第5話

「これはな、『女官とお医者さんごっこ』に当たったからだよ」

 目を伏せ額を擦ったまま、リューズは答えた。

「典医の服はどこから持ってきたんだ」

「典医が持ってきたんだよ。腹が痛くて死にそうだと呼びつけたら、慌ててやってきたので、服だけ借りたんだ」

 それでは二日前から何人か、肌着姿で慌てて走り去る者が、族長の居室から出て行ったわけだ。

 やはり頭が痛くて、イェズラムも額を押さえた。

「よくもそんなことを……」

「腹が痛かったのは、本当だよ。今も猛烈に胃が痛くて、吐きそうだ。それで煙管を吸ってるんだけど、ちっとも効かないんだよ。これは、悪徳な商人が掴ませてきた、まがい物ではないのか。イェズラム、お前のを貸せよ」

 赤い煙管を差し出して、リューズはそこに葉を詰めろというような、ねだる仕草をした。その目がどんよりと暗かったので、イェズラムは説教する目で首を横に振ってみせた。

「けちだな、お前は」

 顔をしかめて、リューズは罵った。

 家臣にそんなことを言うべきでないと、小言が喉まで出かかったが、イェズラムはなんとか黙っておいた。

 なんだかリューズは妙だった。本当に薄い磁器でできた置物で、ちょっとした衝撃で粉々に粉砕されるのではないかというような、危うさがあった。

「戦のことをな、考えていないわけじゃないんだぞ、俺は。ずっと考えているんだ、イェズラム」

 言い訳めいた口調で、リューズが急に意を決したふうに、そう言った。

 イェズラムは、軽い驚きとともに、リューズと向き合った。

 リューズは苦痛を堪えるような顔で、かすかに眉を寄せていた。腹が痛いせいかと思えたが、イェズラムはリューズのこの顔に、見覚えがあった。

 こいつがまだ幼髪のころ、文字を覚えろと怒鳴りつけて、手本を渡し、一日放って置いてから、成果を見に行ったとき、リューズはこういう顔をして、書き写したものを差しだしてきた。

 その時と同じ蒼白の渋面で、リューズはどことなく上ずった調子で、話を続けた。

「勝たねばならないんだ。勝たないとな、今も俺の兵は死んでいるかもしれないんだ。宮廷の馬鹿げた連中と、朝から晩まで、頭を下げたり上げたり、立ったり座ったり、そんなことばかりやってる場合じゃないんだぞ」

 なじるような早口だった。

 イェズラムはそれをただ、頷いて聞いた。

「どうすればいいんだ、イェズラム。思いつかなかったら。必勝の策なるものを。俺が思いつかなかったら、部族は滅亡か。思いつかなかったら……思いつかないなんて、そんなこと言えるか。みんな俺を信じて待っているんだぞ。お前もそうだろ。必勝の策を、待っているんだろう」

 煙管を握ったまま、そう言うリューズの手が、がたがた震えていた。イェズラムはそれと、リューズのどこか一点を見つめたような金の目とを、忙しく見比べた。

 リューズは寒いのでも、怒っているのでもない。怖いのだ。それで震えているのだった。

 決して臆病な質ではなく、リューズはむしろ肝の据わったほうだ。

 それがまさか、ここまで参っているとは、イェズラムは想像していなかった。

 久々に王都に戻って、お気に入りの魔法戦士たちを道化のごとく侍らせて、羽根を伸ばしているのだと思った。

 報告に来るシャロームたちは大抵、リューズの機嫌はいいと言っていた。ちょっとしたことで不機嫌でいても、遊びの中でのことのように聞こえた。怖くて震えているなどと、シャロームは仄めかしもしなかった。

 もしかすると、やつらも知らないのではないかと思えた。あの三人が出ていって、ここで軍略図の模型と二人きりになり、急に震えが来たのではないか。

「しっかりしろ、リューズ。お前は族長なんだぞ」

 励ましているのか、叱っているのか、自分でもよく分からない口調で、イェズラムは教えた。それを聞くリューズは、聞こえているのか、いないのか、見開いた目で、食い入るように戦地の模型を見つめているだけだった。

