第4話

 作法にのっとり、そこで跪拝叩頭きはいこうとうしたが、その場ですでに猛烈に鼻についた煙の匂いに、床に額をつけたイェズラムの顔は、怒りの相になっていた。

 三跪九拝さんききゅうはいする間、イェズラムは徐々に怒りを募らせた。

 立ち上がった時に見えるリューズは、居間の真ん中に運び込ませた、山野さんやを模した巨大な模型に、将兵の駒をたくさん並べたものの側にしゃがみ込み、ぼんやりと煙管をふかすばかりで、こちらを一顧だにしていなかったからだ。

 独裁権を与えられた族長だからといって、家臣をないがしろにしていいわけではなかった。こちらが叩頭こうとうして挨拶するなら、向こうはしかるべき上座に鎮座して、それを受けるべきだった。

 まして俺はお前のデンで、お前を戴冠させた射手いてなのだぞと、イェズラムは内心ひどく腹立たしかった。

 先触れをやったのに、リューズはとんでもない格好をしていた。

 普段着なのはまだしも、髪も結わない乱れた垂れ髪で、しかも肩からなぜか、侍医の着る薄紫のお仕着せの長衣ジュラバを羽織っていた。そしてその訳の分からない格好で、赤い煙管をくわえ、眉間に皺を寄せた難しい顔で、どことなくぼけっとして模型を見ている。

 叩頭礼が済んだので、イェズラムは怒りながら、向こうが声をかけてくるのを待った。それが慣例だった。向こうが名前を呼んでくるのが。

 しかしリューズはぼけっと黙ったままだった。

 こちらが来たのに気づかないはずはない。侍従には、中に招き入れるように返事をしたのだから。

 リューズがなぜ黙っているのか、イェズラムには直感できた。こちらが焦れて、典礼を破り、先に声をかけてくるのを、待っているのだ。

 そして、その非礼でも咎めようというのか、リューズ。

 くだらんことをと、イェズラムは苛立ち、さらに押し黙った。

 しばらく、目も合わさぬ睨み合いが続き、どれくらい経ったか、イェズラムがもう限界だと思う頃合いで、リューズは燃えるまま放っていた煙管から、一息ふかし、ぷかりと丸い煙を吐いた。

「いたのか、エル・イェズラム」

 いかにも本当に気づかなかったかのように、リューズは言った。そして、朦朧もうろうと酔ったような顔つきの白い顔をこちらに向け、そこだけ爛々らんらんと生気のみなぎった金色の王家の目で、イェズラムを見つめた。

「久しぶりだな、我が英雄よ。今日はなんの説教だ。ずいぶん色々溜まったか」

 とっさに何から言い出したものか、イェズラムは整理が付かず、ただじっと、リューズを睨み返した。

 そうして押し黙っていると、リューズが突然、侍従の名らしきものを大声で叫んだ。それは呼びつけたのではなく、隣の部屋に話しているのだった。

「人払いをしろ。聞こえたか。聞こえたら返事をしてくれ」

 はい、族長、かしこまりましたと答える大声が、隣室から聞こえた。イェズラムはそのやりとりに呆れた。まさか、侍従を呼ぶのが面倒くさいので、こうして大声で申しつけているというのか。

「おおい。もう誰もいないか。いないなら、いないと言え」

 リューズは真面目にそう呼びかけたが、今度は誰も答えなかった。それにくすくす笑い、リューズはまた、イェズラムを見た。

「今なら誰も聞いていないようだぞ、イェズ。言いたいことがあるなら、さっさと言え」

 戸口で話せということか。イェズラムは腹が立つのを通り越して、唖然とした。

 随分、馬鹿にされた話だった。イェズラムには宮廷序列の中で、族長と向き合って話すに足る身分があった。

 それを無視されると、情けなかった。

 寵臣のごとく扱えとは言わないが、序列に応じた待遇をしてもらいたいところだ。

「俺の友たちをどこへやったんだ、イェズラム。誰も帰ってこないんだ」

 こちらが話さないでいると、リューズは恨みがましい口調で、そう尋ねてきた。どうも、ねているらしかった。

 リューズが問うているのは、シャロームたち三名のことだろう。彼らが戻ってこないのが、イェズラムのせいだと思っているらしい。実際そうだが、リューズがそれへの仕返しとして、自分を戸口に留めているのだと分かって、イェズラムは益々情けなかった。

「英雄たちにも、それぞれの私用がございます、族長」

 腹が立つので、イェズラムはいかにもへりくだった他人行儀で話してやった。

 するとリューズは露骨に嫌な顔をした。

「俺にも用がございます。双六の途中だったのに、あいつらどこへ行ったんだ。お前のところには、シャロームが行っただろう。あいつはちゃんと、お前の顔に墨を塗ったか」

 苛立ったような早口で、リューズが尋ねてきた。

「シャロームはちゃんとお前の命に従った」

 そう答えておかねば、リューズがどういう態度に出るか危うかった。まさかお気に入りのシャロームに、逆臣呼ばわりはないだろうと思いたいが、リューズは時折、些細なことで激怒した。

