第2話

 会談室は通常は、客用の部屋だった。よそからやってきた者を招き入れて、茶なり酒食なりを供して接待するための場所だ。

 いつも現れるなり、デンをそこへ連れ込むシャロームには、部外者のような気配がするのだろう。派閥の者が命じたらしく、後からやってきた女官は、客に供するような華麗な茶器に、シャロームに飲ませる茶を入れてきた。

 派閥の備品は、代々の伝来のものだった。外から来た者に供するものは特に、派閥の力を誇示する目的で、ぜいをこらした逸品である。

 女官が持って現れた茶器も、暗い朱の彩色のうえに描かれた鳥の絵が、年を経た今もまだ生きているような、本来ならもう、茶を入れて飲むようなものではない芸術品だった。

 下座に出されたそれを見下ろし、シャロームはどこか、困ったような顔をした。

「なんだろうなあ、これは。こんなので茶を飲まされるとは、俺もとうとう派閥から追い出されちまったよ、デン

「気にするな、シャローム。お前はよくやっている」

 イェズラムはめたが、それでもシャロームは苦笑していた。

「さっきの餓鬼はなんですか。デンの前で、あんなふざけた話をしやがって。俺がいっぺんめておこうか」

「今頃、なにがまずかったか、他の者が教えているだろう」

 イェズラムはたしなめた。するとシャロームは、手ぬるいなという不満げな顔をした。

デンも隠れ治癒者でしょうが。道義にもとるてなことを、あんな餓鬼にけろっと言われて、むかっ腹が立たないんですか」

「俺を批判したわけじゃない。知らずに言ったんだ。許してやれ」

 諭すイェズラムに、そんな馬鹿なというふうに首を横に振ってみせ、シャロームは不味いものでも食ったような複雑な表情をした。

兄貴デンも甘くなったよ」

「長い目で見てやれ、シャローム」

 そう言うと、シャロームはいかにも可笑おかしそうに、けらけらと笑った。

「それは無理です。俺はもう先がないから。短い目でしか見られねえよ」

 自分の頭の石を指さして、シャロームは言った。表に出ている灰緑色の石は、大して酷いようには見えなかったが、最近、戦地から戻ったあとに、施療院の透視者にさせたといって、その足でイェズラムのもとへ報告に来たときには、さすがのシャロームもどことなく青い顔をしていた。

 あと二、三戦かな、デンと、端的に告げるシャロームには、イェズラムもうなずくしかなかった。話を聞けば、その通りとしか思えなかったからだった。

 しかし今ここで、それについて話し合う気はなかった。

「リューズはどうしてる」

 イェズラムは本題を促した。シャロームは、どこから話すかというふうに、目をすがめ、記憶をさかのぼるように斜め上をにらんだ。

「族長は、部屋で双六すごろくをしています。自分で作ったやつを。これでもう、丸二日かな」

 それを聞き、イェズラムは煙管を吸いたくなった。しかしまだ、それには火が入っていなかった。そういえば吸いそびれたまま、ここへ連れ込まれたのだった。

 話のとっかかりを聞いただけで、すでに苛立ってきて、頭痛が増していた。

「今朝の朝儀のとき、リューズはおかしかった」

 相槌あいずち代わりにそう答え、イェズラムは煙草入れから火種を取りだした。シャロームはうなずいて、それを聞いていた。

「酔っぱらってたんでしょう。遊びながら、吸いっぱなしだから。自分が吸わなくても、誰かが吸ってるし、煙が充満してて、抜ける間もないです。そのまんま着替えて、玉座の間ダロワージへご出陣」

 シャロームは敢えて言いはしなかったが、それは麻薬アスラの話だった。リューズには即位前から、喫煙の習いがあった。

 魔法戦士と親しく付き合っていれば、それも別段、不自然ではなかった。

 イェズラムとリューズとは乳兄弟で、本当に血の繋がった王族の兄弟たち以上に、身近に過ごしてきた。リューズは幼年の頃にはおそらく、自分も魔法戦士のひとりだと勘違いしていたのではないだろうか。もしくはこの世に魔法戦士以外の者がいることに、あまり気がついていなかったか。

 こちらに付き合って、魔法戦士の派閥に籠もり、戦の後にはもうもうと煙を上げる者たちの間に居れば、それが普通だと思うだろう。

 苦痛が始まり、煙管きせるを使う自分に、なぜ吸うのかとリューズが問うてきた時も、イェズラムは痛いからだとは答えなかった。その事実を隠すのが、たしなみだったからだし、まだ子供だったリューズに、イェズラムは、自分がいずれ死ぬ話をしたくなかった。