「あのな、イェズラム。族長は死なないとやめられないのだよな」

「今死ねば、お前は短命の暗君だ」

 リューズが何を考えているのか、イェズラムには分かった。

 こいつは『戦死する』の枡目に止まりたかったのだ。そしてそれを己の悪運だか、シャロームのいかさまだかに阻まれて、どうしていいか分からなくなったのだ。

「短命の暗君ではだめか」

 もう燃えていない煙管を、それを忘れているのか、リューズは銜えた。

「だめだ。俺は名君の大英雄になりたいから」

 イェズラムがそう断言すると、リューズはさらに眉を寄せ、今にも泣くのかという顔をした。

「そうか……そうだったな。お前を大英雄にか……そんなこと、俺にやれると思うのか」

「さあ、どうだろうな。失敗すればお前は暗君で、俺は英雄になれない」

 答えるこちらに、リューズは目もくれず、鼻をすすって、模型の上の守護生物トゥラシェの大群を見下ろしていた。

 それはまるで、子供のころの悪い夢に出てくる怪物のようだったが、優秀な千里眼たちによって遠視された、現実の姿だった。今では動いて、場所は違っているかもしれないが、ひときわ大きな一体が、敵の陣の中央あたりにいた。それが司令塔のようで、これは樹木のように根を張っており、一年近く戦う間も、その場から微動だにしていなかった。

「畜生、暗君か……」

 煙管を持った手で、自分の唇に触れ、リューズは暗い目で独りごちた。その瞳に、小さな怪物の人形が映って見えた。

「俺はそれでもいいけど、イェズラム、お前まで巻き込むのは悪いな。これまで命を削って戦ってきたというのに、さぞかし無念だろうし、それに、俺は冥界でまで、未来永劫お前に文句を言われ、説教をされるのかと思うと、今頑張ったほうが、よっぽどましだな」

 思い詰めたような顔で、リューズはそう話した。

 冗談ではないらしかった。

 イェズラムはその奇妙な話を聞き、じわりと内心で反省した。

 リューズも未熟なりに、良くやっていると思うが、いつも説教ばかりして、褒めてやったことはなかった。いくらやっても、やるべきことは山のようにあって、自分にも、リューズにも、ただもっと頑張れとしか、言い様がなかったのだ。

 自分はそれで平気だった。昼には粉骨砕身し、夜にもさらに働いて、死ぬまで戦い続けるのが、自分の勤めと割り切っていても、それがつらいと思わない。

 だがリューズは、つらかったのではないか。現にたった今、つらいと言っている。

 しかし他に何か、言えることはなかった。ただ頑張れとしか。族長冠を戴いたからには、お前も粉骨砕身して、死ぬまで頑張りつづけろと。

 だから休みたければ、死ぬしかないのだと、こいつは思ったのだろう。

 そしてそれは、本当のことだった。

「リューズ、お前が『名君の死』であがったら、未来永劫、褒め称えてやる。食いたいものは全部食わせてやるし、お前のやりたいことは、なんでもやらせてやる。二度と説教もしない」

 だから今は、頑張ってくれ。

 結局そういう、いつもと同じ説教しかしない自分が、どうしようもなく情けないと、イェズラムは思った。

「そうか……でもイェズラム、お前が説教しないと、それはそれで、俺は気持ちが悪いんだよ」

 嘆くようにそう言って、リューズは腹を押さえ、鋭く呻いた。

 どうしたのかと思って、イェズラムは青くなった。

 リューズは子供のころから、胃弱の気があった。妙なもんを食ってみては吐き、何かに追いつめられると胃痛に苦しんでいた。

 しかし、それを知っている者は僅かだった。なんでも平気で食らい、どんな激戦でもけろっとしている肝の据わった族長リューズが、まさかこんなふうだとは、誰しも想像もしていない。戴冠以前は、リューズにそこまで親身になる者はいなかったし、今もある意味、そうかもしれなかった。

 侍医を呼ぶかと、イェズラムは考えたが、確かすでに呼んだと言っていた。それにこの状況で、人を呼ぶのはまずい。族長らしさからほど遠い姿を、これ以上、臣に晒させるわけには。そんな打算も湧いて、イェズラムは情けなくなり、ほとほと参った。

「ものすごく腹が痛いが、これはなぜだ、イェズラム」

「腹が減っているか、変なもんを食ったか、悩んでいるかだろう」

 悔やむ顔で、その場で釘付けになったまま、イェズラムは教えた。寄っていって背をさするべきか、猛烈に悩んでいた。当然そうするべきという気もしたし、族長に対して、それは不敬だという気もした。

「その全部じゃないのか……」

 胃の辺りを押さえ、床に手をついているリューズは、脂汗をかいていた。イェズラムはふと、リューズが見つめている双六の枡目に『夜光虫を食う』と書いてあるのを見つけてしまった。

 王宮のさらに地下にある地底湖にいる、棘皮生物のことだった。暗闇でも敵に襲われると威嚇のための光を発するので、そういう名前がついている。イェズラムは食ったことがなかった。食うようなものではないからだ。

「リューズ、お前は馬鹿なのか」

 さらに情けなくなって、イェズラムは尋ねてみた。違うと言ってほしかったが、それなら尋ねたのは間違いだった気がした。リューズはいつも、自分は馬鹿だと信じているのだ。何事か不始末があってイェズラムが叱ると、リューズは毎度、どうせ俺は馬鹿なのだと言っていた。

「畜生、シャンタル・メイヨウめ……俺のことを、穴掘り《ディガー》の統率者だと言いやがった」

 苦痛に喘いでいる声で、リューズは二つ折りになり、そう悔やんだ。

 追いつめられると、リューズはいつもこの話だ。

 緒戦のころに、敵の族長が送ってきた伝令が、リューズの即位を言祝ぐかのような言い回しで寄越した伝言の、宛名がそういうふうになっていた。

 精霊樹アシャンティカの契約者より、親愛なる穴掘り《ディガー》の統率者へと、森エルフ族の族長シャンタル・メイヨウは使者に語らせた。リューズはおそらく、そこから先を聞いていなかった。戦陣にやってきた使者が話すのを、わなわな震えながら途中まで聞いたが、突然抜刀して近づき、自分の手でその使者の首を刎ねた。

 穴掘り《ディガー》とは、太祖より以前の森での奴隷時代に、支配者だった森エルフたちが、まだ名のなかった祖先たちのことを呼んでいた呼び名だ。今では蔑称である。少なくとも、こちらにとっては、口にするのもおぞましいような。

 しかし、それだけで使者の首を刎ねずにおれないほどの怒りは、イェズラムには感じられなかった。リューズは部族の名誉に深いこだわりを持っていた。この部族を愛し、王都を愛することだけが、幼少の頃から、こいつの心の支えだった。

 その神聖なもののために、自分は死ぬのだから、それは名誉なことだと信じずには、到底耐え難い幼少期だったのだろう。名誉ある太祖の、誇りある血筋を保つために、リューズは玉座にあがる兄に族長冠を譲って、自分は死なねばならない運命だったのだから。それがもし高貴な血筋でなければ、一体何のために耐え、何のために死ぬのか、道を見失う。

「イェズラム、俺は穴掘り《ディガー》どものデンか……」

「いいや、お前はアンフィバロウの末裔だ。今ではその族長冠を受け継いだ、唯一無二の存在だ。至高の玉座に座した、生きている星だ」

「負ければ穴掘り《ディガー》に逆戻りなんだ」

 励ましても無駄だった。

 イェズラムは仕方なく、ただ黙って頷いた。

 リューズは現状をこれ以上なく理解している。諭すようなことは、何もなかった。

 今この一戦に勝てないからといって、それで即、王都が陥落するわけではない。むしろ緒戦のころより、ずいぶん勝ち進んでいた。それでもリューズには即位したての頃の、今にも敵がタンジールに押し寄せるのではという感覚が、拭い去れない恐怖として感じられるらしかった。

