第11話

 海が見たいと彼女は言った。僕は彼女を車に乗せて、あの展望台まで向かった。階段を照らす街灯に走光性で虫が集まっていた。熱を放つ強い光に、羽虫たちは何度も向かっていってはよろめき、また向かっていく。

「わたしが二つに分かれた時、もうひとりのわたしは泣きながら、またひとつに戻りたいって言ったの」

 彼女は独り言のように、そう言った。俯いたまま、階段だけを見ていた。

「きっとこんなのは何かの間違いで、ある朝目覚めたらわたしたちはまたひとつに戻っているって。こんな足りない気持ちも寂しさも消えて、わたしたちはひとつに戻るんだって、そう言っていた。交わることのない身体を、何度も重ねてみたりもした。でも、そんな日々も長くは続かなかった」

 海月はゆっくりと顔を上げた。僕の方を見ることはなく、ただまっすぐに頂上を見据えていた。その横顔は確かに父に似ていた。

「彼女は、あなたのおじいさんと恋に落ちたの。彼女はもう、寂しそうじゃなかった。満ち足りていた。ああ、わたしたちはもう別物なんだって、その時に思った。彼女は変わってしまって、わたしは変われなくて、もう二度ともとには戻らない。そう思った。わたしを置いていきたくないって彼女は泣いたわ。ひとりにしたくないって、わたしを愛しているって言ったわ。でもそんなの、何の意味もなかった。だから、そんな軽率なこと言わないでって、わたしは彼女を突き放した。彼女は振り返らずに、彼のところへ帰って行って、二度とわたしのもとを訪れなかった」

 最後の階段を登り切る。彼女の黒い髪が風にそよいだ。目の前には真っ暗な空と、真っ暗な海が広がっている。その境目は曖昧だ。上も下も吸い込まれるような、終わりのない深い黒だった。

「そのうち彼女は愛する人の子どもを産んで死んでしまった。完全に欠けたわたしは寂しさを埋めるように、誰かの腕に抱かれようとした。けれど全然駄目だった。他人に対して何の興味も沸かなかった。満ち足りたことなんて一度もなくて、いつも冷めた気持ちだった」

 彼女は手すりに向かって歩いて行く。たゆたうような足取りは、深く潜っていくようにも見えた。手すりにもたれかかり、彼女は僕を振り返った。

「わたしは、やっぱりわたしのカタワレに会いたかったの。都合のいい話でしょう。最後に突き放したのはわたしだったのに。それでも、わたしの心をどうしようもなく揺らすのは、あの日別れた彼女だけだった。もう彼女は何処にもいなかったけれど、彼女が残したわたしたちの血は、この世界に残っていた。それが一海だった」

 街灯に照らされた彼女の青白い顔は、何の感情も浮かべていないように見えた。

「会えば満たされた気がした。身体を重ねれば、戻れるような気がしていた。でも、そんなのは幻想で、何の意味もなかった。どうせ彼もわたしを置いて行ってしまう。そう思ったら、とても彼を愛すことなんてできなかった。わたしだけ変われないまま、ひとり残されるんだって、そのことばかりが思い浮かんだ。愛していると言われるたびに苦しかった。だからもう、突き放そうと思った。手紙を読んだ一海は、やっぱり二度とわたしのもとを訪ねなかった。それで良かった。それなのに――」

 彼女の顔が泣きそうに歪んだ。

「どうしても寂しかった。誰もいない場所で、流されることしかできないことが、途方もなく怖かった。つらかった。だから、あなたに会いに来たのよ、千歳。でも、同じ過ちばかり繰り返して、わたしはやっぱりあなたを愛すことはできなかった」

 彼女は言葉を切った。僕は彼女の目を見た。「愛してよ」と笑って言った。

「僕は君のことを愛しているよ」

「できないわ。わたしは欠けたまま、変われないまま、見送り続けなければいけないの」

「僕は君を置いていったりしない」

「死んでいくくせに」

「それでも僕は――いや、みんな、君をひとりになんてしたくなかったよ。愛していたよ。それは何も変わらない」

「そんなのもう、何の意味もない!」

 悲鳴を上げるように彼女は言う。僕は口を開き、すぐに閉じた。僕に言えることなんてもう何もなかった。

 どうしてこんな風になってしまったのだろう。どうして彼女だけ。その問いに答えるものは、何処にもいない。全て、流されるように受け止めるしかない。仕方がなかったと、思う以外にできることがないのだ。

「寂しい」

 揺らぐ声で彼女は言う。寂しい、と何度も呟く。僕は、一歩足を踏み出した。何が正解なのかなんてわからない。意味なんてないのかもしれない。それでも僕は、彼女を置いていきたくない。ひとり残される寂しさは、僕が誰よりも解っている。だから――。

 僕は彼女の柔らかな腕を掴もうと手を伸ばした。その時だった。

「わかっているの」

 彼女がひらりと舞うように手すりを飛び越えた。世界の果てのような遥かな暗闇に、諦めた彼女の笑みが浮かび上がった。軽やかに、浮遊するように。

「変わってしまったのは、わたしの方」

 海月、と僕は彼女の名前を叫んだ。届かない、と思った。

 彼女はそのまま、海底に吸い込まれるように落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます