夏の終わりに、二輪の花は

@yu__ss

夏の終わりに、二輪の花は

 北陸新幹線の「はくたか」が軽井沢を過ぎた辺りから、小宮山こみやま都子みやこは少しずつ緊張感が高まり、落ち着かなくなっていた。喉の渇きを覚え、先ほど車内販売で買ったペットボトルの緑茶に口をつける。車内はクーラーが効いているが、もともと大して冷えていなかったお茶は、もうだいぶ温くなっていた。

 窓の外に目を向ければ、強烈な夏の日差しを青々とした木々が反射している。車内の電光掲示は、東京が三日連続の真夏日であることを伝えていた。

 都子が故郷に帰るのは約十年ぶりだった。大学進学を機に一人暮らしを始め、なんだかんだと理由をつけては盆も正月も実家に寄り付かないようにしていた。

 理由は、会いたくない人が居るからだった。

 都子はその人物が嫌いなわけではない。

 むしろ好きだった。だから、顔を合わせたくなかった。

 都子は背もたれに体を預け、ふっと息をつく。僅かに窮屈さを覚え、背もたれを少しだけ倒した。軽井沢駅での降客が多く、真後ろにいた乗客もすでにいない。

 体勢が楽になり、都子は目を閉じる。目を閉じ、その人を初めて意識した日のことが自然と思い出された。

 十年前、都子は高校生だった。





 都子の実家は、山の麓の村落にあった。田舎ではあるが、車があればとりあえずは生活には困らない程度には拓けている。豪雪地帯としても有名だが、夏は比較的快適に過ごせるような、そんなのんびりとした田舎で都子は生まれ育った。

 その年の都子は高校三年生、受験生だった。

 やりたいことも、行きたい大学もはっきりと決まってはいなかったが、都子の周囲は受験勉強をはじめていた。自分も何かしなければという焦りから、目標が曖昧なまま受験勉強を始めた。成績を伸ばし、自分の成績で入れる一番偏差値の高い大学に行くのだろうと、そんな風に考えていた。

 それが悪いことには思えなかったが、その分受験勉強は苦しかった。

 目標とする成績がないから、勉強に終わりが見えない。入りたい大学もないから、ご褒美と思えるものも無い。だからといって手を止めて立ち止まるのは、不安に苛まれて出来ない。苦しみながらも、どちらが前かわからないまま進むしかない。そんな状況だった。

 と、今の都子だから冷静に分析できているが、当時の都子はそんな事に気付いてはいなかった。

 自分が苦しんでることに気付かないまま、ただ駆り立てられる不安から逃れるように机に向かっていた。

 そんな中での、夏休みのとある日だった。

 畳敷きの茶の間にて、都子は受験勉強に勤しんでいた。開け放った縁側からは風鈴の音が聞こえ、首振りの扇風機が僅かに涼を運んでいる。

 畳に置かれた座卓に、教科書・ノート・参考書を広げ、数学の公式を頭に入れていた。もはや何の公式だったか、都子には思い出せなかったが。

 その人は隣にいた。

 彼女は本を読んでいた。小さな手で、翻訳されたハードカバーの児童書のページをめくっている。

 名前は佐倉さくらしずか。同じ村落に住む小学生の女の子。細く柔らかい髪が肩のあたりまで伸びており、聡明そうな顔つきで、とても大人しい性格の少女だった。

 都子とは歳が十も離れていたが、閑は都子にかなり懐いていたようで、夏休みは毎日のように小宮山家に遊びにきていた。

 ただ、都子から見ると閑は不思議な少女だった。

 遊びに来たからと言って、一緒に遊ぶことをねだる訳ではないし、騒いだり家の中を探索に行ったりするわけでもない。基本的に都子の横で大人しく本を読んでいるか、あるいは宿題をしている。そして夕方の五時になると、「さようなら」と告げて帰っていく。

 都子からすれば、勉強の邪魔をされないのでありがたかったのだが、何で遊びに来ているんだろうという疑問もあった。一度宿題を教えてあげようかと都子から言ったこともあるが、簡単だからと言ってやんわりと拒否されたこともある。

 その日は夏休みの最終日だった。閑は都子の横で何も言わずに本を読んでおり、特に何もなく五時を迎えた。

「さようなら」と言って立ち上がり、玄関に向かう閑に対して、都子はうんと頷いた後、「最後の日なのに、遊べなくてごめんね」と声をかけた。すると、帰ろうとしていた閑が足を止めて振り向いた。