 それは本人には苦痛だろうが、部族の命運を預かる族長としては、ふさわしい恐怖だった。一退を恐れず、やむなくそれを繰り返してきたことで、リューズの父親だった先代は、とうとう王都まで敵をおびき寄せたのだ。

 退かねばまずい時もあるが、それを最初には考えない根性が、リューズの戦線を今の位置まで奇跡的に押し出してきた。今後もこいつには、その恐怖を忘れないまま、戦ってもらわねばならない。

 そう思うが、目の前で苦悶されると、哀れだった。なにか気が楽になるような言葉を、かけてやりたかったが、イェズラムはそれを何一つ、思いつかなかった。あまりにも、不甲斐ない話だ。支えてやろうなどと、思い上がってここへ来たが、結局自分も、この族長冠を無理矢理かぶせた弟に、寄り縋っているしかない者のひとりだ。

「畜生、穴掘り《ディガー》か……」

 代々の族長が踏んだ居室の床に、リューズは呻くように語りかけていた。

 そして苦悶の表情で目を閉じ、やがて、その薄青いような瞼を、リューズはゆっくりと開いた。

 ぽかんとしたような金色の目が、床に敷かれた絨毯の文様を間近に見下ろしているのを、イェズラムもどこか、呆然として眺めた。

「あ、それだ」

 ちょっと何か思いついたという口調で、リューズはぽつりと言った。

「掘ればいいんだ、イェズラム」

 ああ、なあんだという口調で、リューズは言った。

 そして身を起こして、虚脱したように床に座り込んだ。

「あのな、この崖を、この辺からな、敵の側面に向かって掘るんだ」

 双六の枡目を書くためにあったらしい筆を取りに行き、乾きかけている墨をつけて、リューズはそれで模型の、味方の軍を阻む崖の上に、ひとすじの線を描いた。

 要するに脇道を作ろうというのだった。

 まだ呆然としたまま、イェズラムはリューズを見つめた。

 言われてみれば単純なことだった。渓谷を通ってしか攻め寄せられず、それを出口で待ちかまえられて撃破されているのだから、他にもこっそり通れる道があって、そこから進入が可能なら、敵陣を奇襲できる。もちろん向こうが気づかなければの話だが。

「掘れるかな」

 書き終えた筆で耳の後ろを掻いて、リューズは尋ねてきた。訊けばこちらが何でも真理を答えると思っているような口調だった。

「さあ。工人に訊いてみないとな。でも掘れるだろう。この壮大な地下都市を建設している部族だからな、我々は」

「そうだなあ、先祖代々の穴掘り《ディガー》だから」

 それがたまらん冗談だというように、リューズはやつれた顔に、にっこりと上機嫌の笑みを浮かべた。リューズのそういう顔を、イェズラムは久々に見た。

 かつてその笑みを、リューズが話した最初の必勝の策の解説のあとに眺め、イェズラムは、こいつも名君の血筋の末裔なのだったと気がついた。

 太祖より以前、この部族の者たちは長らく森の奴隷で、その事実に疑問を抱かなかった。もしかして、我々は自由になれるのではないかと、その単純な事実にアンフィバロウが思い至らなければ、今もきっと、自分たちは森の穴掘り《ディガー》だったのだ。

「奇襲したあと、どうしようか、イェズラム」

 奇襲は成功すると信じている口調で、リューズはその先のことを話していた。

「さあ、お前はどうしたいんだ」

 作戦に没入している様子のリューズの横顔を眺め、イェズラムはただ相づちのように答えた。

「実は前々から、試したいことがあってな」

 居室の隅にあった、蜜蝋を燃やした灯火をとりにいって、リューズはそこから溶けた液状の蝋を、とろとろと敵の司令塔らしき守護生物トゥラシェの周りに垂らした。それから火をそれに燃え移らせようとしているようだったが、なかなか上手くいかなかった。