 だからリューズは昔、魔法戦士が麻薬アスラの煙を漂わせるのは、単なる嗜好だと思っていたようだ。そしてそれを英雄らしい見栄えの良さと、勘違いして憶えた。

 魔法戦士にとって、それは悪習ではなく、やむを得ないことだった。王族にとっても、一時の気晴らしとして、麻薬アスラたしなむ者はいる。しかしリューズのそれは、時として、たしなむという域ではなかった。

 このままでは危ないと、以前から時折イェズラムは思ったが、リューズはその頃、即位するはずのない立場だった。リューズが戴冠するほんの少し前までは、彼の異腹の兄アズレルが、継承争いの本命株として燦然さんぜんと輝いており、リューズはその新星の即位とともに、死をたまわる運命だったのだ。

 それが怖くて、素面しらふでは耐えられず、煙で酔いたいのだろうかと思うと、なんともいえず哀れで、やめろとも言いにくかった。どうせ長くもない一生だと割り切り、それでリューズの喫煙を放置していたのだったが、いったん玉座に座った今、事情はまるで違っていた。

 あいつには、一日でも長く生きてもらわねばならない。まだ世継ぎもいなければ、戦のまっただ中だった。

 暗君として知られるリューズの父親である先代の族長は、敗戦に継ぐ敗戦におびえて麻薬アスラに耽溺し、かなりの短命だった。リューズにその二の舞をやらせるわけにはいかない。それでなくても王家には、長年の血のおりか、早逝そうせいの気があるのだ。

「喫煙を控えさせろ、シャローム」

 そう命じながら、はき出す煙が苦いような気がして、イェズラムは顔をしかめた。

「無理です、言って聞くような玉じゃないでしょう、リューズは。俺や、ビスカリスやヤーナーンは吸うのに、なんで自分はだめなのかって、ご機嫌斜めになるのが落ちです」

 ビスカリスとヤーナーンも魔法戦士だった。シャロームとともに、気に入られてリューズの近侍だ。

 元はといえば、戦場で敵陣に突撃したいというリューズの護衛の目的で、気に入りそうな性格の魔法戦士をイェズラムが選び、側に付けたのが始まりだったが、それがよっぽど気に入ったのか、王宮にいる間にも、身近にはべらして遊び歩く始末だった。

 二十代も後半に入る三人の魔法戦士は、どれもそろって堪え性のない性格をしており、その出し惜しみのない魔法で、激戦の時代を戦ったせいで、三人揃ってすでにもう、末期と言える病状だった。中でもシャロームは運がないようで、特に進みが早い。薬無しで耐えろというのは無理な注文だった。

 そろそろ入れ替え時期なのだと、イェズラムには思えたが、それもなかなか言いだしにくかった。お前らはもう死ぬだろうから、他の者に近侍をゆずれというのでは、あまりに可哀想な気がして。

「それで……ビスカリスとヤーナーンは、まだリューズの部屋なのか」

 しわの寄ってきた眉間みけんを揉んで、イェズラムは尋ねた。リューズをなるべく一人にするなと、彼らには命じてある。一人にしておくと、なにをするか分からないようなところが、リューズにはあるので、常に誰か監視をつけておきたかったのだ。

「いいえ。それが、俺はとっとと戻らないと」

 持ってきていたにしきの巻物を、シャロームは懐から取りだし、イェズラムに示すともなく示した。

双六すごろくの途中なんです、デン賽子さいころの出目に従って、止まった枡目ますめに書いてある命令に、従わないといけない決まりなんです。それで俺のはこれなんですが……」

 シャロームがたずさえているのは、確かに、族長が下命するための、錦で裏打ちされた命令書のように見えた。

 あいつはそれを、遊びに使っているのかと、イェズラムは軽い目眩めまいを覚えた。

「ヤーナーンは今、『玉座の間ダロワージを裸で走る』に向けて精神統一中です。ビスカリスは、『女官の服で女部屋に潜入』して、ばれて、魅惑の袋叩きに……」

 手を挙げて、イェズラムは頭痛に目を伏せたまま、喋るシャロームの言葉を止めた。

「あのな、『玉座の間ダロワージを裸で走る』というのは、ヤーナーンが玉座の間ダロワージを裸で走るという意味か?」

「……そうです」

 シャロームはさすがに言いにくいというふうに答えた。

「もう走ったのか」

 それを自分で口にした瞬間、頭痛とは別の激痛を、イェズラムは脳の奥深くに感じた。

「さあ。まだじゃないですか。相当に気合いがいるはずですから」

 思い出し笑いか、シャロームは薄く笑いをこらえる顔をしていた。

 族長の命令書は廷臣にとって絶対のものだが、それに妥当性がない場合、竜の涙には拒否権がある。だから拒否すればいいのだ。

 この命令に妥当性があるわけがない。

「リューズは今、なにをしているんだ」

 もう他人任せで放置できる範囲を超えたと、イェズラムは思った。

「俺達が戻るまで、『イェズラムに怒られる』です。つまり一回休み。十六回連続で、『イェズラムに怒られる』で、相当頭に来てました。それで族長の機嫌がなおるなら、ヤーナーンが裸で走るぐらい、でもないですよ、デン

 それが日常だというように、シャロームは淡々と話していた。こいつらは毎度毎度、何をやっているのだ。

 イェズラムは、自分が口うるさく言っても聞かないリューズの不品行を、気の合うような者の口からやんわりと止めさせるために、彼ら三名に監視役としての側仕えを許しているつもりだった。そういう立場の者が、不品行をあおってどうする。

「お前は今すぐ行って、ヤーナーンを止めろ」

 苛立ちとともに煙を吐いて、イェズラムは命じた。それにシャロームは、困ったという顔をした。

「でも、デン、リューズが玉座の間ダロワージを裸で走るより、ヤーナーンのほうがましでしょう。誰かがやらなきゃ気が済まないんだから。あんまり『怒られる』続きだと、俺が魔法の風で賽子さいころの出目をちょろまかしてるって、さすがにリューズも怒りますから、この辺で落ちをつけないと」

「他の無難な目に落としてやればいいだろう」

「ああ、そうですね。なかなか難しいんです。ものすごい枡目ますばっかりで」

 それが具体的に何なのか、イェズラムは知りたくなかった。

 今すぐ行って、『イェズラムに怒られる』を実行に移させてやるべき時だ。

 立ち上がろうとしたイェズラムに、シャロームがあっと驚いて引き留めるそぶりをした。

デン、その前にこの命令書に、俺が実行したっていう一筆をいただきたいんです。手ぶらじゃ帰れねえから」

 巻物を解いて、シャロームがそれを差し出してきた。

 円座の上に立ち上がったまま、イェズラムはそれを受け取って読んだ。

 それはこの上もなく正式な命令書だった。きちんと定められたとおりの前口上で始まり、日頃は他人に代筆させて書かないくせに、リューズは流麗な直筆の文字で命令をしたため、ご丁寧に族長の印璽いんじまでしていた。

 くっきりした文字を速読の目で追い、イェズラムは内容を読んだ。シャロームが一筆書かせるつもりか、懐から矢立を出して、墨に浸した筆を用意して待っている。

 なぜかそれは、絵を描くような筆だった。

 なぜだろうかと思いながら、イェズラムが読み進むと、命令書の内容はこうだった。

 エル・イェズラムの尊大なる顔に、族長よりのすみ下賜かしせよ。

 なんのことかと一瞬考え、その次の瞬間に、イェズラムは悟った。

 そして、はっとして避けたが、シャロームのほうが早かった。仰け反って避けるイェズラムの頬に、シャロームが墨を含んだ筆で一閃した。

 ひやりとした墨の感触とともに、あたかもシャロームの横っ面にある傷痕と似た、縦一閃の墨跡がつくのが、イェズラムには感じられた。

 シャロームは抜刀術の達人でもあり、彼の驚異的に素早い居合い抜きの一刀を、ここまで油断していて避けられるはずもない。

 巻物を両手にげたまま、イェズラムは項垂うなだれ、思わず、畜生と呟いた。

 シャロームはそれに、いかにも済まなそうに頭を下げた。

「俺もこんな事はしたくなかったんですけど、デン。族長命令ですから」

「運がよかったな……シャローム。玉座の間ダロワージを裸で走らされるやつがいる一方で……こんな命令で済んで」

 言いながら、猛烈に腹が立ってきて、イェズラムは命令書をつかむ自分の腕が、かすかに戦慄わなないているのを見下ろした。

 リューズには、なかなか突破できない敵の防衛戦を打ち崩すための方策を、考えるように言ってあった。そこでの戦果が思わしくなく、こうしている間にも、兵や魔法戦士が無駄に死んでいる。

