第8話

 封筒の糊は乾き切っていて、いとも簡単にその口を開く。僕は震える手で便せんを取り出した。深海を思わせる濃い青のインクで書かれた、流れるような文字が並んでいる。


――常盤一海様


 ご無沙汰しています。お変わりはないでしょうか。先日はお手紙をありがとう。返事が遅くなってしまってごめんなさい。

 どんな風にこの手紙を書き始めたら良いのか、悩んでいました。今も、悩みながら書いています。一海に、謝らなければならないことが、たくさんあります。


 まず奥さんとの離婚のこと、本当に、申し訳なく思っています。わたしに罪はないとあなたはおっしゃるけれど、そんなことは断じてありません。わたしが現れなければ、あなたは平穏な日常を過ごしていたことでしょう。あなたの小さな息子さん(千歳くん、だったでしょうか)も、お母さんを失うことはなかったでしょう。

 全て、わたしのせいなのです。

 それでもわたしは、あなたの申し出を受けることはできません。わたしのことを思って、一緒に暮らそうと言ってもらえたことは、とても感謝しています。

 それなのに、本当に、ごめんなさい。

 きっと一海は何故と尋ねるでしょう。


 一海は、ベニクラゲというクラゲを、知っているでしょうか。

 何度も若返り、死を迎えることがない生き物です。死なないベニクラゲが失うものはひとつだけ。最初の若返りで、彼らは生殖器官を切り離すと言います。

 わたしは、ベニクラゲでした。

 これは比喩でも何でもない、単なる事実です。わたしは、五十四年前、一人の女として生まれました。誰もがそうであるように、そのまま生きていくのだと思っていました。

 けれど二十二になった時、わたしは前触れもなく、ふたりの女に分かれました。わたしは何度も若返る不死の身体となり、生殖器官を失いました。もうひとりのわたしは、短い命と生殖器官を持ったまま、わたしから離れていきました。

 もうひとりのわたしは、愛する人を見つけ、その人の子どもを産み、そして間もなく亡くなりました。わたしは半身を失い、たったひとりで、まっさらな若い身体に戻りました。二十二歳だったわたしは、十二歳ほどの少女に戻っていました。この世界に、たったひとりで残された気持ちになりました。いいえ、わたしはひとりですらありませんでした。このまま、欠けた身体で何度も時を繰り返さなければならないと思うと涙が出ました。切り離されたのは、彼女ではなくわたしの方だったのです。

 クラゲは、自分では泳ぐことができません。

 その寄る辺のなさが寂しいのです。どうしようもなく不安なのです。

 だから、わたしは自分の半身を探し求めました。一瞬だっていいから、もう一度ひとつの身体に戻りたいと思いました。そしてわたしは、あなたを探し出したのです。あなたが初めて展望台でわたしを見つけた日、わたしは、あなたを待っていました。わたしの血が流れる、わたしの半身の血を受け継ぐ、あなたにどうしても会いたかった。

 本当に、ごめんなさい。

 あなたはわたしの顔を見て、幼い頃に亡くなった母に似ていると言いました。それは、偶然でも何でもなく、ただの事実だったのです。

 最初の若返りの後、わたしはもともとの名前を捨て紅野海月と名乗り始めました。わたしの本当の名前は、常盤みつと言います。


 あなたの、お母さんの名前です。


 これが、今まで黙っていた全てのことです。

 そして、あなたの申し出が受けられない理由です。

 今までたくさんの愛情と慈しみと気遣いをありがとう。全てを裏切り、あなたの人生を壊してしまったこと、何度謝っても許してもらえないことはわかっています。

 けれどどうか、忘れてください。この手紙も、裂いて捨ててください。

 さようなら。どうかお元気で。


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