第12話

 それからどうなったのか何も覚えていない。気が付けば、僕は父の家にいた。空っぽの部屋でひとり眠っていたのだ。まるで、長い夢を見ていたようだった。

 翌週、僕は再び海月の家に向かっていた。高台へ車を走らせながら、彼女が消えていった海を眺める。彼女との日々が夢などではないことも、そして全て終わったことだということも、十分わかっていた。あのとき何も言えなかったことが僕の答えで、手が届かなかったことが僕たちの結末だ。きっともう、僕は彼女に関わらない方がいい。

 それでも、どうしても胸に引っかかって、いても立ってもいられなかった。せめて最後に彼女がどうしているのか確かめたかった。死ねない彼女は、あの家に戻っているのだろうか。それとも――もう、何処にもいないのだろうか。


 海辺の町は、すっかり秋の様相だ。空がやけに高く、遠い。他人のような顔で僕を見下ろしている。柔らかく零れる日差しは町の色合いを変え、海月と出会った季節が終わったことを物語っていた。

 彼女の家に着いて、しばらく扉の前で立ち尽くしていた。チャイムを押す勇気は湧かなかった。道行く人が怪訝そうに僕を振り返る。もし海月がここにいたとして、僕は何を言うつもりだろう。彼女がもういなかったとして、僕は何を思うつもりだろう。

その時、逡巡する僕の前で、ゆっくりと扉が開いた。

 僕は顔を上げ、目を見開く。

「だあれ?」

 扉を開けたのは五歳ほどの幼い女の子だった。僕を見上げる黒目がちな瞳。透けるような白い肌にウェーブがかった黒い髪。紅色の唇。彼女は、海月の面影を色濃く残していた。若返ったのかと考えて、すぐに怪訝に思った。若返ってもかつての記憶は継承されているはずなのに、彼女は僕を初めて見たような、怯えた表情を浮かべている。

 しゃがみ込み、視線を合わせた。びくりと、彼女は肩を震わせる。海月、と僕はその名を口にした。彼女は、怖じけるように唇を噛みしめた。

「……僕のことを、覚えてるかい?」

 その問いに、海月は泣きそうな顔で首を振る。

「知らない。お母さんから、知らない人は家にいれないように言われているの」

 震える声で彼女は言った。僕は息を飲む。やはり記憶が消えている。おそらく僕のことだけではない。少女は自分が常盤みつだったことも覚えていないのだろうと思った。そうだとすれば、彼女はもう紅野海月ですらない。全く別の新しい誰かだ。

 僕は無垢な少女を見ていた。扉の端をしっかり掴んだ小さな手。

 もう、彼女は繰り返さずに済むのだろうか。何処にも手が届かない、寄る辺ない浮遊の日々を過ごさずに済むのだろうか。誰も愛せぬまま、海に消えていった彼女の、諦めた笑顔が脳裏を過ぎる。

 もう二度と、あんな表情を浮かべずに済むなら、もう、いい。まだ君を忘れられない僕を、置いて行って構わない。どうか幸せにと思った。そればかりを、願ってやまない。

「ごめんね、おじさんは帰るよ。最後に一つだけ、いいかい?」

 僕はしゃがみ込み、少女と視線を合わせた。彼女は扉にしがみつきながら、小さく頷く。

「もう、寂しくは、ないかい?」

 少女は、僕の言葉の意味を分かりかねているようだった。不思議そうに首を傾げる姿に、僕は少し笑って「ごめんね」と言った。

「さようなら、海月」

 僕は立ち上がり、踵を返す。

 頬を撫でていた風が凪いだ。顔を上げると、目前に海が広がっていた。僕はその最果てを見据える。今日で、父の遺品整理は片付きそうだった。全て終わったら、あの家はもう売ってしまおう。もうこの町に帰ってくる必要はない。そして今住んでいる部屋からも引っ越してしまおう。そう思った。

 仕方のないことばかりだ。取り返しはひとつだってつかない。それでも、海月が幸せになれるなら、僕は全部抱えたまま自分で泳ぐことにしよう。

 カモメの鳴く声が聞こえた。耳の奥で海鳴りが響く。その、一瞬の隙に、


――寂しいよ。


 まるでさざ波のような、小さな声が聞こえた、ような気がした。

 僕は振り返る。しかし視線の先にはもう、誰の姿も見えなかった。


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浮遊する最果て 村谷由香里 @lucas0411

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