第7話

 昼過ぎに、海月の家に向かった。彼女はにこやかに僕を迎え入れ、用意してくれていた昼食を客室に並べた。手巻き寿司と吸い物だった。彼女と共に食事をしながら、他愛もない話をする。彼女ははにかむように笑い、僕の名を何度も呼んだ。

 僕はきちんと笑えていたのか、あまり自信がなかった。彼女が作った上等な手巻き寿司の味も、吸い物の温度も、曖昧なまま食事は続く。

 祖父のスケッチブック。あの祖母の絵が頭に巣くって離れない。海月を見る度に祖母の絵が重なって見える。

「どうしたの? 具合でも悪い?」

 ふと海月が不安げに僕の顔を覗き込んだ。僕は微笑み、

「そんなことはないよ。朝が早かったから」

 そう応えた。少し視線が泳ぎ、視界の端に海が映った。何処までも続く青。遙かな水平線。祖父の寂寥を表す景色であり、僕が海月を思うときに必ず付随する景色でもある、海。

「千歳」

 海月が僕の名前を呼ぶ。潤んだ黒い瞳に、僕の顔が映る。彼女の瞳の中で、僕は頷いた。


 溺れるように、彼女に口づけをした。潮の匂いを感じ、その深みに触れる。そして自分の一部を、僕は彼女の中に沈めていく。深く深く彼女の中へ潜った。行き止まっては突き、行き止まっては強く突いた。その終わりを責めるように。浮遊する感覚に襲われる。寄る辺のない不安。寂しい、と、僕は思う。

 弓なりにしなる彼女の身体を抱きながら、僕はまた、あの白昼夢を見ていた。頭の中で同じ顔のふたりが別れていく。やがて毅然として去っていく彼女の、その色彩がどんどん失われていった。形を持っていた彼女はいつしか青い鉛筆で描かれた線画となり、ゆっくりこちらを振り返った。

 祖父の、絵だ。

 はっと目を開け、僕は荒い呼吸を繰り返す海月を見た。はにかむような笑顔を僕に向ける。呼吸がままならない。波にのまれるように、僕のを全身を背徳感が包んだ。まるで、祖母を抱いているようだと。

 色つきの窓ガラスに光が射す。視界は一面の青だった。祖父の寂寥の、その色。

「海月――」

 僕は彼女の名前を呼ぶ。彼女は「なに」と滲んだ声で応えた。

「何でも、ない」

 首を振り、彼女の冷たい頬に触れた。祖父の絵のことを、話そうとは思えなかった。不安に形を与えてはいけない。そう思い、僕はもう一度目を閉じる。腰の動きを速めた。

 いつかの海で、祖父が右手を浸していたあの情景が蘇る。僕の手を揺らした波の感触を追想する。そして、祖父が眩しそうに笑って絵筆を取ったことを。

 その手が、描いた形を。波間に漂うクラゲの姿を――。

――おまえは、ずっとここにいるんだよな。

 鮮明に思い出した。酷い戸惑いと躊躇いが荒れ狂う波のように僕を浚う。

 それでもこらえきれず、僕は海月の中に、放った。


    *


 僕は両親の離婚の理由を知らない。

 母はそれを語らずに家から出て行ってしまったし、その後再会した時も、彼女は父の話題を一切出さなかった。幼い僕は父に何度も母がいなくなった理由を尋ねたが、父は目を伏せて「すまない」と言うばかりで、何も語ってはくれなかった。

 母と別れてから、父は新たな女性関係を持とうとしなかった。再婚を考えてもいいのではないかと何度か勧めたが、父は静かに笑って首を振るだけだった。

「いずれ、千歳にもわかる日が来るよ」

 それ以上、彼も僕も何も言わなかった。

 もしかしたら、父はまだ母に未練を持っているのではないか。僕はそんな風に思った。ふたりの道は分かれてしまったが、一時は確かに愛しあったふたりだ。

 しかし、父の身辺整理をしていくにつれ、僕の予想は外れていたことを知った。父の持ち物には、母に関係するものは一切残っていなかったのだ。結婚指輪も、ふたりの写真も一枚もない。僕が生まれてからのアルバムも、母が写っている写真だけ抜き取られていた。

もしかしたら、父がまとめて母に送ったのかもしれない。しかし、親子三人で撮った写真さえ一枚も残っていないのは、何だか異様なことのように思えた。母が父に送った、綺麗な緑色のネクタイも箪笥から消えていた。きっとそれだけではないのだろう。父はいつの間にか、母に関するものを全て排除していた。

 父は、母に一滴ほどの未練も残していない。

その事実は僕にとって安心すべきことであった。それは間違いない。しかし、それ以上に虚しい思いをしていた。ふたりがお互いの関係を無に還そうとするほど、ふたりの間に生まれた僕の存在が浮いてしまうような気がしたのだ。

 僕は息を吐く。考えたってどうしようもないことだ。男女の関係の呆気なさは、僕だってよく知っていた。


父は、母がいなくなってから一層僕に優しかった。母を失った幼い子どもへの憐れみと罪悪感もあっただろうが、純粋な愛情も確かにあった。僕は時折父が向けてくれたあの慈しむような目を忘れることができない。

 父の身辺整理は、彼の死から数ヶ月経っても思ったように進まなかった。僕が懐かしさに浸ってしまうことと、海月の家を訪ねる時間が長くなっていることが原因だった。僕はアルバムを閉じて、掛け時計に目をやった。そろそろ昼時だった。彼女が昼食の支度をしてくれているだろうと思った。僕は手に持っていたアルバムを押入れの段ボールの中に戻す。

 その時だった。

 ふと、段ボールの脇に、小さな箱を見とめた。隠されるように置かれていて、今まで全く気づかなかった。古いお菓子の箱だった。僕はそれを取り出す。静寂に満ちた部屋に、時計の秒針の音と、遠い海鳴りだけが聞こえる。箱の埃を払い、ふたの縁に手をかけ、ゆっくりと開けた。かぱ、と微かに鳴った。

 そこにあったのは、一通の手紙だった。それを大切に隔離するためにこの箱は存在していた。青い洋封筒には、この家の住所と「常盤一海様」と宛名が書かれていた。常盤一海は父の名前だ。切手の消印は十六年前。ちょうど、父と母が離婚した頃だった。

 自分の心音が、やけに大きく聞こえた。何か予感めいたものがあった。嫌な予感だった。封筒を取る右手が、微かに震えている。僕は封筒を裏返した。

 その瞬間、時間が止まったような気がした。息を飲み、目を見開く。

――紅野海月

 差出人の名は、そう書かれていた。

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