第9話

 ジェレフは与えられた席に、石像のようになって座っていた。

 それはそれで良かった。そこまで緊張していれば、目の前にある名君双六の枡目ますめに書かれている、目を覆うような命令の数々も、ろくに読めていないのではないかと思えたからだ。

「シャローム以外は、みんなあがったのだ。こいつは本当に運のないやつだなあ、イェズラム。もう皆飽きて、いちいち命令を実行していると進まないので、とにかく『戦死する』に当たらなければ可ということにしてあるんだが、それでも中々あがってくれないんだ」

「だったら、もう、やめたらどうなんだ」

 あきれ果てて、イェズラムはリューズに提案した。一体何日ぐらい、この馬鹿げた双六で遊び続けているのだ、お前らは。

「やめちゃだめなんだそうですよ、デン。みんなで『名君の死』まで行くんだ」

 煙管に火を入れながら、ヤーナーンが教えてきた。裸で走るはずだった男は、ふうっと長い息に乗せて、煙を人のいないほうへ吐き出し、それからその煙管を、賽子さいころを握っているシャロームに差しだした。

兄貴デン、景気づけに一服」

 うなずいて勧めるヤーナーンに、シャロームは一瞬だけ苦笑を見せたが、拒まずにそれを口に入れさせた。

「煙を吸った程度で、俺の不運が尽きるものかね」

 合わせた両手の中で、賽子さいころを転がしながら、シャロームがぼやいた。

「死ぬな、シャローム」

 脇息きょうそくにもたれ、リューズが気怠けだるげに、そう命じた。

 たぶんもう、内心では飽きているのだろう。リューズはそういう時の癖で、自分の耳飾りの房をいじっていた。

 後はもう、執念だけで、『名君の死』まで全員を連れて行こうという事なのだ。

 しかし、それは無理だ。リューズ。この場にいる誰一人、それに付き合える者はいない。いちばん年若いジェレフでさえ無理だ。お前がどんなに汚い手を使って、ごねてみせても、死の天使の翼に逆らえる者はいない。

 イェズラムはそう思いながら、賽子さいころを振ったシャロームの、煙管をくわえて笑っている顔を眺めた。

 象牙で作られた大振りな賽子さいころは、ころころとジェレフの膝元まで転がっていき、こつんと当たって止まった。

「ぐわっ、治癒者が俺の運命を変えやがった!」

 シャロームは逆上したふうに言ったが、ジェレフの横で見ていたビスカリスが、出目を確認して、盤上のシャロームを動かし始めていた。

「これなる新参者の膝蹴ひざげりが、吉と出ますか、凶と出ますか……」

 エル・シャロームの名を金で象眼された魔法戦士のこまは、『戦死する』を飛び越え、かの『玉座の間ダロワージを裸で走る』をも乗り越えて、『侍従長の頭を棒で叩く』で止まった。それは『戦死する』の一歩手前だった。

「おおお、無難な枡目ますめだ」

 驚いたように、シャロームが言った。それが無難なのかどうか、イェズラムは顔をしかめた。無難というなら、せめて棒でなく手で叩け。

 ジェレフはすでに、呆然としていた。

「治癒者だけに、死の一歩手前でシャロームを救ったか」

 リューズはどこかしら意地悪い口調で言い、次の賽子さいころを振り回しているシャロームを見やった。

「俺様が腐れ治癒者に救われるとは、一生の不覚ふかくだよ」

「時代は変わったのだ、シャローム。お前も俺も、考えを改めるべき時かもしれんぞ。いつまでも暗い時代の怨念を、引きずって生きていく訳にもいかないものなあ」

 そう言うリューズの話を振り払うように、シャロームは煙管をくわえた歯の間から、ふふんと刺々とげとげしく笑った。そして振られた賽子さいころは、今度はジェレフをよけて、どこまでもころころと転がっていった。

「数を見てこい、新参者」

 投げすぎた賽子さいころを取りに行くよう、シャロームはジェレフに命じた。

 それにジェレフは、一瞬渋い顔をしかけたが、にこにこ見ているリューズに気づいて、それを隠した。さすがの反発した小僧も、族長の目前で、序列を無視してシャロームとやりあうつもりはないようだ。

 立ち上がって賽子さいころを取りに行き、戻ってきたジェレフは、ビスカリスに問われて、見てきた数を答えていた。

「いかさまじゃねえだろうな、ジェレフ」

「そんなことはしません。やって何の得があるんですか、俺に」

 不正をしたかと言われたのが、よほど悔しかったのか、ジェレフは噛みつくように、シャロームに答えた。

「何の得もなくても、ずるして気にくわねえ奴をとっちめるのが、お前ら治癒者のやり口さ。同じ軍の戦友を見殺しにして、平気で王都にご帰還よ。力及ばずご免なさいで、誰も文句の言いようもねえ。戦で死ぬのは普通だからな」

 むっとして、ジェレフは胡座こざした膝の、長衣ジュラバの布地をつかみ、押し黙った。それを眺め、煙管をふかして、シャロームはさらに言った。

「お前らは賽子さいころの出目をちょろまかすのが仕事だろ。数字を変えて、生きられるはずだったやつを見殺しに……」

 シャロームは煙管を指にとり、振り返って背後に煙を吐いた。それには強い酩酊めいていの香りがもっていた。

「違います。死ぬはずだった者を助けるのが、治癒術です。それによって戦局が変わることもあるはずです。直接に戦うことはできませんが、治癒者もそうして、戦っているのです」

 ジェレフはシャロームにではなく、脇息きょうそくにもたれ、くつろいでいるリューズに向かって話していた。俺の話を聞いてくれと、この少年は言いたいのだろう。

 本人も先程、治癒者を嫌いだと言い、同じく治癒者を毛嫌いしているシャロームの話を、日々こうして聞かされているらしい族長リューズが、治癒者は卑怯な役立たずだと思うのではないかと、ジェレフは耐え難く思い、そうではないと話したいのだ。

「シャロームは本当のことを言っているのだぞ、エル・ジェレフ。こいつは実際、そういう目にったことがあるのだ。イェズラムが命の恩人で、その時の弱みのために今も、首根っこつかまれて働かされているという、気の毒なやつなのだ」

「そうだ。時には、あのまま死んでたほうが、楽だったかと思うほどだぞ」

 本気なのか、それとも葉っぱに酔わされたのか、シャロームはけろりとそう言った。そこまで言うなら、こちらもわざわざ、石を肥やしてまで助けてやらねば良かったかと、イェズラムは悔やんだ。

「それに引き替え、お前の話は空想の段階だろう。初陣もまだなのだ。戦ったことがない者が、なぜ戦場における物事の理屈をこねられるのだ」

 頬杖をついて、たずねているリューズの口調は、皮肉ではなかった。リューズは誰にでも、分からなければたずねるのが癖になっている。理屈に合わないから不思議に思って訊いただけなのだろう。

 それはそれで無体なことだった。なぜだと問われて、ジェレフは言葉を失っていた。

「それは……そう思うからです。自分の信条を話したまでです」

 恥じ入る気配で、ジェレフは膝を掴み、低く答えた。自分にはまだ、その話をするに必要な英雄譚ダージがないことを、ジェレフは痛感しているのだろう。

 悔しそうな様子の少年を、リューズは何とはなしに苦笑したような顔で見つめて言った。

「これは俺の経験からの忠告だがな、エル・ジェレフ。経験というのは、なにものにも代え難い。経験のある者の話は、真摯しんしに受け止めるほうがよい。その中からしか得られないものが、世の中にはあるようだから、俺はいつも、人の話はよく聞くようにしている」

「エル・イェズラムの説教以外は」

 にこにこと愛想よく、ビスカリスが合いの手を入れた。それにリューズは心持ち項垂うなだれてうなずいていた。

「くだらん指摘で俺をいじめていないで、さっさとこまを進めてくれ、ビスカリス」

 しっしっと追い払うように、リューズは手を振って、ビスカリスに双六のこまを進めさせた。

 先程ジェレフが読んできた数字のぶんだけ、ビスカリスはシャロームのこまを動かしたが、それは再び『戦死する』を乗り越えて進んだ。

 その事実に、ジェレフは、そら見ろというように暗くシャロームをにらんだが、そんな子供っぽい挑戦には乗らず、シャロームはただ苦笑していた。

「また俺が夜光虫を食っている」

 こまは『夜光虫を食う』に止まっていた。

「何匹目だシャローム。お前はよっぽど夜光虫が好きだな。病気になるぞ」

 リューズは変人を見るような目でシャロームをなじったが、よくもそんなことが言えるものだった。

「好きで止まってるんじゃないって。運命の仕業しわざだよ」

 情けなそうに言って、シャロームはまた賽子さいころを投げた。それをビスカリスが見て、またこまを動かしてやった。それは『イェズラムの顔に墨』を乗り越え、その隣の『戦死する』で止まった。

「また死んだ!」

「死にすぎだ兄貴デン

「いいかげんにしてください、エル・シャローム」

 顔を覆って叫んだシャロームに、ヤーナーンとビスカリスが文句を言った。そうやって他人をなじっていられるのだから、残る二人は確かにもう名君の死を見たらしい。

「シャローム、面倒くさいから、今のはなかったことにして、もう一度やってみろ」

 やれやれと言うリューズに、シャロームは苦笑して、煙管をくゆらせ、やる気のない手で賽子さいころを投げた。それは、ころころと転がってきて、イェズラムの前で止まった。

 同じ数字だった。

 指をのばしてきて、リューズが賽子さいころを拾ってやり、もう一度シャロームに投げさせた。

 つややかな象牙の賽子さいころは、刻まれた黒い目もあざやかに転がり、盤の中程で止まった。

 それはまた、さっきと同じ数字だった。

 シャロームはそれを、目を瞬いて、じっと見下ろしていた。

「凄いな。なんというか、もの凄い強運というか、不運というか。同じ出目が三回連続で出る確率はどれくらいだ」

 計算していない顔で言って、シャロームは賽子さいころを引き取った。

「もう止めようや、リューズ。俺には『戦死する』があがりだよ。『名君の死』まで付き合いたいが、どうも俺には運がなさ過ぎる」

 リューズは自分の左隣で、双六を止める許しを求めたシャロームを、じっと見つめて真顔で言った。

「この、不忠者めが」

 シャロームはそれと向き合い、苦笑いをした。

「誠に申し訳ございません」

 芝居がかって答えるシャロームの声は、ふざけた笑いを含み、軽快に響いた。リューズはそれを、かすかに不機嫌そうに聞いたが、それでも、まだ続けろと命じはしなかった。

「かくして、英雄シャロームは死せり」

 朗々ろうろううたう、詩人のごとき声で、ビスカリスが茶化した。皮肉な笑みとともに、シャロームは、ビスカリスとヤーナーンにうやうやしく頭を下げた。それに二人が答礼するのを、リューズは退屈げな半眼で、うっすら不機嫌そうに見ていた。

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