第2話
会談室は通常は、客用の部屋だった。よそからやってきた者を招き入れて、茶なり酒食なりを供して接待するための場所だ。
いつも現れるなり、
派閥の備品は、代々の伝来のものだった。外から来た者に供するものは特に、派閥の力を誇示する目的で、
女官が持って現れた茶器も、暗い朱の彩色のうえに描かれた鳥の絵が、年を経た今もまだ生きているような、本来ならもう、茶を入れて飲むようなものではない芸術品だった。
下座に出されたそれを見下ろし、シャロームはどこか、困ったような顔をした。
「なんだろうなあ、これは。こんなので茶を飲まされるとは、俺もとうとう派閥から追い出されちまったよ、
「気にするな、シャローム。お前はよくやっている」
イェズラムは
「さっきの餓鬼はなんですか。
「今頃、なにがまずかったか、他の者が教えているだろう」
イェズラムはたしなめた。するとシャロームは、手ぬるいなという不満げな顔をした。
「
「俺を批判したわけじゃない。知らずに言ったんだ。許してやれ」
諭すイェズラムに、そんな馬鹿なというふうに首を横に振ってみせ、シャロームは不味いものでも食ったような複雑な表情をした。
「
「長い目で見てやれ、シャローム」
そう言うと、シャロームはいかにも
「それは無理です。俺はもう先がないから。短い目でしか見られねえよ」
自分の頭の石を指さして、シャロームは言った。表に出ている灰緑色の石は、大して酷いようには見えなかったが、最近、戦地から戻ったあとに、施療院の透視者に
あと二、三戦かな、
しかし今ここで、それについて話し合う気はなかった。
「リューズはどうしてる」
イェズラムは本題を促した。シャロームは、どこから話すかというふうに、目を
「族長は、部屋で
それを聞き、イェズラムは煙管を吸いたくなった。しかしまだ、それには火が入っていなかった。そういえば吸いそびれたまま、ここへ連れ込まれたのだった。
話のとっかかりを聞いただけで、すでに苛立ってきて、頭痛が増していた。
「今朝の朝儀のとき、リューズはおかしかった」
「酔っぱらってたんでしょう。遊びながら、吸いっぱなしだから。自分が吸わなくても、誰かが吸ってるし、煙が充満してて、抜ける間もないです。そのまんま着替えて、
シャロームは敢えて言いはしなかったが、それは
魔法戦士と親しく付き合っていれば、それも別段、不自然ではなかった。
イェズラムとリューズとは乳兄弟で、本当に血の繋がった王族の兄弟たち以上に、身近に過ごしてきた。リューズは幼年の頃にはおそらく、自分も魔法戦士のひとりだと勘違いしていたのではないだろうか。もしくはこの世に魔法戦士以外の者がいることに、あまり気がついていなかったか。
こちらに付き合って、魔法戦士の派閥に籠もり、戦の後にはもうもうと煙を上げる者たちの間に居れば、それが普通だと思うだろう。
苦痛が始まり、
だからリューズは昔、魔法戦士が
魔法戦士にとって、それは悪習ではなく、やむを得ないことだった。王族にとっても、一時の気晴らしとして、
このままでは危ないと、以前から時折イェズラムは思ったが、リューズはその頃、即位するはずのない立場だった。リューズが戴冠するほんの少し前までは、彼の異腹の兄アズレルが、継承争いの本命株として
それが怖くて、
あいつには、一日でも長く生きてもらわねばならない。まだ世継ぎもいなければ、戦のまっただ中だった。
暗君として知られるリューズの父親である先代の族長は、敗戦に継ぐ敗戦に
「喫煙を控えさせろ、シャローム」
そう命じながら、はき出す煙が苦いような気がして、イェズラムは顔をしかめた。
「無理です、言って聞くような玉じゃないでしょう、リューズは。俺や、ビスカリスやヤーナーンは吸うのに、なんで自分はだめなのかって、ご機嫌斜めになるのが落ちです」
ビスカリスとヤーナーンも魔法戦士だった。シャロームとともに、気に入られてリューズの近侍だ。
元はといえば、戦場で敵陣に突撃したいというリューズの護衛の目的で、気に入りそうな性格の魔法戦士をイェズラムが選び、側に付けたのが始まりだったが、それがよっぽど気に入ったのか、王宮にいる間にも、身近に