「それで怒って来たわけか、エル・イェズラム」

 満足げな薄笑いをして、リューズはこちらを見もしなかった。

乱行らんぎょうが目に余る」

 いざ当人を目の前にすると、なぜか怒鳴る気もせず、イェズラムはただ静かにそれだけ教えた。それで悟って、大人しくしてくれればという願いもあった。

「もっと早く来るかと思ったよ。墨のついた顔で走ってくるかと思って、楽しみにしてたんだがなあ。まさか顔を洗って、着替えてくるとは。お前はつまらんやつだよ」

 はあ、とため息をついて、リューズは赤い絨毯に尻をつき、模型のそばに座り込んだ。

 リューズが見下ろすその地形には、イェズラムも見覚えがあった。考えておくよう言ってあった、苦戦している敵の防衛線だ。狭い谷間の出口に敵の守護生物トゥラシェが陣取っており、攻め入っても撃破された。

 リューズはそれを、じっと険しい顔で眺めていた。

 居室の床には、シャロームが言っていたものだろう、手製の双六らしい大きな紙が、無造作に拡げられており、そこには軍議に用いるための兵を模した駒が乗っていた。

 おそらく、シャロームと、ヤーナーン、ビスカリスの名のついた魔法戦士の駒だろう。そして中には族長を表す、ひときわ立派な、錦と黄金の駒もあるのだろう。その駒は今、『イェズラムに怒られる』の上で止まっている。

「こっちへ来いよ、イェズラム。話が遠いだろ。俺は煙の吸い過ぎで、喉が痛いんだ。でかい声で話させないでくれ」

 さっきは自分で二度も叫んでいたくせに、リューズは咎めるように、そんなことを言った。

 しかし、そんな支離滅裂を、いちいち咎めていたら、リューズとは話にならない。幼髪をしていた頃から、いったんごねはじめると、大抵こんなもんだった。ころころ話をひるがえしてきて、何が言いたいのか分からない。

 おそらく言いたいことなどなくて、こちらを翻弄するのが目的なのだろう。

 イェズラムを怒らせようとして、それをやっている時もあれば、どこまでやってもこちらが怒らないでいるか、試しているときもあった。

 イェズラムは呼ばれるまま立ち上がり、模型のそばに行った。

 そして遠からず近からず、適切と思われるところに座ったが、叩頭こうとうするのは止した。どうも、それをやると、リューズが怒りそうな予感がしたからだった。なぜそう思ったのか、自分でも良く分からなかったが、それは正解だったらしく、リューズはちらりと鋭く様子をうかがう目で、こちらを一瞬見ただけで、咎め立ても、皮肉を言いもしなかった。

「案外、死なないもんなんだな」

 難しい顔で模型を見たまま、リューズがぽつりと言ってきた。

 なんの話か、まったく脈絡が見えなかった。

「誰がだ」

「俺がだよ」

 仕方なく尋ねると、リューズは端的に答え、赤い煙管で、床の上にのたくっている双六の紙を指し示した。

 床の上には、女官の服やら、楽器やら、なんだか訳の分からないものが沢山散らばっていた。女官の服の中身が、服もないままどこへ行ったか、深く考えると、またひどく頭痛がしそうだったので、イェズラムは考えないことにした。

「この双六はな、死ぬように作ってあるんだよ、イェズラム。五枡ごますに一度は『戦死する』なんだぞ。激戦区では三枡さんますに一度だ。ビスカリスなんか、もう五十回くらい死んでるぞ。なのに俺はまだ一回も死ねないんだ」

「別にかまわんだろう。それだけ悪運が強いということではないのか」

 イェズラムはそう答えておいた。

 シャロームが賽子さいころの出目を操作しているような口ぶりだった。双六遊びとはいえ、あいつには族長が死ぬのはまずいと思えたのかもしれない。それで『戦死』を避けるため、出目を操ったのかも。

「でも、あがりにも着かない。永遠にぐるぐる回ってるだけで」

 もう燃え尽きているらしい煙管を、リューズは執念深くくわえた。その顔を見て、イェズラムは目を細め、険しい顔になった。リューズがなんとなく、やつれた顔だったからだ。

 それは悪い兆候だった。リューズは機嫌がよくて、意気が高ければ、まさに太祖の末裔としてふさわしい覇気があった。しかしいったん沈み始めると、どこまでも深く沈んだ。泥のような、暗い闇の中へ。

 リューズが見つめた、あがり、と書かれた枡目の中を、イェズラムも見た。そこには、『名君の死』と書いてあった。

 その意味を考えて、イェズラムはますます、渋面になった。

「リューズ、死ぬために戦っているのではない。勝つためだ」

「そうだ。勝つためだ。どうやって勝つかだ、イェズラム」

 立てた膝に、リューズは肘を乗せ、煙管を持ったままの手のひらで、族長冠をした額を支えて、目を伏せていた。そうやって座っていると、リューズは白磁でできた変な置物のようだった。苦悩しているようだったが、どことなく滑稽だった。

「考えているところに悪いが、どうしてそんな服を着ているんだ」

 イェズラムはぼんやりと気になって、それを尋ねた。リューズは典医の服を羽織っていた。

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