「…そばにいてあげたいだけなので」

 俯き加減で、閑はそう答えた。ほんの少し、顔が上気していた。閑の言葉の意図を掴み損ねた都子は頭に疑問符を浮かべながら「そっか」と曖昧な返事をした。

 その後、顔を上気させたまま、何か言いたそうにして帰ろうとしない閑。都子が「どうしたの」と声をかけると、彼女の口から意外な言葉が溢れた。

「あの、いつか、私と花火をしてくれますか」

 その言葉は、都子にとって初めて閑の口から聞いた「おねだり」だった。歳相応の可愛らしさと恥じらいが、都子にはとても新鮮だった。

「うん、じゃあいつか」

 こんな普通の小学生みたいなことも言うのかと、都子は驚きながらも了承すると、閑は満足そうに頷いて小走りで小宮山家を後にした。

 新鮮な驚きに包まれ、なぜか都子は嬉しくなりながら再び参考書に向かった。

 向かったのだが、先ほどの彼女の言葉が思い出された。

『…そばにいてあげたいだけなので』

 都子にはその言い回しが妙に引っ掛かった。

「そばにいたい」ではなく「いてあげたい」と閑は言った。

 つまりそれは、閑が都子のそばにいたいのではなく、都子が閑にそばにいて欲しいと思っているかのような意味になる。

 都子は持っていたシャーペンをくるりと回し、もう一度反芻する。

「『閑にそばに居てほしい』と都子が思っている」と、閑は考えているらしい。

 なにか心配させるようなことしただろうかと、都子は考え、閑の胸の内を想像してみるが、検討はつかない。ただ普段は大人しい閑のことだから、とくに理由も無くあんなセリフは出ないだろうと都子は考える。

 閑が都子を心配する理由があるはずで、その理由について考えを巡らせる。が、はたと思考が止まる。

 今の自分にそんな事をしている余裕はあるのだろうかと、都子は手元に目を落とす。当然、開きっぱなしの参考書やノートが置いてある。

 勉強をしなければ。

 覚えなければならない事は山の様にあり、解いておきたい過去問も同様にある。

 誰も代わりにはなれないから、自分が努力するしかない。日々の駆り立てられる様な不安と闘うには、それしか無い。

 そこまで思考が回ったときに、都子は気づいた。

 自分は、もしかして孤独なのだろうか。この努力とか苦しさとかは、誰にも理解されていないのだろうか。都子はそんな事を考えてしまう。

 だが、もう一つ気づくことがあった。

 もしかして、閑は、そんな自分に気づいてくれていた?

 自分ですら気付けずにいた孤独を、閑は癒そうとしてくれていたのだろうか。

『…そばにいてあげたいだけなので』

 彼女の言葉が何度も反芻される。

 都子は得心がいった。閑の言葉の意味を。閑は、都子の心がどこか疲れていたのを機微に感じ取り、その上で何も言わずに寄り添ってくれていたのだと。

 そして、得心がいくのと同時に、強い感情の高揚を覚えた。一度も覚えの無い感情の渦に都子を飲み込まれ、座卓の上にシャーペンを放り出した。そのまま畳の上に仰向けになって倒れると、両手で顔を覆う。周囲には誰も居なかったが、赤面した顔を隠したくなった。

 あの不思議で大人しい少女が、自分のことをこんなに慕ってくれている。そう思うと、都子の心底は暖かな歓喜に包まれたが、それだけでは無かった。

 その高揚感と胸の高鳴りは、都子の人生においては経験した事はなかったが、その感情の名前が恋であることが、都子にはすぐにわかった。

 恋に落ちた、と自覚した。

 それも、小学生の女の子を相手に。

 幸福に包まれていた心は、冷や水を浴びせられ、急激に冷めていくのがわかった。




 ふと、目を開ける。新幹線はトンネルに入っており、窓の外は暗くなっていた。都子の緊張感は先程よりも一層高まっている。

 あの夏の日からは十年の月日が流れていた。

 都子は東京の大学に入り、一人暮らしを始めた。それ以来、一度も実家には戻っていない。当然閑にも会ってはいない。

 都子は当時の想いを、つまりは閑に恋をした事を誰にも言わずに諦めていた。同性の小学生への恋心など、とても誰かに打ち明ける気にならなかったし、閑に伝える気にもなれなかった。「ロリータコンプレックス」「ペドフィリア」などの言葉は、何回もネットで検索した。

