第9話

 僕は常盤家の墓前に立っている。手紙を握りしめたまま、気づけばここまで来ていた。初秋の空気はやけに澄んでいて、カモメが遠くで酷く寂しそうに鳴いている。

 微かに震える手で、僕は墓石に掘られた名前をなぞった。一番新しい父の名前、その隣に祖父の名前、そしてその隣に、五十年以上前に亡くなった、祖母の名前が、「常盤みつ」の名前が、掘られていた。ああ、と僕は声を上げた。膝をつく。

――この手紙に書いてあることが、全て真実ならば。

 僕は祖父のスケッチブックを思い出した。そこに描かれていた、海月と同じ顔をした女性の姿が脳裏に映し出される。

 僕の祖母。

 あの日の不安と戸惑いと躊躇いは今、僕の手の中で確かな形となっていた。僕はやはり、祖母を抱いていたのだ。

 それは、厳密には違うということも理解はしていた。祖父が愛した祖母と、紅野海月は元が同じであったというだけだ。しかし僕にとっては同じだった。僕の身体には、彼女の血が流れている。それは抗いようのない事実だ。

 立ち上がれなかった。背徳感と罪悪感が、重みとなってのしかかっているようだった。取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。僕は祖父のことを思う。彼の描いた海を、彼が死ぬまで祖母を愛し続けていたことを思う。寂しさと向き合い、いつまでも届かぬ思いを語りかけ、僕と祖母を会わせたかったと笑った。

「会っていたよ。僕は、」

 あなたが抱いた身体を、抱いたんだよ、おじいちゃん。震える言葉は、声にならなかった。祖父のことを、酷い形で裏切ってしまった。そう思った。

 そして僕は、父のことを思う。

 父さん、あなたは何を考えていたんだ――。

 僕は墓にすがりつくようにして、問う。振り返らない母。「すまない」と目を伏せる父。その間に海月がいたなんて。父は自らの母と同じ身体を抱き、そして家庭を失った。どうしてそんなことになってしまったんだ、と僕は問う。

 父に聞きたいことは山ほどあった。何故海月を抱いたのか。何故、母より海月を選んだのか。海月の手紙を読んで何を思ったのか。何故、裂いて捨ててくれと言われた手紙を大切に、あんなに大切に持っていたのか。

 展望台の頂上を見据えて、父さんは、

「――いったい何を、見ていたんだ」

 悲鳴のような声が漏れた。何も答えぬまま父はいなくなった。僕を一人残して。

 静かに佇む墓石の影と、頽れるように膝をついた僕の影がわずかに伸びていた。供えられた白百合が傾き始めた光を浴びている。僕は、そっと手を開いた。くしゃくしゃになった便せんを広げる。濃やかな青いインク。流れるような文字。僕はゆっくりと瞬きをする。海月の姿は、思い出そうとしなくてもすぐに像を結ぶ。はにかむような笑みも、寂しげな瞳も、僕にすがる冷たい指先も。

 海月の浮かべる表情が、仕草が、その体温が、匂いが、僕の中に満ちている。

 あの日、彼女は僕を待っていたのだろうか。あの展望台で、自分のカタワレと同じ血が流れる僕のことを、待っていたのだろうか。

 そうだったらいいと、僕は、思ってしまう。

 祖父に慚愧し、父を咎めながら、それでも僕は、海月のことを責めようとは思わない。思えない。彼女の寂しさを、僕は知っている。そう思っているからだ。置いて行かれる悲しみを、寄る辺のない不安を。届かない寂しさを、僕はよく知っている。

 そして僕は、海月のことを――。

――いずれ、千歳にもわかる日が来るよ。

 いつかの父の言葉が反芻するように響く。僕は顔を上げた。

 父が僕に向けた、あの慈しむような視線を思い出す。そうだったのかと、全てを諒解する。彼は僕の中に、僕に流れる血の中に、彼女の影を探していたのだ。父が海月の手紙を、捨てられるわけがなかった。母のものを全て処分しても海月からの最後の手紙だけは捨てられなかった。なぜなら父は、全てを知らされても、海月を、愛していたのだ。

 墓石に目を向ける。白百合の花が、海風に揺れた。


 柔らかな秋の風は、変わらず潮の匂いがする。僕は振り返り、先に広がる海を眺めた。さざめく水平線。限りなく空に近い場所で、決してその高みの青と一つになれない海はいつまでも泣くように震えている。海底から響く届かない悲鳴のように、海鳴りは狂おしく響く。

 海月と身体を重ねた時、いつも自分が一つに還っていくような感覚があった。そして近づけば近づくだけ、二度と、ひとつには戻れないのだと痛感した。浮遊する最果てで、分かれていくふたりの海月を幻視した。

 そして僕は今、初めて、去って行く彼女のことを思っている。鉛筆で描かれた青い彼女を。

 僕の中で結ばれたイメージの中で、去りゆく彼女はもう、毅然と歩いてなどいない。唇を噛みしめ、涙を堪えている。去って行く彼女の、声にならなかった叫びが僕の中に響く。

 何処へも行きたくなかった。

 置いていきたくなかった。

 ひとりにしたくなかった。

 海月と離れたくなどなかったはずだ。父も、きっと祖母も。切り離された半身もまた、残った半身を求めていたのだ。受け継がれた血は僕まで流れている。

 僕は立ち上がり、踵を返した。一度だけ墓石を振り返る。祖母と父は最期の瞬間、海月のことを思い出したのではないだろうかと思った。

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