二十代も後半に入る三人の魔法戦士は、どれもそろって堪え性のない性格をしており、その出し惜しみのない魔法で、激戦の時代を戦ったせいで、三人揃ってすでにもう、末期と言える病状だった。中でもシャロームは運がないようで、特に進みが早い。薬無しで耐えろというのは無理な注文だった。
そろそろ入れ替え時期なのだと、イェズラムには思えたが、それもなかなか言いだしにくかった。お前らはもう死ぬだろうから、他の者に近侍を
「それで……ビスカリスとヤーナーンは、まだリューズの部屋なのか」
「いいえ。それが、俺はとっとと戻らないと」
持ってきていた
「
シャロームが
あいつはそれを、遊びに使っているのかと、イェズラムは軽い
「ヤーナーンは今、『
手を挙げて、イェズラムは頭痛に目を伏せたまま、喋るシャロームの言葉を止めた。
「あのな、『
「……そうです」
シャロームはさすがに言いにくいというふうに答えた。
「もう走ったのか」
それを自分で口にした瞬間、頭痛とは別の激痛を、イェズラムは脳の奥深くに感じた。
「さあ。まだじゃないですか。相当に気合いがいるはずですから」
思い出し笑いか、シャロームは薄く笑いをこらえる顔をしていた。
族長の命令書は廷臣にとって絶対のものだが、それに妥当性がない場合、竜の涙には拒否権がある。だから拒否すればいいのだ。
この命令に妥当性があるわけがない。
「リューズは今、なにをしているんだ」
もう他人任せで放置できる範囲を超えたと、イェズラムは思った。
「俺達が戻るまで、『イェズラムに怒られる』です。つまり一回休み。十六回連続で、『イェズラムに怒られる』で、相当頭に来てました。それで族長の機嫌がなおるなら、ヤーナーンが裸で走るぐらい、
それが日常だというように、シャロームは淡々と話していた。こいつらは毎度毎度、何をやっているのだ。
イェズラムは、自分が口うるさく言っても聞かないリューズの不品行を、気の合うような者の口からやんわりと止めさせるために、彼ら三名に監視役としての側仕えを許しているつもりだった。そういう立場の者が、不品行を
「お前は今すぐ行って、ヤーナーンを止めろ」
苛立ちとともに煙を吐いて、イェズラムは命じた。それにシャロームは、困ったという顔をした。
「でも、
「他の無難な目に落としてやればいいだろう」
「ああ、そうですね。なかなか難しいんです。ものすごい
それが具体的に何なのか、イェズラムは知りたくなかった。
今すぐ行って、『イェズラムに怒られる』を実行に移させてやるべき時だ。
立ち上がろうとしたイェズラムに、シャロームがあっと驚いて引き留めるそぶりをした。
「
巻物を解いて、シャロームがそれを差し出してきた。
円座の上に立ち上がったまま、イェズラムはそれを受け取って読んだ。
それはこの上もなく正式な命令書だった。きちんと定められたとおりの前口上で始まり、日頃は他人に代筆させて書かないくせに、リューズは流麗な直筆の文字で命令をしたため、ご丁寧に族長の
くっきりした文字を速読の目で追い、イェズラムは内容を読んだ。シャロームが一筆書かせるつもりか、懐から矢立を出して、墨に浸した筆を用意して待っている。
なぜかそれは、絵を描くような筆だった。
なぜだろうかと思いながら、イェズラムが読み進むと、命令書の内容はこうだった。
エル・イェズラムの尊大なる顔に、族長よりの
なんのことかと一瞬考え、その次の瞬間に、イェズラムは悟った。
そして、はっとして避けたが、シャロームのほうが早かった。仰け反って避けるイェズラムの頬に、シャロームが墨を含んだ筆で一閃した。
ひやりとした墨の感触とともに、あたかもシャロームの横っ面にある傷痕と似た、縦一閃の墨跡がつくのが、イェズラムには感じられた。
シャロームは抜刀術の達人でもあり、彼の驚異的に素早い居合い抜きの一刀を、ここまで油断していて避けられるはずもない。
巻物を両手に
シャロームはそれに、いかにも済まなそうに頭を下げた。
「俺もこんな事はしたくなかったんですけど、
「運がよかったな……シャローム。
言いながら、猛烈に腹が立ってきて、イェズラムは命令書を
リューズには、なかなか突破できない敵の防衛戦を打ち崩すための方策を、考えるように言ってあった。そこでの戦果が思わしくなく、こうしている間にも、兵や魔法戦士が無駄に死んでいる。
それを考えもせず、あいつはなにをやっているのか。
そう思うと、今すぐ行って首を絞めたい気がした。あいつの他に、玉座に座れる者が、今はもう居ないことを、忘れることさえできれば、今すぐ本当に走っていって、あの生っ白い首を締め上げてやりたいところだ。
「あの……できれば末尾に一筆、証明のための署名を……」
怖ず怖ずと、シャロームが筆を渡してきた。こいつでも遠慮することはあるのかと、イェズラムは震えながら筆を受け取った。怒りのあまり、本当に手が震え、筆先がなかなか定まらなかったが、息を殺して、イェズラムは書いた。
命令書の末尾に書き添えた、エル・イェズラムの名をつづる文字の筆跡は、命令書にあるものと酷似していた。かつて幼少のころのリューズに字を教えてやったのが、他ならぬ自分だったからだ。
それで、怒りすぎたとイェズラムは悟ったが、もう手遅れだった。リューズの筆跡からは、手本から写した癖が全く抜けず、即位した今でも、家臣であるイェズラムとそっくり同じ文字を書く。
子供相手に、可哀想なことをしたと、字を見ると時々後悔が湧く。文盲だったのは、本人の責任ではなかった。誰もあいつに、字の読み書きを教えてくれなかっただけだ。
だが今こうして、ふざけた命令書を見せられると、あのまま文盲でいればよかったのにと、別の後悔が湧いてくる。なんで文字なんぞ教えてしまったのか、自分は。書けなければ、こんな事にはならなかった。そうすればあいつも、馬鹿げた双六など作ってみせて、ヤーナーンを裸で走らせることもなかったのに。
はっとそれに思い至り、イェズラムは回想から醒めた。
「早く行け、シャローム」
「え。どこへですか」
シャロームはきょとんとした。
「馬鹿、
「でも、止めたらご機嫌斜めですよ。ヤーナーンの立場が……」
「ふざけるな。太祖の代から受け継いだ神聖なる
あまりに許し難く、イェズラムはほとんど叫ぶように言って、ほどけたままの巻物を持った右手で、シャロームの頭を力任せに叩いた。
いてえ、とシャロームは泣いた。
相当に痛いはずだった。当然のむくいだった。
しかし、可哀想なことをしたと、すぐにイェズラムは思った。子供部屋のころからの、シャロームを怒る時の癖でつい叩いたが、石のある者は頭に衝撃を受けると、それが痛む。だから余程でなければ頭は殴ってはならないのだ。
シャロームは猛烈に痛かったらしく、大の大人というのに、頭を抱え、叱られた餓鬼のように目頭に涙をにじませていた。
「痛いです、
それを聞いて、イェズラムはもう一発殴りたくなり、シャロームを睨んだ。それは拳骨なみによく効いたらしく、シャロームは身をすくめて、痛そうな顔をした。
利かん気で、怖いもの知らずのシャロームは、子供部屋時代から、口で言っても理解しないので、拳骨で話してやらねばならない手合いだった。こいつと付き合っていると、頭も痛いが、なにより手が痛い。一人前になれば、そんな必要はなくなると思っていたのに、死ぬまで殴り続けることになるのか。
「リューズには、俺が
「はい。ええと……
「殴らない」
自分の手を見下ろして、イェズラムは教えた。
族長冠をかぶった頭を殴るわけにはいかない。たとえもう、言っても分からないとしてもだ。
即位前なら、こちらが
だから、十六回連続で
いくらあちらが、こちらを怒らせようという
おのれ、リューズ。なめやがって。
「あのですね、
たどたどしく弁護する口ぶりのシャロームを、イェズラムは
部族の命運がかかった戦のことを、遊びながら考えるとは、ずいぶん余裕だ。
お前はいつのまに、そんなに偉くなったのだ、リューズ。
リューズは確かに、濃厚な敗色の中で即位して以来、誰も思いつかないような奇抜な戦法を編み出して、部族を窮地から救い続けている。それですっかりいい気になって、族長なのだから、宮廷では何をやっても許されると、勘違いしているのではないか。
族長冠の重さを感じながら、昼も夜も寝食を忘れて考えるべきだ。どうすれば勝てるか。
誰がお前の尻ぬぐいをしてやってると思ってる。お前のわがままには、いいかげんうんざりだ。
内心にそう呪いながら、イェズラムは会談室を足音高く横切り、派閥の
そこにいた者たちが、怯えたような目で、いっせいにこちらを見た。彼らがさらに