 だから、都子はその想いを忘れようとした。二、三年過ぎてしまえば、十年なんてあっという間に流れていった。

 入った大学では気の合う友人達が出来た。必死の就活の末に無事に就職もした。大学の友人とは今でも頻繁に会って会社の愚痴を言い合う。そして長期休暇を合わせて旅行に行ったりもする。

 都子は友人達を信頼していたし、一緒にいれば楽しかった。しかし友人の誰にも、閑のことを話した事はない。恋愛話をする友人達を見ていると、都子は自分が背教者である事を自覚してしまうのが辛かった。

 閑の事は誰にも話す気は無かったし、もう二度と会わないつもりだった。

 都子に心境の変化があったのは少し前。母と電話で話す機会があった。その時に、偶然にも閑が受験生であることを聞いた。

 それを聞いた時、都子の内に十年前のお礼がしたいという思いが湧いた。

 都子が受験生だった時に、閑が寄り添ってくれた。その事は心から感謝している。好きだった事は打ち明けられなくても、感謝の気持ちを伝えたいとの想いから、都子は今、実家に向かう新幹線に乗っている。

 間も無くすると新幹線はトンネルを抜けた。

 窓から見える眼下には、上田盆地が広がっていた。




 父母と一通りの挨拶を済ませると、積もる話もそこそこに母は夕飯の買い出しに出かけて行った。残された父と二人、十年前とあまり変わらない茶の間で、特に会話もなくゆったりと流れる時間を過ごしていた。

 開け放たれた午後四時の縁側からは風鈴の音が聞こえ、十年前と同じ扇風機は温い風を運んでいた。油蝉の鳴き声も、心地よいほどの風通しも、変わってはいない。大きな変化といえば、部屋の隅に置いてあるテレビ

 だろうか。十年前はやたら大きなブラウン管テレビだったが、今はやたら大きな液晶テレビに変わっている。

 その液晶テレビは、現在は金属バットの音と歓声、全力でプレーする高校生達の様子を放映している。十年前よりも老けた都子の父は目を離さずに見ていたが、都子は見るともなく見ていた。

 閑に会いに行かねば、と都子は考えていたが、なんと言って会いに行けば良いかわからなかった。ふらりと訪ね十年前のお礼を言うのは、都子にとってかなり勇気のいる行為だった。

 もし忘れられていたら、とか、そんなことを考えると、おいそれとは会いには行けなかった。

 なんのために帰ってきたのだろうかと、都子は自嘲気味にため息をついた。

 そんな折に、玄関から声が聞こえた。

「小宮山さん」

 落ち着いた、低く落ち着いた声。都子はその声を聞いた瞬間、心が早鐘を打つ心地がした。都子が立ち上がり玄関との襖を開けると、そこには黒髪で丸い眼鏡をかけた、ラフな衣服の美しい少女が立っていた。

 その少女は都子を見ると驚いたような表情を一瞬だけ作ったが、すぐに平静な表情となる。

「お、久しぶりだね」

 後ろから顔を出した都子の父が、玄関に立つ少女に声をかけた。

「お久しぶりです、今日は村会だと父が申しておりましたが」

 少女の声は極めて冷静で、平坦で抑揚の無い音声だった。

「お、忘れてた」

 都子の父はいそいそと立ち上がると、「ちょっと行ってくる」と都子に言い置いて、少女の横でサンダルを履いて出て行ってしまった。

 後には、都子の少女の二人が残されていた。唐突の出来事に、都子は愛想笑いもできず固まってしまっていた。

「お久しぶりです」

 先に声をかけたのは少女ほうだ。先ほどと変わらない、とても冷静な声音だった。何だったら十年前ともあまり変わっていないなと都子は感じた。

「うん、えーっと、閑さん、だよね」

「はい、佐倉閑です」

 改めて自己紹介をされたが、都子は当然彼女を覚えていた。

 この目の前の人こそが、今回の帰省の目的であり、十年前に恋をして、諦めたままになっている当人であるのだから、忘れよう筈もない。

 十年前からはあまり変わっていないなと、都子は感じていた。もちろん見た目に関しては十年という月日を感じさせる。大人と判断できる見た目となっているし、今は眼鏡をかけるようになったようだ。

 だが、見た目以外の部分のに関してはあまり変わっていないという印象を都子は受けた。大人しいと感じていた部分は、現在では落ち着いた女性という雰囲気に昇華されていた。不思議で掴み所のないところは当時から変わらず、ミステリアスな魅力を都子は感じた。

