情を浮かべつつ、姉に言う。

「我は、人の愛し方の喜びを知った。それに我が夫には天下無双の武士となる夢がある。その夢を奪いたくはない」


 椿の答えを聞いた2人の姉は、即座に爪を伸ばして鬼気を身にまとう。

「そなたが殺せぬならば、掟に従い、我らが殺すぞ」

 椿もすぐに爪を伸ばし、2人の姉に対峙した。「させぬ」



 相手のすきを窺うように対峙する両者。

 長姉は言う。「一族から抜けるか」

 椿は躊躇ちゅうちょせずに「なり」と告げた。


 それを聞いた2人の姉鬼は、「ならば我らの手より逃れて見せよ」と言いながら、椿に襲いかかった。

 振り下ろされた爪をかいくぐり、返す爪で横にぐ。2人の姉はそれを受け流すことなくその身で受け、そのまま後ろに飛び下がった。

 血のにじむ着物、傷の痛みをも構わずに再び爪を構える姉鬼2人の目からは、一筋の涙がこぼれた。


 そう。掟で2人は殺さねばならないのだ。一族を裏切った妹を。契りを結んだ2人を。


 しかし、椿を思う姉鬼には非情にてっしきることはできなかった。故に攻撃に手を抜き、無言のうちに、逃げろと念じていた。

 涙を見てその意図するところが伝わった椿は、自らも涙をこらえて小屋に向かって走りながら声を挙げた。「時定! 逃げるぞ!」

 あわてて小屋の陰から飛び出してきた時定の手を取り、一目散にその場から逃げた。


「待て!」と叫びつつ追いかける2人の姉鬼。たとえ演技でも追いかけねばならない。……そう、姉鬼が情に流されずに椿を殺せるかも監視されていたのだから。



 木々の間を転げるように走る椿と時定。鬼である椿はもちろん、その血を身に宿した時定も人ならざる速さで木と木の間を通り抜けていく。


「あの2人は?」

と言いかけた時定に、短く「姉だ」と答える。

「本当にいいのか――」

 このままでと言いかけた時定に、椿は「よい。我はお主の妻なれば、覚悟はしてあった」と言う。

 時定は表情を硬くして一言。「すまぬ」

 椿は「謝るでない。そなたのせいではない。我が決めたことぞ」


 それでも時定は申しわけなく思った。

 椿は別だが、鬼は鬼。あやかしの化け物という認識をいまだに持っていたのだ。しかし、さきほどのやり取りを見て、直感的に納得してしまった。彼らもまた人であると。

 もっとも先ほどの会話を聞いてしまった時定は、鬼の愛し方は相手を食らうことと知ってしまった。

 同時に疑問にも思う。相手を食らうならば、一体どのようにして家族の関係を維持しているのか。もっともわからないなりに、親子があり、姉弟がいて、互いを大切に思っているのは、あの姉2人の様子からはっきりしている。


 時定は知らなかったが、愛する者を食らうとは鬼の男女の愛し方である。家族愛とはまた違う。

 夫婦になる時には、互いに相手にみ付きながらまぐわって契りをなすのだ。しかし、互いに強靱な肉体を持っているが故に、凄まじい再生力を持っているが故に死ぬことはないのだった。



 椿はそれをしなかった。人の愛し方で時定に抱かれた。いかに血を分け与えたとはいえ、時定は人間。鬼のような身体再生力はない。先ほどの会話を聞かれたとは思っていない椿は、これからも人として時定を愛するつもりだった。


 それに、追いかけてきた姉の辛い立場もわかっていた。自分がどれだけ家族に愛されていたかも。そしてそれらを捨て去って、時定を選んだ自分の決断がいかに彼女たちを苦しめているかを。

 だが時定と一緒にいれば、いずれ同じ事になっただろう。……こうして惚れてしまったからには、どこまでも追いかけるのが鬼の女のごうなのだ。



 どれくらい走り続けただろうか。時定にも鬼の尋常ではない体力がたしかに宿っていたようだ。

 夜になり、また朝になり、人の住む里が見えてきたところで2人は足を止めた。……追いかけてくる気配はない。もっとも2人の姉は初めから逃がすつもりだったのだろうが。


 これからどうしようか?

 2人ともそう思っていたが、やがて時定が、「里はずれに住まわせてもらおう」と言う。

 あの里は自分たちが鬼討伐のために一時的に滞在していたところである。

 故に討伐で重傷を負いつつも、からくも生き延びて山中をさまよい。別の里で看病してもらってから帰還したことにしようと言う。


 幸いに椿の角は元よりそれほど大きくないが、さらに引っ込めることができる。髪で隠せば人と変わらない。

 看病してもらった娘に情が移り、夫婦となった。それで大丈夫ではないかと。


 その提案に椿はうなずいた。……もう一族の元には戻れぬ。椿の家族は時定一人となった。

 ならばこれからは人として生きていかねばならぬ。幸いに時定は世の中の事を知っていた。

 時定は言う。もしこの里にいられなければ、また流れればよい。諸国を2人でとは、なんとも風流ではないかと。


 こうして2人は里はずれに住まうことになったのだった。


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