蛞蝓
可笑林
蛞蝓
五月の夜。
下宿先の布団の中で、私はなにか湿ったものが下宿の周囲を這いずり回る音を聞いた。それは巨大な蛞蝓であると、私は確信していた。
恐ろしくなって、私は蛞蝓が少し遠ざかった隙に、寝巻のまま下宿所を忍び出た。
夢で見ていたあの横町の一角に、確か塩屋があったはずだ。
こんな夜更けに店を開いているのは塩屋だけだった。暗い通りに一軒だけが白い蛍光灯を灯している。
塩屋の店主は私が来るのを知っていたかのように、歪んだ顔で番台に座っていた。
「塩はないよ」
幾本も残っていない黒い歯を見せて、店主は言った。歯がないのは塩屋だからだと私は思った。
「しかし入用だ」
と私は言った。
「塩なんて戸棚にいくらでもあるじゃないか」
「蛞蝓を溶かすための塩はないというのだ」
私は困惑した。それでは下宿へ帰られないと思った。
「火急なら、赤い紫陽花を摘んでくるがいい」
店主がそう言った。
「摘んできたなら、俺が揉んで塩にしてやろう」
それきり、店主は口を噤んだ。
塩屋の勝手口を抜けると、彼岸花が一面に咲いていた。丁度勝手口から伸びる道が、地平線の向こうまで続いていた。
私はしばらく、月光に照らされた彼岸花が揺れるその間を、まっすぐ歩いていた。
見渡す限りの彼岸花の海を、どれほど歩いただろうか。やがて地平線の向こうに黒く鬱蒼とした藪が見えて来た。
それは紫陽花の森だった。
紫陽花は満開だった。しかし月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がった紫陽花に、赤いものはなかった。
仕方なしに、私は紫陽花の森の奥へと進んでいった。生い茂る黒い紫陽花の木に、傷口のように青い花塊が附いている。赤い紫陽花は、きっと森の奥に咲いている。
進みながら、私は、なぜ塩を作るのに赤い紫陽花が必要なのか考えた。店主は揉んで塩を作るというが、とてもできるとは思えない。
途端に、この森には果てがないように思えた。赤い紫陽花などないのだ。店主は私を揶揄ったのだ。
私は怒りを覚えた。蛞蝓を溶かすのに塩を選ぶ必要もあるまい。
踵を返そうとしたとき、私は奇妙な音を聞いた。
ぼとり、ぼとり……
そのような幽かな音が、紫陽花の森の奥の方から聞こえてくる。
ぼとり、ぼとり、ぼとり……
音は絶え間なく続いて、森の奥から迫りくるようだった。
やがて、私はその音が、紫陽花の花塊が枯れて地面に落ちる音だと気が付いた。紫陽花が森の奥から枯れているのだ。
紫陽花が枯れ落ちる音が夕立のように私に近付き、ようやく紫陽花の木が黒く枯れて萎んでいく様が、月に照らされ私にもまざまざと見て取れた。
私は迫りくる枯死の境界から逃れるように、渾身で来た道を駆け戻った。鉛のように足が重く、思うように先に進めない。
しかし枯死の境界は迫ってくる。
焦燥と共に紫陽花の森を抜ければ、そこはまた彼岸花の野原だった。道の両脇に無限に広がる彼岸花は、その花弁を轟轟と燃やして辺りを昼間のように照らしていた。
突如として、私は背後に得体のしれない怪物の咆哮を聞いた。それは確かに苦悶の聲だった。
振り返ることもなく地平の先を目指して、私は火の海と化した彼岸花の野原を駆けて行った。
薄汚れた平屋の勝手口を潜ると、そこは塩屋だった。
店主はいなかった。代わりに番台に陶磁製の蛙が置いてあった。
私は戸棚に並んだあらゆる塩の瓶を抱えられるだけ抱えると、横丁を駆けて下宿先へ急いだ。
六畳間の布団の中で塩の瓶を抱えて震えていると、外では雨が降り始めていた。もうなにか湿ったものが這い回る音は聞こえなかった。
朝、抱えていたはずの塩の瓶が、少し湿っているように感じられた。
布団を脱ぐと、瓶には赤い紫陽花が挿してあった。
蛞蝓 可笑林 @White-Abalone
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