 美人になったなぁ、と都子は感心した。

「あがってもいいですか」

 閑の不意の言葉に、都子はピクリと体を震わせてしまう。

「ああ、うん、どうぞ」

 そう応えて、先ほどまで父といた茶の間に通す。

 なぜ閑からあがってもいいかと言い出したのかわからなかったが、十年前の感謝の気持ちを伝える絶好の機会だと都子は感じた。

 振る舞いこそ冷静だったが、都子は自分の右手が震えているのがわかった。唐突に降って湧いた好機への感動や、美しく成長した初恋の相手への緊張など、いくつかの情感が都子の腕を震わせた。

 この手でお茶を淹れられるだろうかと、都子はそんなことを考えた。




 まだ陽の高い茶の間では、扇風機のモーター音がはっきりと聞こえるくらい、二人の間には沈黙が流れていた。

 静かな空間に時折響く風鈴の音は、側からすれば田舎らしい、穏やかで心地良い空間を形成している様に見える。

 しかし都子にとっては、とてもこの状況を楽しめてはいなかった。

「えーっと、十年振りだね」

「ええ、そうですね」

 都子が話しかけ、閑は相槌を打つ。そしてまた、暫しの静謐が訪れる。

「あの、こっちは涼しいよね、向こうではクーラー無しなんて考えられないよ」

「そうですか」

 もう一度同じ様に話しかけた都子と、同じ様に相槌を打つ閑。そして沈黙。ふたりは先程から何度か同じことを繰り返していた。

 都子は何から伝えればいいのかわからず、それでも何か話さなければという焦燥に押され、拡がらない会話を繰り返していた。閑も同じような反応を返すので、十年振りの会話には全く花は咲かなかった。

 都子の帰省の目的は、受験生だった自分が閑に救われたことに対して感謝を伝えたい、ただそれだけだった。

 しかし、いきなりそんなことを言ったら不振がられないだろうかという懸念が拭えず、真意は伝えられずにいた。もし下手な伝え方をしたら、秘めた思いが露呈してしまうかもしれない。

『ロリコンは犯罪者予備軍』。なにかのネット掲示板で見た書き込みを思い出し、心に暗い影を落とす。

 都子が話し始めるのを躊躇っていると、閑の方が口を開ける。

「なぜいまさら帰ってきたのですか?」

 淡々とした口調の中には、どこか責める様なニュアンスを含んでおり、都子は面を食らってしまった。

 都子が戸惑っていると、閑は追い打ちをかける様に続ける。

「この十年間、何をしていたのですか」

 やはり、閑の言葉はどこか都子を責める様な趣きがあった。

 都子は返答に窮しているが、閑は何も言わず、眼鏡の奥の瞳はじっとりと都子を見据えている。

 確かに十年間も音信不通にしたのだが、都子はまさか責められるとは思ってもいなかった。

「あの、ごめんなさい。十年間、とても忙しくて」

 とっさに曖昧なことを言って誤魔化した。

 本当の理由、会ってしまった時にもう一度恋に落ちてしまうのが怖かったなどとは、とても言えなかった。

 もし言ってしまったら閑に気持ち悪がられたり、怖れられたりしないだろうかと考えると、伝えるのが怖かった。

「時間も無いし、帰ってくる理由もなくて…」

「…そうですか」

 都子の言葉に、閑は表情こそ変えなかったが責める様な口調は和らいだ。

 しかし、都子にはむしろ不安が募った。

 都子には、閑の雰囲気の中に諦念や落胆が感じられた。

 閑は何かを期待していたのかもしれない。しかし自身の適当な誤魔化しの返答が閑を不快にさせたらしい、そう都子には感じられた。

 そんなタイミングで「ただいま」と玄関から声が聞こえた。都子の父が帰宅したらしい。

 それを聴き閑は「ああ、ちょうどいいですね」と言って立ち上がった。

 閑は立ち去ろうとしている。

 こんな形で別れたら、もう二度と閑に会えないのではないか。都子の内にあった不安は増大した。

「さようなら」

 十年前、毎日のように聞いた言葉とは明らかに違うと都子は感じ取った。どこか、悲嘆のような感情が滲んでいるきがした。

「待って」

 泣きそうになりながら声をかけると、閑は振り返った。

「…送って行ってもいい?」

 なんと言って引き止めれば良いのかもわからず、それだけ口にした。

「…ええ」

 閑の表情は相変わらず平静と変わらないものだった。

 玄関から上がって来た都子の父は、不思議そうな顔をしていた。




 外気は夏らしくかなりの湿度を感じさせた。あれだけ強かった日差しも、今は厚い雲に覆われている。夕立ちが来そうだと、都子は感じていた。

 閑の家までは徒歩で五分ほどで、都子と閑は並んで歩いていた。

 道中には平屋建ての古い木造家屋がいくつか並んでおり、庭先にはオミナエシの花が咲いている。都子の住んでいた十年前は、家屋と家屋の間に田園が広がる様な風景も見られたが、現在では半分ほどが耕作放棄されていた。

 近くの林からは、ヒグラシのきききという甲高い鳴き声が聞こえた。

「まだ暑いね」

「ええ」

 相変わらず、閑は淡々と返答した。

 ヒグラシの鳴き声に包まれながら、田舎道を並んで歩く二人。

「本当は、お礼が言いたかったの」

 ふと、都子の口から言葉が漏れた。

 それは、先程まで言い出すのが怖かった言葉だが、閑を悲しませたまま、二度と会えないかも知れないということのほうが、都子には恐ろしかった。

 もし閑への想いが伝わってしまったなら、それはそれで構わないと考えるようになっていた。

「十年前にさ、受験生の私は、とても苦しんでいたのだけれど、それをね、しずが癒してくれたんだよ」

 しず、と自然と十年前の愛称が出てきた。

「ありがとうね」

 歩きながら閑の方を向いて、都子は一番伝えたかった言葉を伝えた。閑は変わらず、黙々と前を向いて歩いている。

 そんな閑の反応が少し寂しくもあったが、それでも都子の中は達成感に満ちていた。

 ぽつりと、空から水滴が落ちてきた。

「あ」と、都子が声を漏らしたている間に、瞬く間に雨脚は加速する。粒は大きくなり、雨粒の間隔は狭くなる。

 あっという間に強くなった雨。閑の家までの道程はまだ半分ほど。

 都子がどうしようか迷っていると、閑が都子の手を掴み、何も語らずに駆け出した。

 激しい、それこそバケツをひっくり返したような雨と、時折ごろごろと鳴る雷の中、都子は閑に引かれるまま付き従った。

 そのまま数秒ほど、無言のままで駆け込んだのは、村の寄り合い所となっている保育園の跡地だった。

 そこは保育園の建物はそのまま、現在は村の寄り合い所として利用されている。昔は保育園として機能していたが、都子が年少になる年にはすでに保育園としての役割を終えていたので、都子は数えるほどしか中には入ってことはない。

 現在の用途は、例えば先ほど都子と閑の父が出席していた村会はここで行われていた。他にも、夏は村の小学生たちが「お楽しみ会」と呼ばれる親睦会を開いたり、グラウンドではお年寄りがゲートボールをしたりするのに利用されている。

 都子と閑の二人は玄関先の軒下で、乱れた呼吸を整えた。閑の激しい呼吸と上気した頬、濡れたは黒髪が、都子の瞳には艶やかに映った。

 一度諦め、消えて欲しいと願った気持ちが、再び蘇ってくることを都子は感じていた。私はまだしずが好きなんだ、と握られたままの手を、その先の閑の顔を見ながら都子は痛感した。