「ありゃ。燃えないな」

 いかにも失策というように、リューズが顔をしかめた。

「灯心がないと燃えない。そんなことも知らんのか、お前は」

 驚いて教えると、愕然という顔で、リューズが頷いた。

 たぶんリューズには、知っていることより、知らないことのほうが多いのだ。誰しもそうだが、水準と比べても、リューズは無知だった。

 それも仕方がなかった。アズレル様が亡くなり、こいつが新星として立つまでの十七年、リューズは一度もまともな教育を受けたことがない。だから自分で見聞きした実体験のほかには、リューズは世の中のことを、人から聞いた話か、詩人たちが詠唱する英雄譚ダージや戯曲、あるいはアズレル様が好んで上演させた仮面劇でしか、知る手だてがなかった。

 そこには、蜜蝋が灯心無しには燃えないという話は、一度もなかったのだろう。誰も話さなかったのだろうし、イェズラム自身も教えた憶えはない。

 でもそれを知らないからといって、誰がこいつを馬鹿だとなじれるだろうか。

 リューズが何をしたいのか、見ればわかったので、イェズラムは魔法を使って、リューズが垂らした蜜蝋のあとを、燃え上がらせてやった。

 炎の蛇の異名をとる、当代随一の火炎術師の手にかかれば、こんなものは簡単だった。

 燃える火の輪の中にある、敵の司令塔を見下ろし、リューズは微かに嬉しそうな笑みを浮かべた。

守護生物トゥラシェは火を怖がるだろう。だからこうして囲めば、逃げられないし、こいつが本当に司令塔なんだったら、これで敵の全軍の指揮が混乱するかもしれないと思ってな」

「長く燃やすなら油がいるな」

 イェズラムはそれを手配する算段を、もう頭の中で始めていた。

 点火は簡単だった。炎の蛇の、英雄イェズラムがいれば。

「これなら、守護生物トゥラシェそのものを燃え上がらせるより、ずっとらくだろ。派手だしさ」

 燃えている模型を見つめて、リューズが尋ねてきたので、イェズラムは頷いておいた。

英雄譚ダージもいいけど、長生きしろよ、イェズラム。お前がいないと、俺も困るし、みんなも困るから」

 イェズラムはなんと答えるべきか分からず、苦笑した。

 みんなとは誰かと思ったが、たぶん誰でもないのだった。リューズのほかに、自分が死んで困る者がいるとは、イェズラムには思えなかった。

 リューズはどうやら、炎の蛇に派手な英雄譚ダージを与えつつ、その延命を図り、なおかつ敵を撃破する方法を、苦悩していたらしかった。

 なぜそんな複雑なことを考えようとしたのだろう。

 ただ勝てばいいのだ。魔法戦士は消耗品で、派手に死ねればそれでいい。誰もお前を恨まない。シャロームも、ビスカリスも、ヤーナーンも、この俺も。

 死んでも代わりは、いくらでもいる。

 いないと思っているのは、お前だけだ。

「ああ、よかったな、名君がまた思いついて。お前のおかげだ、イェズラム。俺はどうも、ひとりではものを考えられないみたいなんだよ。困ったらまたお前が、相談に乗ってくれ」

