第6話
彼女と身体を重ねる時、僕は遣る瀬ないほどの寂寥を感じながら、同じ白昼夢を見た。それは短い映画のようだった。悲劇だ。疑う余地もなく。
そこには海月と同じ顔をしたひとりの女性がいる。大切に育てられた彼女は、大人になった時、まるで呪いにでもかかったように二つの身体に分かれる。一方は短い命の代わりに子を成す機能を持ち、他方はその機能と引き替えに若返りを繰り返す命を受け取る。老いて死にゆく彼女は、やがて恋に落ちて恋人のもとへ向かい、永遠の生を受けた彼女は、一人残される。
不思議で理不尽な物語だった。彼女は二つに分かれることなど望んでなどいなかったし、死ねない彼女は行って欲しくないと思っていた。それでも死んでゆく彼女は恋人のもとへ行くのだ。死ねない彼女をひとり置いて。
彼女は、別段罰を受けるようなことはしていないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。思い浮かぶ言葉は「仕方がなかった」と、ただそれだけだった。それは決められていたことで、流されるように受け止めることしか彼女にはできなかっただろう。悲しみも寂しさも、誰のせいにもできない。
僕も同じだ。遠ざかる背中を見ながら、いつも思う。仕方がなかったのだ。
もう、何度繰り返したかわからない。
彼女を彼女と証明するものは、彼女の中に残る記憶だけだった。彼女だった塊は見る見るうちに溶けて種になる。根を張り、茎を伸ばし、茎の先には花が咲く。頭をもたげた、大きな百合の花だ。純白の花から滴が落ちるように、彼女は少女に還っていく。いつかの傷跡も跡形もない。その身体は、何も知らない。それでも彼女は、覚えているのだ。そこに傷があったこと。悲しい傷があったこと。老いて死ぬことを選んだ、自分と同じ顔をした女がいたこと。二度と声も届かない、遠いカタワレ。
記憶の中で遠ざかる背中を見送り、少女は小さく「寂しいよ」と、呟いていた。涙ばかりが落ちる。
彼女は何も終われないまま、何も忘れられないまま、ここにひとりで居続ける。
窓から光が射す。青く染まる視界。
「君と身体を重ねている間、不思議な夢を見る」
僕はベッドに横たわったまま、隣でうずくまる海月に言った。彼女は顔を上げ、
「どんな?」
と微かに笑った。僕は、
「君が出てくるんだ」
そう言って、僕は見ていた白昼夢の内容を話して聞かせる。海月の、水のように冷たく柔らかな指が僕の指に触れた。
「ベニクラゲみたいね」
「ベニクラゲ?」
「そう。死なないクラゲがいるのよ」
彼女の唇が、小さく震えた。ベニクラゲ。紅海月。
「君の名前だね」
僕は言う。彼女の黒目がちな瞳が僕をとらえた。そこには、僕の顔が映し出されている。深い海の底にいるように見える。二つの目をそっと閉じ、
「そうよ」
静かな声で応えて、彼女は僕の胸に頭を預けた。彼女を抱く。温度の消えた素肌。重さはほとんど感じられない。
酷く寂しい、と僕は思った。
寂しさは、浮遊に似ている。何処にも寄る辺がない。支えがない。手を伸ばしても何にも、誰にも届かない。上下左右の感覚を失う。不安と諦めの中、流れに身を任せる以外にできることはなかった。
「ねえ……人間は昔、今とは別の姿をしていたのよ」
海月は顔を上げてそう言った。僕の頬をそっと撫で、続ける。
「かつて人間には、頭が二つ、手足が四本あってね、彼らは強大な力を持っていたの。やがて人間の力を恐れた神様は、人間を真っ二つに裂いてしまった。それ以来人間は、自分のカタワレを探し続けているの。もうひとりの自分に会った時、芽生える感情が愛なんだって」
古代ギリシアの哲学者の愛の概念だ。そう言うと、海月は微笑んで頷く。
「わたしのカタワレは、もう、何処にもいないの」
微笑みは、苦しげに歪んだ。僕は彼女をもう一度抱きしめる。彼女の柔らかな髪を、何度も撫でた。
「残された君は、寂しいんだね」
少し掠れた僕の声に、そうね、と海月は頷く。
「死んでしまえたらいいのにと、思うこともあるわ」
ほどけて消えてしまいそうな笑みだった。僕はここにいるのに。そう言えば彼女はどんな顔をするだろうか。寄る辺ない浮遊は終わるだろか。僕は、君をカタワレだと思っているよ――そう言いかけた僕の口を、海月の唇が塞いだ。何度も僕に口づけをする。僕は彼女の肌に指を滑らせる海月が小さく声を漏らした。僕は身体を起こし、深く沈み込むように、再び海月の身体に被さった。
3.
父の家には、父の遺品だけではなく、祖父の遺品も多く残されている。
僕が持つ祖父の記憶はとても少ない。彼が亡くなってもう二十年以上経つのだ。覚えていることと言えば、海辺で絵を描く彼の背中と、眩しそうな笑みと、青い絵の具の色だけだった。
押し入れの中に、そのスケッチブックが大切に保管されているのを見つけた。数十冊にわたる、彼が生きていた記録だった。
僕は懐かしい気持ちになってそれを手に取り、一ページずつめくっていった。紙は古くなって変色していたが、祖父の描いた青い海はあの頃のまま残っていた。どのページにも必ず海がある。
――彼女はここからきたんだ。だからきっと、ここに帰ってきている。
祖父の言葉を思い返す。祖父は海を描くことで、祖母の不在と向き合ってきたのかもしれない。一人残されてからずっと。果てしなく遠い場所へ語りかけるように、何十年も。
ここに残った青色は、祖父の寂しさそのものだ。
見知らぬ祖母のことを考えてみようとする。祖父の愛した人。父の母。優しい人だっただろうか。美しい人だっただろうか。いくら思いを巡らせてみても、僕の頭を埋め尽くすのは揺らぐ波と、水平線と、潮の匂いだけだ。
渺茫と広がる遙かな海。そればかりが、祖母のイメージと結びつく。
海鳴り。一面の青。
目をこらせば、遠くにたゆたうような後ろ姿が浮かんで見えるような気がした。あれはきっと祖母の後ろ姿だ。そう思って、彼女に手を伸ばす。
彼女がこちらを振り返ろうとしたところで、僕は我に返った。海鳴りは遠のき、蝉の鳴き声が近くなる。僕はゆっくり瞬きをして、スケッチブックを見やる。気付けば残り一冊になっていた。最後のスケッチブックは今まで見てきたものより古く、くたびれて見える。その、乾いたページを開いた、瞬間。僕は、大きく目を見開いた。
――何故。
小さく、声が漏れた。
そこにあったのは海ではなく、青い鉛筆だけで描かれた女性の素描だった。
彼女はこちらを振り返り、はにかむような笑みを浮かべている。
緩やかに流れるウェーブがかった髪。
あどけなさの残る黒目がちな瞳。
折れそうなほど細い手足。
形の良い薄い唇。
祖父が愛した、
祖母の、
「海月」
僕の口からは、彼女の名前が零れた。
そこに描かれた祖母の絵は、紅野海月に酷似していた。
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