 都子の視線に閑が気付くと、都子は自分が閑に見とれていたことに気づき恥じ入るよう視線をそらす。そらした視線の先で、雨はまだ激しく降っている。

「…私はどうすれば良いですか」

 呼吸が整った頃に、閑が中空に放った言葉。

「私が苦しんでいるときは、誰か助けてくれるのでしょうか」

 いつもの平坦な声色ではあったものの、とても儚く響く言葉。閑もまた、過去の自分が苦しんだ立場にあるのだと都子は気付く。

「私に、できることはある?」

 十年前、同じ立場を助けてくれた恩人の力になれないかとかけた言葉だったが、閑は変わらない表情のまま、何も答えることはなかった。

 何か、何かないだろうか、しずの力になれることが何かないだろうかと、都子は考えを巡らせると、十年前の閑の望んだことを思い出した。

「…あの、花火、する?」

 十年前にした約束を、閑はとうに覚えていないだろうと思っていたが、もしかしたら今でも花火が好きかも知れないと思って、都子はそう提案した。

「約束したよね。覚えてないと思うけど…」

 閑は心底から驚いたように都子を見たが、またすぐにいつもの無表情に戻り視線を逸らした。

「…覚えてたんですか」

 閑も当時のことを覚えていたらしいことに、都子は驚き、また歓喜した。

「うん、しずも覚えてたんだ」

 そう言って閑の顔を見るが、閑は視線を逸らしたまま。

「覚えていたのなら、なぜ十年も果たしてくれなかったのですか」

 その淡々とした口調の中には、どんな感情があるのか都子には読み取れなかった。悲哀のようにも感じられたし、はたまた怨嗟のようにも、あるいは羞恥のようにも聞こえた。

「…ごめんなさい」と、それだけを口にした。なぜ、という問いには答えられなかった。

 貴女に恋をしていたから帰れなかったのだと、いっそのこと言ってしまおうかとも思った。先程のように彼女を悲しませ、呆れられ見限られるくらいなら、と。

「あ」

 都子は俯くと、保育園の玄関口の横開きの扉が目に入ったのだが、その扉と扉の間がわずかに開いていることに気付いた。繋いでいた手を離し、取手に手をかけ横に動かすと、からからという音ともに扉は開いていく。

 閑も振り向いて開いた先にある玄関を見つめていた。

「村会の後、鍵をかけ忘れたのでしょう」

 都子が玄関に入ると、カビ臭いにおいが都子の鼻を刺激する。上がり端にはスリッパが乱雑に散らかっていた。

 二人は玄関まで入る。軒下よりは濡れずに済むだろうと考えての行動だった。玄関の先には、薄暗い廊下が続いている。

 ふと、玄関の端に打ち捨てられているものが、都子の目に留まった。

 それは蝋燭の箱、首の長いタイプのガスライター、そして。

「花火だ…」

 恐らく、小学生達のお楽しみ会で残ったと思われる花火の余剰分だった。中でも都子の目に留まったのは、線香花火の束だった。

 都子が閑を見やると、閑もまた都を見ていた。

 夕立ちは、少しずつ弱まっているようだった。




 夕立ちはあがり、西の空に陽が傾いていた。先程まで聞こえなかったヒグラシの鳴き声が、今はまたきききと聞こえて来ている。

 二人はグラウンド側に回り、転がっていたバケツに水を張った。まだ濡れている踏石の上に、ぽたりぽたりと蝋を落として蝋燭を立てた。

 薄暮の中、ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れている。

 蝋燭を挟んで二人でしゃがみ、一本ずつ持った線香花火に火をつけると、程なくして火花が散り始める。その様子を見下ろしながら、都子は決意を固めていた。

「私、十年前からしずが好きなの」

 先ほどの問いに対する答えを、都子は語る。

「しずが好きで、でも諦めるしかなかった。これ以上辛くなるなら、会いたくないと思った」

 だから十年も帰らなかったのだ、と都子は伝えた。

 ぽとりと、閑の線香花火が落ちる。閑の手は震えていることに気づき、都子が顔をあげると、閑はいつもの無表情を崩し泣いていた。

「あ…」

 都子は慌てて声をかけるが、違うんです違うんですと繰り返しながら、閑は首を横に振った。

「嬉しくて…」

 そう言った閑の顔は、今まで見たことないくらい頬が上気し、笑顔で涙を流していた。その顔を見た都子は、十年前に閑に恋をした瞬間と、同じ感情を覚えた。

「私も、ずっと、ずっと好きだったの…」

 その感情に冷や水を浴びせるものは、一つもなかった。

「みやこおねえちゃん…」

 嗚咽まじりの鳴き声で都子を呼び、閑はまっすぐに憧れの人を見つめた。

「だから、ずっと会えなくて、忘れられてるのかと、思って、辛かった」

 そのセリフを聞いて、都子は持っていた花火を落として閑の指先を握った。

「…十年も待たせてごめんね、しず」

「ううん、いいよ、みやこおねえちゃん」

 都子が握った方と反対の手で、静かは自分の涙を拭いながら、笑ってそう答えた。

「…でも、一つだけお願いしていい?」

 可愛らしく小首を傾げ、おねだりをする閑。

「なあに?」

 お姉さんぶって、都子は微笑んだ。

「あの、ね、勉強を頑張るご褒美が欲しい」

「何がいい?」

 自分にできることなら、なんでもしてあげたいと都子は思っていたが。

「大学に合格したら、私も東京に行くから、一緒に住みたい」

 閑は赤面しながら「おねだり」を口にした。少し意外な「おねだり」に、都子は困惑もしたが、答えは決まっている。

「うん、待ってるね」

 年下の彼女と一緒に暮らす来年の春が、待ち遠しくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の終わりに、二輪の花は @yu__ss

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