 それを考えもせず、あいつはなにをやっているのか。

 そう思うと、今すぐ行って首を絞めたい気がした。あいつの他に、玉座に座れる者が、今はもう居ないことを、忘れることさえできれば、今すぐ本当に走っていって、あの生っ白い首を締め上げてやりたいところだ。

「あの……できれば末尾に一筆、証明のための署名を……」

 怖ず怖ずと、シャロームが筆を渡してきた。こいつでも遠慮することはあるのかと、イェズラムは震えながら筆を受け取った。怒りのあまり、本当に手が震え、筆先がなかなか定まらなかったが、息を殺して、イェズラムは書いた。

 命令書の末尾に書き添えた、エル・イェズラムの名をつづる文字の筆跡は、命令書にあるものと酷似していた。かつて幼少のころのリューズに字を教えてやったのが、他ならぬ自分だったからだ。

 癇質かんしつの兄アズレルの意地悪な計らいで、リューズは王族らしい教育を受けさせてもらえず、イェズラムが気づくと、文盲になっていた。それにぎょっとして、隠れて文字を教えたのが、もう元服する十二の頃も間近な年齢で、書いて与えた手本を写せ、一日書きつづけて憶えなければ、飯も食わせないと脅しつけたのが、リューズにはよほど怖かったのか、まる一日明けてから成果を見にいくと、文字のねの癖までくっきり同じの筆跡を書くようになっていた。

 それで、怒りすぎたとイェズラムは悟ったが、もう手遅れだった。リューズの筆跡からは、手本から写した癖が全く抜けず、即位した今でも、家臣であるイェズラムとそっくり同じ文字を書く。

 子供相手に、可哀想なことをしたと、字を見ると時々後悔が湧く。文盲だったのは、本人の責任ではなかった。誰もあいつに、字の読み書きを教えてくれなかっただけだ。

 だが今こうして、ふざけた命令書を見せられると、あのまま文盲でいればよかったのにと、別の後悔が湧いてくる。なんで文字なんぞ教えてしまったのか、自分は。書けなければ、こんな事にはならなかった。そうすればあいつも、馬鹿げた双六など作ってみせて、ヤーナーンを裸で走らせることもなかったのに。

 はっとそれに思い至り、イェズラムは回想から醒めた。

「早く行け、シャローム」

「え。どこへですか」

 シャロームはきょとんとした。

「馬鹿、玉座の間ダロワージだ。ヤーナーンを止めろと言っただろ」

「でも、止めたらご機嫌斜めですよ。ヤーナーンの立場が……」

「ふざけるな。太祖の代から受け継いだ神聖なる玉座の間ダロワージを裸体で汚そうというのか。俺の顔に墨を塗るのとは訳が違うんだぞ、これは冗談で済んでも、それは大逆なんだ。どこまで馬鹿なんだお前らは!」

 あまりに許し難く、イェズラムはほとんど叫ぶように言って、ほどけたままの巻物を持った右手で、シャロームの頭を力任せに叩いた。

 いてえ、とシャロームは泣いた。

 相当に痛いはずだった。当然のむくいだった。

 しかし、可哀想なことをしたと、すぐにイェズラムは思った。子供部屋のころからの、シャロームを怒る時の癖でつい叩いたが、石のある者は頭に衝撃を受けると、それが痛む。だから余程でなければ頭は殴ってはならないのだ。

 シャロームは猛烈に痛かったらしく、大の大人というのに、頭を抱え、叱られた餓鬼のように目頭に涙をにじませていた。

「痛いです、デン。怒らないでください、怖いんだから。やっぱりこうなるんじゃないかと思ったよ……俺も『裸で走る』のほうが良かった」

 それを聞いて、イェズラムはもう一発殴りたくなり、シャロームを睨んだ。それは拳骨なみによく効いたらしく、シャロームは身をすくめて、痛そうな顔をした。

 利かん気で、怖いもの知らずのシャロームは、子供部屋時代から、口で言っても理解しないので、拳骨で話してやらねばならない手合いだった。こいつと付き合っていると、頭も痛いが、なにより手が痛い。一人前になれば、そんな必要はなくなると思っていたのに、死ぬまで殴り続けることになるのか。

「リューズには、俺がさとしておく。心配するなと、ヤーナーンに言っておけ」

「はい。ええと……さとすんですか、デン。それは、怒るのとどう違うんですか」

「殴らない」

 自分の手を見下ろして、イェズラムは教えた。

 族長冠をかぶった頭を殴るわけにはいかない。たとえもう、言っても分からないとしてもだ。さとすしかない。

 即位前なら、こちらがデンだったが、あちらが玉座に座った今では、こちらが家臣だ。主君を殴れば大逆だ。

 だから、十六回連続でさとすことはできても、怒ることは、もうできない。

 いくらあちらが、こちらを怒らせようという魂胆こんたんでもだ。

 おのれ、リューズ。なめやがって。

「あのですね、デン……あんまりきつく、さとさないほうがいいですよ。リューズはあれで、遊びながらでも、考えてはいるみたいだから……もうちょっとだけ、待ってやってくださいよ。ほら、その、長い目で……」

 たどたどしく弁護する口ぶりのシャロームを、イェズラムはにらみ付けた。シャロームはそれで、困ったふうに押し黙った。

 部族の命運がかかった戦のことを、遊びながら考えるとは、ずいぶん余裕だ。

 お前はいつのまに、そんなに偉くなったのだ、リューズ。

 リューズは確かに、濃厚な敗色の中で即位して以来、誰も思いつかないような奇抜な戦法を編み出して、部族を窮地から救い続けている。それですっかりいい気になって、族長なのだから、宮廷では何をやっても許されると、勘違いしているのではないか。

 族長冠の重さを感じながら、昼も夜も寝食を忘れて考えるべきだ。どうすれば勝てるか。

 誰がお前の尻ぬぐいをしてやってると思ってる。お前のわがままには、いいかげんうんざりだ。

 内心にそう呪いながら、イェズラムは会談室を足音高く横切り、派閥の広間サロンに出る扉を、ばんと勢いよく押し開いた。

 そこにいた者たちが、怯えたような目で、いっせいにこちらを見た。彼らがさらにおびえた青い顔で驚愕きょうがくするのを見て、イェズラムは戸口にもたれ、目眩めまいをこらえた。

 塗られたすみを、拭いていなかった。

 シャローム。

 お前は、本当に、がたい馬鹿だが、リューズはそれに、輪をかけた馬鹿だ。

 そんなどうしようもないお前が、稀代きたいの名君に見えるように、必死になっている俺を、からかって楽しいか。

 楽しいのだろうな。楽しくなければ、やるわけないな。

デン……」

 いつのまにか、戻ってきていたジェレフが、戸口の脇で待っていたようで、呆然と声をかけてきた。

 悄然しょうぜんとしており、顔色の悪い新入りを、イェズラムは戸口にすがったまま見下ろした。

「なんだ、エル・ジェレフ。俺になにか用か」

 どう見ても、顔の墨跡に目を奪われているジェレフに、イェズラムは低い声で尋ねた。

「あのう……先ほどは、生意気なことを言いまして……失礼を……」

 しどろもどろに、ジェレフはびてきた。

 イェズラムは、それに小さくうなずいてやった。

「お前のな、生意気など、可愛いものだよ、エル・ジェレフ。そんなものは、朝飯前で、俺は実は腹も立たなかったよ。世の中には、上には上が……いや、下には下がいてな、俺は今そっちのやつに、頭にきてるところだ」

 伏し目ににらみ付けて教えてやると、ジェレフはどことなく怯えた顔のまま、こくこくとうなずいて聞いた。訳は分かっていないだろうが、とにかくデンが激怒していることくらいは、この若造にも理解ができるらしいかった。

 しばし、どことなく乱れた呼吸でこちらを見ていたジェレフは、やがてはっとしたように、会談室にいるシャロームを見た。その顔がだんだん、とがめる目つきをするのを、イェズラムは見つめた。

 違うよ、ジェレフ。お前はどこかずれてるな。俺がシャロームに怒っていると思ってるんだな。そりゃあそう思うだろうがな、でも本当のことを教えてやるわけにもいかないし。かといってシャロームの面子めんつも守ってやらねばならんしな。

「エル・シャローム……」

 背後にいる弟分ジョットに、イェズラムはかすれた声をかけた。

「ご苦労だったな。引き続き頼む」

「はい、デン。それじゃ俺は、これで失礼します」

 その場で深々と一礼する気配がして、それからシャロームは、すれ違い様にも目礼をし、イェズラムを追い抜いていった。

 本来なら、イェズラムが出るのを待つべきところだが、そんなことはこの際些事さじだ。早く行かねば、ヤーナーンが裸で走る。

 しかし行きすぎるシャロームを、ジェレフはむっとした目で見送った。

 シャロームはそれを、じろりと一瞥いちべつしていった。自分に挨拶をしなかったジェレフが、許し難いという目だった。

 ああ、ここにもまた一悶着ひともんちゃくかと、イェズラムは思った。

 どいつもこいつも。手間をとらせやがって。

「ジェレフ……」

 項垂れて、イェズラムは相手の顔を見る気力もなく、声をかけた。

「シャロームをうやまえ。あいつはお前のデンだ」

「あの人はこの派閥の一員なのですか、エル・イェズラム」

 罪のない口調で、若い治癒者は尋ねてきた。派閥の一員もなにも、シャロームは子供部屋のころからのイェズラムの弟分ジョットだった。性格が合うとは言い難いが、いわば苦楽をともにしてきた部下だ。そうでなければ、リューズを任せられない。

「そうだ、あいつもお前も、俺から見れば可愛い弟分ジョットだよ。序列を守って、仲良くやってくれ。お前は自分も優秀なつもりだろうが、シャロームは歴戦の英雄だ。お前にはまだ英雄譚ダージはないが、詩人はシャロームを玉座の間ダロワージで何度もたたえた。そんな相手に敬礼できないというなら、お前はここでは生きていけない」

 それにエル・ジェレフ、お前は族長に命令されても、いくらなんでも玉座の間ダロワージを裸で走れないだろう。

 当代の治世を支えるには、人知れぬ様々な苦労があるんだ。馬鹿なあいつらが、お前の代わりに、裸で玉座の間ダロワージを走ってくれるから、お前はいい子でいられるんだ。だからあいつらに、お前は頭を下げてやれ。

 そういうつもりでイェズラムはジェレフを見たが、少年は思い詰めた目をするだけで、ちっとも理解したふうではなかった。

「俺のほうが、あの人より優秀です、デン

「それはまだ証明されていない」

「証明します。仕事をくだされば」

 なんでもする、という目を新入りはしていた。たぶん誰かに、シャロームに逆らうな、あいつのほうが強いとさとされ、これまで鼻をくじかれたことがなかったジェレフは、悔しかったのだろう。皆の面前で侮辱されて、それに報いることができないどころか、皆から頭を下げろと言われて、シャロームが憎いのだ。

 それでやつを、見返したいのだろう。自らの優秀さを示して。

 しかし、その坊やづらを見れば、できることはたかが知れているのは、試すまでもないと、イェズラムには思えた。

 シャロームとこいつとでは、場数が違う。あいつは命じれば何でもするが、ジェレフは自分の頭ひとつ、下げられないというのだから。なんの力もない餓鬼のくせに、いい気になりやがって。つくづく馬鹿で、危なっかしいやつだ。

 俺がお前くらいの頃には、もう戦地で濫用らんようされて、文字通り死ぬ目にあってたけどな。

 それと引き比べてみると、ジェレフはさかしいかもしれないが、ぼけっとした奴だった。それは今この時代が、以前よりましになっているという証明だった。

 確かにましになっている。リューズは魔法戦士を重用していた。それもこれも、乳兄弟である俺への義理立てだ。

 いやなことに思い至って、イェズラムはさらに顔をしかめた。そんなことを考えたら、怒りがえるじゃないか。

「仕事か。それじゃあ、俺は顔を洗いたいので、湯をもらってこい、英雄エルジェレフ」

 イェズラムがそう命じると、ジェレフは複雑な顔をした。

 たぶん、そんな簡単な仕事ではなく、もっと困難なのが好みだったのだろう。

 だけど今のお前には、それくらいしか、頼んでやれる仕事がない。それで満足して、とっとと働け。

 イェズラムは苦笑を堪える顔で、ジェレフの情けないつらと向き合った。子供は屈辱をこらえ、とってつけたようなお辞儀をして、部屋から走り出ていこうとしたが、どこかから飛んできた年長者たちの、デンに返事をしろという叱責を受け、ますます早く走りながら、ほとんど叫ぶような声で、はいと答えた。

 その尻を叩かれた子馬のような有様が可笑しく、イェズラムは笑った。

 確かにシャロームが言うように、あいつはこの派閥の癒し系らしい。さっきまで激怒していたのが醒めてしまって、今ならリューズを絞め殺さないだろう。

 忠義なやつよ、エル・ジェレフ。族長の命を守ったな。

 そう思い、イェズラムは笑って戸口にもたれ、煙管の残り火をふかした。頭痛がしずまりはじめ、軽い酔いが始まっていた。

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