第3話

 背筋に嫌な汗をかきながら通り抜けた玉座の間ダロワージは、いつもと変わらない様子だった。誰かが裸で走ったような気配は、微塵みじんもなかった。

 それにほっと安堵あんどしながら、どっぷりと疲れて、イェズラムは礼装をした自分の体を、族長の居室へと運んでいた。

 近侍きんじの三人は、リューズの我が儘をきいて、いつも略装の宮廷着で居室に出入りしていたが、通常はそれではまずかった。正装ではない姿で、族長の部屋に出入りするのは、いわば特別扱いの寵臣で、誰も彼もがやっていいような事ではない。

 イェズラムは、リューズが即位して以来、その部屋を訪れる時には、必ず正装していった。リューズは水くさいと思うらしいが、それは族長冠をかぶる者に対する、当然の礼儀だった。

 自分とリューズが乳兄弟だということは、宮廷の誰もが知る事実だ。

 それに、アズレル王子の死後、唐突に現れて、竜の涙の長老会からの強い後押しを受け即位したリューズのことを、傀儡かいらいではないかと揶揄やゆする声も多々あった。その人形を操っているのが何者たちか、誰もが考えているだろう。

 そういう陰険な注視のある中で、リューズを戴冠させた本人で、竜の涙の長老会の子飼いである経歴のエル・イェズラムが、臣である分を超えて、普段着姿でふらふら居室にやってくるというのでは、いかにもまずい。

 見る者たちは連想するだろう。エル・イェズラムは放埒ほうらつに、長老会の部屋サロンと、族長の私室を往復しているのだと。

 それでは噂を、自ら肯定しているようなものだ。

 イェズラムにとって、魔法戦士たちの利権を守り、自分が率いる派閥に利益をもたらすため、朝儀や晩餐の時に、玉座の右にいる必要はあった。

 しかしリューズが傀儡だというのでは不都合だった。それは事実ではないからだ。

 それが事実でないことを、皆が理解するまでには時間がかかる。

 リューズはまだやっと二十歳を過ぎたばかりで、見た目には歳より幼かった。そして即位前の、ふらふら遊び歩いていたころを、実際に目にしていた者たちも、玉座の間ダロワージの席を埋めている。

 あからさまに馬鹿にしたようなのも、朝儀の席にやってきた。そういう相手に、さっさと族長に跪拝叩頭きはいこうとうしろと、凄んでみせねばならない事も、イェズラムには時折あった。

 凄むだけでは、済まないことも。

 そういう機会を、僅かでも減らすためには、イェズラムは族長の居室から、可能な限り距離をとる必要があった。朝儀でも、その前後には皆と同様、高座を見上げる広間から、イェズラムも三跪九拝さんききゅうはいした。かつてのような日常のやりとりを、人前ですることもない。たとえ茶番と思われても、族長の高貴な血を敬う態度を、リューズを即位させた自分自身が示してみせるしかなかった。

 時と場合の都合しだいで、持ち上げたり、おとしめたり、一人でじたばたやっているようなものだ。

 リューズはそんなイェズラムを眺め、時々玉座でぽかんとしていた。こちらが何をしたいのか、さっぱりわからんという顔で、ころころ態度の違うデンに、お前は一体どうしたのだと問いたげな目をした。あるいは自分は、どう振る舞えばいいのかという、混乱したような目を。

 何らかの宣下せんげのあと、自信がないと、リューズは今でも時折、玉座の脇にはべるイェズラムに、これでよいかという目を向けることがあった。それと目が合わないように、ただ広間ダロワージにらんでいると、何かずいぶん薄情なような気がして、イェズラムは己の無責任さを痛感することがあった。

 リューズは即位するための教育は受けていない。幼少のころから、不明があればイェズラムにたずねて済ませた。

 それをいきなり玉座に座らせて、何なりと御意のままにと放置するのでは、無責任ではないのか。そう思えて、時には支配者の王道めいたものを説教してみたりするものの、そうする己の口調が指図がましいのに怯んで、顔を見るのも執拗に避けたりの両極端を、ふらふら彷徨ってばかりいる。

 最近ちょうど、庶務山積にかまけて、まるっきりの他人任せだった。

 思い返すと、もうひと月ばかり、朝儀や軍議の公式の席でしか、リューズの顔を見ていない気がした。

 あいつは最近、なにを考えているのやら。そういえば、さっぱり知らなかった。腹立ちも、心配も、全ては他人の口から聞く話をもとにした、想像と憶測の中のことだ。

 これではいずれ、あいつが何者なのか、わからなくなる。ただの乱心した暗君か、それとも、かつて戴冠させるときに、そう信じ、それであれと願ったような、輝く星のごとき稀代の名君か。

 それでは責任が果たせない。射手ディノトリス新星アンフィバロウを闇夜に放ち、それが皆をまぶしく照らすよう、見守るのが務めだ。その射手いての目に迷いがあっては、部族の命運が狂う。

 王家の血筋のもとにいる双子の片割れの、最初の竜の涙だったディノトリスは、千里眼によってタンジールを遠望し、アンフィバロウをこの都市へと導いた。そのディノトリスはデンで、後に族長となるアンフィバロウはジョットだったのだ。

 太祖ですら兄を頼った。だからリューズが兄に支えられても、恥ではない。部族の伝統に習い、自分もそれと同じように、他の弟分ジョットたちを世話するように、陰でリューズを支え、世話してやればいい。まずい時にはまずいと、自分が言ってやらなくて、いったい他の誰が、族長に説教できるというのだ。

 イェズラムはそう腹を決めて、族長の居室の、華麗な両開きの戸の前に立った。

 そして戸を守っていた番兵に、謁見に来た旨を告げると、中にある控えの間から、側仕えの侍従が呼ばれて顔を出し、族長に取り次ぐと応じた。先触れは送ってあったし、こちらが来ることは、向こうも知っているはずだった。

 控えの間から漏れてきた空気に、甘い煙の匂いを嗅ぎ取って、イェズラムはむっと顔をしかめた。侍従ですら、どこか酔ったような朦朧もうろうの顔つきだった。

 いったいこれは、どういうことかと、イェズラムは思った。

 シャロームの話で聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると、異様な気がした。

 敬遠して、直接ここに来なかったのは、やはり大きな間違いだったのではないか。

 扉が再び開き、族長が謁見をお許しになりましたと、侍従が告げた。イェズラムはそれに答礼して、控えの間を抜け、帯剣を侍従に預けて、族長の居室に入る戸をくぐった。

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