真夜中に生まれる変わる明日
凍った鍋敷き
真夜中に生まれ変わる明日
透明で黒い空の下。
空気が動かない物寂しいビルの屋上に僕らはいた。
欠けた月がぼんやりと僕らを見下ろしている、そんな夜。
「ねぇ知ってる?」
隣に立つ彼女が言った。柵に肘を乗せ、月を見上げている。その頤が欠けた月にかぶって、いつもより三割増しに綺麗に見えた。
「世界ってね、日付が変わる時に、生まれ変わるんだって」
日付か。僕は腕時計に目を落とした。九月二十四日。世間では中秋の名月だとか。
あと一分で今日が終わる。
「ほんと、かわったことを思いつくよね、君っ……て」
僕は視線を彼女に戻した。妙に艶やかなその頬は薄らと紅みを帯び、さっきまで重ねて合わせていたその唇は、月のような弧を描いている。
いつもと違う気配の彼女に、僕の心臓がコンマ五秒だけ止まった。
「そう? 頭は柔らかい方が、いいのよ?」
にこやかに笑う彼女は、世間一般で言う〝変わり者〟だ。
虫が好きなのか蝶や蜂に興味を持ってて、いつか私も蛹になって生まれ変わりたいなー、なんて空想じみたことを言っていた。
間違いなく美人にカテゴライズされる容姿だと思うけど、変身願望があるのかもしれない。
そういえば、虫になってしまう小説があったな。カフカの『変身』だ。読んだけど、あまり良い印象を持たなかった。
やっぱり、ハッピーエンドの話が読んでても気持ち良い。
「もうすぐ世界が生まれ変わる」
彼女の、どこか陶酔したような呟きに、僕は思わず腕時計に目を落とした。あと三十秒だ。
「たまにね、世界が生まれそこなう時があるんだって。今晩もそんな夜よね」
彼女は奇妙なことを口走った。
「だって、今日は中秋の名月で満月なはずなのに、お月様はツンとお澄まししてるもの」
彼女は食い入るように月を見ていた。確かに今日は中秋の名月と言われ日だ。毎年、必ず満月なわけではないらしいけど、それでも綺麗な三日月になるはずはない、というのが彼女の言い分だ。
それは、世界が変身に失敗したのだと、そう言いたいのだろう。
「きっと、今晩も失敗するんだわ」
嬉しそうに、その予言が当たることを確信しているかのように、彼女は笑った。
黄色い月に照らされた笑顔は、美しかったがどこか狂気じみてもいた。
彼女はどこまで本気でそんな空想じみたことを信じているんだろう。一片の曇りもないその微笑みの奥に狂気が隠されているとは、僕には到底思えなかった。
「あ、今日が終わる」
彼女が空の一点を凝視して、呟いた。
つられて視線を動かした先で僕が見たものは、日めくりカレンダーが破られるように、ペラリと天空が
想像の斜め上を行く光景に、僕は声も出せず、目も離せなかった。
星の輝きは
「ちょ、今のなに?」
異常事態に、僕は彼女に助けを求めた。彼女は生まれ変わることを知っていた。昨日がおかしかったことも知っていた。ならば、彼女ならば。
でも、僕の目に入ったのは麗しい彼女ではなく、巨大な蟷螂だった。その有機的な緑色の複眼は、僕を確実に捉えていた。
彼女の腕の鎌が振り上げられた。星に彩られた夜空に、それは紅く輝き、恐怖の権現と化した。
「えっ……」
全てがスローモーションだった。
緋色の鎌を携えた死神は、何の前触れもなく、躊躇もなく、その猛威を振るう。
息をすることさえできないでいる僕のその胸に、突き刺さった。
胸を襲う衝撃は骨を砕く音を響かせ背中に抜けた。激痛は灼熱を伴って、遅れてやってきた。
「ッああああああ!」
胸が焼けるようだった。
喉の奥から悲鳴と液体が込み上げてくる。
僕の視界が紅く染まる。
もう一つの鎌が、僕の首を狙っている。
「なんで、かまき、り」
そうか、今日は生まれ変わりに失敗したんだね。
そして、君は虫に生まれ変わった。
さっき、愛し合ったからかな、君が蟷螂なのは。
蟷螂は交尾後に雄を捕食する。より多くの卵と栄養を残すために。
死んだものには興味を示さず、生きている餌だけを食べるらしい。あぁ、今の僕は美味しそうなご馳走なんだろうな。
君に引き寄せられ、僕の首に鎌がかけられた。硬い。ちょっとチクチクする。君の柔肌はどこに消えてしまったんだ。
「グブ」
僕の喉に彼女が噛みついたようだ。穴の開いた自転車のタイヤみたいに空気が漏れていくのがわかる。仰け反る僕の視界に、赤に染まる満月が浮かんだ。
ブラッディムーンよりも濃密で、生命の紅だ。
実は、今日は変身に失敗したんじゃなくって、これが本当だったんだんじゃ……
昨日、変身しそこなった世界は、幻だったんじゃ……
では、僕は。僕の記憶は……
遠く、夜空に伸ばした腕は……緑の……みど、りの。
真夜中に生まれる変わる明日 凍った鍋敷き @Dead_cat_bounce
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