 にこにこしながら、リューズは言った。

 何もかも一人で考えていたことに、リューズは気づいていないらしかった。こちらは相づちを打っていただけで、実際何もかもリューズが考えたのだ。

 どうしてリューズはいつも、それに気がつかないのだろう。聡いのか鈍いのか、判然としない。たぶん、鈍いし、同時に聡いのだろうとしか、思いようがない。

 目の前で名案を語られて、お前のおかげだと言われても、皮肉かと言いたくなる。イェズラムは苦笑して、すでにこの上なく上機嫌なリューズを眺めた。

 こいつを見てると、いつも向かっ腹が立つ。

「俺は腹が減ったよ、なにか食わしてくれ、イェズ」

「夜光虫をとってきてやろうか」

 思わず苦笑して言うと、リューズは心底ぎょっとした顔になった。

「あれは不味いぞ。なぜ祖先たちがあれを食わなかったのか、自分で食ってみて、深く理解できた」

「そうか、またひとつ賢くなって良かったな」

 そう褒めると、リューズは床に膝を抱えて座り、そうだろうかというふうに顔をしかめて首を傾げていたが、それでも小さく頷いてみせた。

「それじゃあ俺は行くよ」

 イェズラムが立ち上がると、リューズは意外そうな顔をした。

「どこへ行くんだよ」

鶴嘴つるはしと油を買いに」

 教えてやると、リューズは煙管を銜え、くつくつ笑った。

「いつもながら仕事が早いな、お前は。愛想がないというかな。行くんなら、その前に、葉っぱが切れたから、お前のを置いていけよ」

 イェズラムは顔をしかめた。けちって断っているわけではない。常人が使うには強すぎるからだ。

「用意が調ったら、また出陣するんだぞ、リューズ。体から煙を抜いておけ。そんなふらふらで、馬に乗れるのか。酔いが醒めるまで、蒸し風呂ハンマームにこもって、汗をかいてこい」

 イェズラムは自分が思わず命じる口調で言ったのに気がついて、さらに顔をしかめた。

 昔の習い性だった。またやったと思って、振り返ると、リューズは燃えている模型を見つめて、にやにやしていた。

「怖いなあ、イェズラムは。逆臣みたいだぞ、お前。ちゃんと叩頭して帰れよ。誰が見てんだか分からないんだからな。実は俺よりお前のほうが偉いってばれたら、大変なんだぞ」

 リューズは冗談で言っているらしかった。

 イェズラムは首を垂れて、うんざりした顔になった。たちの悪い冗談だと思った。

「眺めて遊んだら、ちゃんと火を消せよ。水をかけるんだぞ、分かってるだろうな」

「分かってるよ、それくらい。俺はどこまで馬鹿なんだ」

 信用ならないから言っているのだった。水でいいなら酒でもいいと思って、火にぶっかけるような奴だった。自分が点火した火で、かつては太祖も休んだこの部屋が、あえなく焼失するようなことになったら、イェズラムは悔やんでも悔やみきれなかった。

「酒はだめなんだぞ、リューズ。燃えるからな」

 念のための駄目押しと思って、イェズラムは一応言ってみた。

「えっ、そうなのか。酒って燃えるんだ」

 目を輝かせて言うリューズを、ふりかえった背後に眺め、イェズラムは怖くなった。そして部屋には今、酒杯がないようなのを確かめた。

 部屋を辞すとき、侍従たちに、族長が求めても酒を持ってこないよう、強く言っておかねばならないと考えながら、イェズラムは辞去の儀礼としての叩頭礼を行った。リューズは燃えている模型のそばに座り、自分の膝に頬杖をつきながら、にやにやと見物するように、戸口で平伏するこちらを見ていた。

 同じ跪拝叩頭だと思うが、リューズは時によって、それに不機嫌になり、時に上機嫌になった。その区別は直感できたが、イェズラムはその理由について、考えないようにしていた。なぜ今こいつが上機嫌なのか、その理由を理解したら、たぶん耐え難いだろうと思うからだ。

 叩頭で床に額をつけながら、イェズラムは何となく耐え難かった。

 リューズは自分の命令に、こちらが大人しく従ったので、気分がいいだけだ。昔からそうだった。要望を押し通すためになら、こいつはどんな汚い手でも使った。

 それが今は、族長冠を戴いて、ただ命じればいいだけなのだから、ずっと手軽だし、さそがし気分がいいだろう。

「なあ、イェズよ」

 案の定、いかにも気分がいいという声色で、リューズが訊ねてきた。

「三跪九拝は長くてだるいから、命令を発布して簡略化させようかと思うんだが、お前はどう思う。俺はさっきまで、それで正しいと思っていたんだが、今、三跪九拝してるお前を見ていたら、これを廃すのは惜しいような気がしてきたんだよ」