塗られた
シャローム。
お前は、本当に、
そんなどうしようもないお前が、
楽しいのだろうな。楽しくなければ、やるわけないな。
「
いつのまにか、戻ってきていたジェレフが、戸口の脇で待っていたようで、呆然と声をかけてきた。
「なんだ、エル・ジェレフ。俺になにか用か」
どう見ても、顔の墨跡に目を奪われているジェレフに、イェズラムは低い声で尋ねた。
「あのう……先ほどは、生意気なことを言いまして……失礼を……」
しどろもどろに、ジェレフは
イェズラムは、それに小さく
「お前のな、生意気など、可愛いものだよ、エル・ジェレフ。そんなものは、朝飯前で、俺は実は腹も立たなかったよ。世の中には、上には上が……いや、下には下がいてな、俺は今そっちのやつに、頭にきてるところだ」
伏し目に
しばし、どことなく乱れた呼吸でこちらを見ていたジェレフは、やがてはっとしたように、会談室にいるシャロームを見た。その顔がだんだん、
違うよ、ジェレフ。お前はどこかずれてるな。俺がシャロームに怒っていると思ってるんだな。そりゃあそう思うだろうがな、でも本当のことを教えてやるわけにもいかないし。かといってシャロームの
「エル・シャローム……」
背後にいる
「ご苦労だったな。引き続き頼む」
「はい、
その場で深々と一礼する気配がして、それからシャロームは、すれ違い様にも目礼をし、イェズラムを追い抜いていった。
本来なら、イェズラムが出るのを待つべきところだが、そんなことはこの際
しかし行きすぎるシャロームを、ジェレフはむっとした目で見送った。
シャロームはそれを、じろりと
ああ、ここにもまた
どいつもこいつも。手間をとらせやがって。
「ジェレフ……」
項垂れて、イェズラムは相手の顔を見る気力もなく、声をかけた。
「シャロームを
「あの人はこの派閥の一員なのですか、エル・イェズラム」
罪のない口調で、若い治癒者は尋ねてきた。派閥の一員もなにも、シャロームは子供部屋のころからのイェズラムの
「そうだ、あいつもお前も、俺から見れば可愛い
それにエル・ジェレフ、お前は族長に命令されても、いくらなんでも
当代の治世を支えるには、人知れぬ様々な苦労があるんだ。馬鹿なあいつらが、お前の代わりに、裸で
そういうつもりでイェズラムはジェレフを見たが、少年は思い詰めた目をするだけで、ちっとも理解したふうではなかった。
「俺のほうが、あの人より優秀です、
「それはまだ証明されていない」
「証明します。仕事をくだされば」
なんでもする、という目を新入りはしていた。たぶん誰かに、シャロームに逆らうな、あいつのほうが強いと
それでやつを、見返したいのだろう。自らの優秀さを示して。
しかし、その坊や
シャロームとこいつとでは、場数が違う。あいつは命じれば何でもするが、ジェレフは自分の頭ひとつ、下げられないというのだから。なんの力もない餓鬼のくせに、いい気になりやがって。つくづく馬鹿で、危なっかしいやつだ。
俺がお前くらいの頃には、もう戦地で
それと引き比べてみると、ジェレフは
確かにましになっている。リューズは魔法戦士を重用していた。それもこれも、乳兄弟である俺への義理立てだ。
いやなことに思い至って、イェズラムはさらに顔をしかめた。そんなことを考えたら、怒りが
「仕事か。それじゃあ、俺は顔を洗いたいので、湯をもらってこい、
イェズラムがそう命じると、ジェレフは複雑な顔をした。
たぶん、そんな簡単な仕事ではなく、もっと困難なのが好みだったのだろう。
だけど今のお前には、それくらいしか、頼んでやれる仕事がない。それで満足して、とっとと働け。
イェズラムは苦笑を堪える顔で、ジェレフの情けない
その尻を叩かれた子馬のような有様が可笑しく、イェズラムは笑った。
確かにシャロームが言うように、あいつはこの派閥の癒し系らしい。さっきまで激怒していたのが醒めてしまって、今ならリューズを絞め殺さないだろう。
忠義なやつよ、エル・ジェレフ。族長の命を守ったな。
そう思い、イェズラムは笑って戸口にもたれ、煙管の残り火をふかした。頭痛が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます