第10話

 海月の家についた頃には、もう日が翳ろうとしていた。東の空は夕闇に染まって青ざめている。夕日が照らす茜色と宵闇の狭間で、慰めるように明星が光っていた。

 彼女は僕の姿を見て笑った。玄関に灯った生色の光に、海月の白い肌が照らされる。僕は靴を脱ぎ、海月の艶やかな髪に触れた。

「今日はもう、来ないのかと思った」

 彼女は視線を落としそっと僕の手に頬を寄せる。じわりと、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「海月」

 名前を呼ぶと、彼女は潤んだ目をこちらに向けた。ざざ、と耳の奥で海鳴りが騒いだ。僕は手を彼女の背に回し、強く抱きしめる。海月が腕の中で驚いたように身をこわばらせた。

「好きだよ、海月」

「……どうしたの、千歳」

 海月は少し怯えたような目をした。僕は何も言わず、彼女の手を引いて書斎まで行った。通り過ぎた台所には、醤油とみりんの甘辛い香りが漂っている。彼女は僕のために夕食を準備してくれていたのだろうし、きっと昼食も準備してくれていたのだろう。ごく普通に遅くなったことを詫びて、落ち着いて夕食を摂りながら話をするべきなのかもしれないと一瞬だけ思った。彼女の作ったあたたかい料理で身体を満たしながら。

けれど辛抱ならなかった。空っぽの身体は、ただ彼女のことを求めている。海月は戸惑った表情を浮かべていた。寝室のベッドに、突き飛ばすようにして彼女を寝かせた。千歳、と小さく彼女が僕の名前を呼ぶ。その声はゆらゆらと滲んで、僕は海底に沈む死にかけたクラゲのように身体が重くなるのを感じた。

「全部、知っているんだ」

 僕は自分を落ち着かせるように、ゆっくりと言って彼女の服に手をかけた。水中のような息苦しさの中、自分の鼓動が大きく聞こえた。彼女は少し震えながら、何を、と尋ねる。僕は彼女の白い肌に唇を這わせ、

「父さんに宛てた君の手紙を読んだ」

 そう言った。瞬間、海月の身体がびくりとこわばった。その反応が、全て事実であることを告げていた。海月が起き上がろうとする。それを押さえつけて、僕は彼女に馬乗りになった。

「一海は手紙を捨てなかったの」

「捨てなかった。父さんは最後まで君を愛していた」

 僕の言葉に、海月は顔を歪めた。もうやめて、と彼女は喘ぐように言った。

「やめて、千歳。知られてしまってはもう駄目なの。こんな慰みごとに、これ以上あなたを付き合わせることはできない」

「それでも僕は君を愛している」

 海月は首を振り抵抗しようとする。僕は波のように彼女の身体に被さる。クラゲは自分で泳ぐことのできない生き物だ。流れに身を委ねることしかできない。海月はやめて、と泣きながら、けれど抵抗の力を弱めていった。僕の愛撫を受け入れて声を上げる。僕は彼女の白い肌にいくつも痕をつける。紅色に染まっていく肌が、海底のような宵闇に浮かび上がる。

「お願い、千歳、やめて、くるしい」

 海月は喘ぎ声を上げながら、ずっと泣いていた。僕は彼女の涙を人差し指で掬って舐める。海の味がした。彼女を求めて固まった僕の中心を、海月の中へ沈めていく。このまま二度と浮かび上がることなく、僕が溶けて消えてしまえば良いと思った。

「苦しい」

 海月は言う。僕は奥へ奥へと入り込んでいった。最奥を突くと彼女が悲鳴を上げた。悲痛な声が僕の中に響いた。そのたびにどうしようもなく寂しくなった。満たされなかった。突き破るように、彼女の中で僕は暴れた。僕らはもともと一つで、彼女は間違いなく僕のカタワレだった。それを求める気持ちが愛なのだと言う。愛している。愛しているのに何故、こんなに虚しいのだ。海月はそのうちぐったりとなって、深く深く沈むように目を閉じた。

 その紅色の唇が、微かに震えた。

「……愛せないの」

 掠れた声で海月は言う。言葉は冷たく固まって、僕らの間に転がった。

「わたしは、あなたを愛せない」

 すっと、胸の奥が冷えるようだった。僕は動くのを止める。海月が目を開けた。彼女の海の一部が、両目から零れる。

「応えられないのよ、千歳」

 冷たい、乾いた声だった。僕は急に陸地に打ち上げられたように、彼女の中から自分を引き抜いた。彼女の海に包まれていた僕は、拒絶されたようにうなだれていた。


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