 そうか、それがどうしたと、イェズラムは内心でだけ答えた。族長に対し、そんな言い様は不敬なので、口に出すべきではないと思ったからだった。

 でも言いたかった。それがどうした、俺が知るか、お前の好きにしろと。

 それでもイェズラムが堪えて黙っていると、リューズはなおも言ってきた。

「なあ、どうだろうなあ。やっぱり王宮の伝統っていうのは大事に守っていくものだろうかな、エル・イェズラム。お前はいつもそう言っていたもんなあ。悩むところだよ」

 九回拝み終えて、イェズラムはもう、することがなかった。

 それで仕方なく、リューズのにこにこ顔と向き合った。こちらは眉根を寄せた、いつものしかめっ面で。

 答えを待っている顔で、リューズは、さあ何か言えという目配せをした。嬉しそうだった。

「御意のままに……」

 そう答えるほかなかった。どう答えても負けのような気がして、曖昧にぼかすしかない。

 それにどうも、背後の控えの間には、侍従たちがいるような気配がした。もしや初めから、人払いなどされていなかったのではないか。一部始終を皆が、ここで盗み聞いていたのでは。

 イェズラムの答えを聞いて、リューズはますます、にやっと笑った。

「さすがは忠臣である、我が英雄よ。三跪九拝の廃止礼は、もうちょっと後にしておこう。ぺこぺこするお前をもっと見たいので、今後はさらに足繁く、俺に頭を下げにくるがよい。これは族長命令である、我が兄上よエ・ナ・デン

 仮面劇の台詞よろしく、リューズは詠うような声で、芝居かがった言い回しをした。その嫌みったらしさがどうにも度し難く、イェズラムは脱兎のごとき足早で、族長の居室を辞去した。

 控えの間に踏み込むと、そこにはやはり、取り澄ました顔で侍従たちが何人もいた。

 騙されたと、イェズラムは驚いた。

 なぜ信じたのだろう。誰もいないなどと。

 なんであいつが、こちらの神経に障るような乱行を繰り返していたのか、今さら突然分かった。そうすれば俺が、怒鳴り込んでくると読んでいたのだ。

 どうも引っかかったらしい。おびき寄せられた。まさかここまでするとは。迂闊だった。リューズは我が儘を通すためなら、どんな汚い手でも使うと、よく知っているはずだったのに。

 もう二度とここには来ないと、イェズラムは心に誓った。

 最初からそういう決まりにしてあったではないか。長老会の者が足繁く現れたりすると、族長位の面子が保てないし、それに俺があいつにみだりにぺこぺこするのでは、魔法戦士たちの面子を守れない。

 あいつはそれが理解できないのか。俺の気遣いや努力を。

 それとも、理解したうえで、どうでもいいと思っているのか、リューズ。

 どうでもいいと、思っているのだろうな、お前は。人がどう見るか、どう思うかなど、お前には関係ないのだろう。そうでなければ、ここまでするわけがないな。

 今後はたとえヤーナーンが裸で玉座の間ダロワージを走り回っていても、見て見ぬふりをする。そう考えてみたが、どう考えてみても、イェズラムにはそれは無理だった。

 あまりに腹立たしくなり、イェズラムは礼装した長衣ジュラバの裾を激しく翻して、大股に玉座の間ダロワージを横断した。皆がそれを見ていた。なぜか激怒しつつ族長の居室を去る長老会の子飼いの者を。

 それは幾分まずかったが、もはや見られたものは、どうしようもなかった。人が見て、どう思うか、それが政治というものだ。

 しかしそれをまだ、リューズには教えていなかった。だが果たして、教える方法があるのか。あいつは本当にそれを、知らないのか。イェズラムには皆目、見当がつかなかった。

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