第5話 ××は犠牲になりました。

 ◆◇◆

 その夜。人間の軍の野営地にて。

 牧草地に天幕を張り、集団で雑魚寝をしていた兵士は、異変に気がつきました。

 草の露を吸って湿ったペラペラの寝具が、唐突にふかふかのベッドに変わったのです。

 あまりの感触の違いにぎょっと跳ね起きた兵士は、あたりの風景が一変しているのに気がつきました。

 天幕も、仲間の兵士たちも消え、なぜか彼は一人、豪華な部屋にいるのでした。

 まるでお城の、王族の寝室のようです。

 美しいシャンデリアと、天蓋付きの清潔なベッド。キョロキョロしながら、彼はつぶやきました。

「どこだ……ここは?」

「私の部屋」

 急に聞こえた女の子の声と、足を掴まれる感触に兵士は悲鳴を上げました。

「な、何っ?!」

 ふわふわの毛布をめくると、赤い髪の、可愛くて若い娘が、いたずらっ子のように笑って手を振っていました。

 ぽかん、と口を開けた兵士は、次の瞬間、口を閉じられなくなりました。

 身を乗り出した娘に押し倒され、深くキスをされたのです。

 そのとき、幻のように、娘の体が淡く光りました。瞬きするあいだに光は消え、兵士はキョトンとしながらも、ついうっとり娘の感触に身をゆだねておりました。

 ふんわり、石鹸のいい匂いがします。

 娘は、唇を離すと、兵士の体の上に寝そべったまま、照れくさそうに笑いながら言いました。

「お兄さんってば、いけない人。女の子の部屋に忍び込むなんて」

 え、と絶句した後、真っ赤になった兵士はあわてて抗議しました。

「し、忍び込んでなんか」

「そう?」

 ぎゅっと抱きしめられ、兵士はあわわ、と声にならない悲鳴を上げました。柔らかい胸の感触が、直に伝わってきたのです。娘を見下ろした兵士は、今度は悲鳴すら上げられなくなってしまいました。

 娘の着ている服の、大きく空いた襟口から、胸の谷間がはっきりと見えてしまったのです。見ないのが礼儀とわかっていても、視線は縫い付けられたように胸から動きませんでした。

「ふふ。泥棒にしちゃ、お兄さんかっこいいね」

「ど……泥棒なんかじゃ……ないよ……」

 何を言っているんだこの娘は、と思いながらも、兵士はドキドキが止まりません。

 ねえ、と恥ずかしそうに、頬を染めて娘が口を開きました。

「もう一回……キスしていい?」




 ◆◇◆

「すごい……。五万人が、撤退していく」

 水晶玉を覗き込んで、魔王様は喜びの声を上げました。へろへろと、ある者は剣にすがり。ある者は馬の背に寄りかかるように。人間の軍は恐ろしく疲れているようなのに、なぜか表情は幸せに満ちていました。

 ほほほ、と野太い声で笑い、ゴットマザーは胸をそらしました。

「悪魔の本質は誘惑と魅了。一族で五万人、三日三晩搾り尽くしましたわ。戦争する気も起きないくらいにね」

「これも全て、魔王様の犠牲のおかげです」

「お前なぁ!」

 ヴァンパイアににこやかに言われ、魔王様は音を立てて椅子から立ち上がりました。

「あらぁ、失礼しちゃう。悪魔にキスできる機会なんて、実はそうそうないのよぅ」

 唇に手を当て、無駄に可愛いポーズをとるゴットマザーを、うんざりと魔王様は見上げます。

「もう一回、封印しますか」

 はたで見ていたサイクロプスが、苦笑いとともに言いました。ミノタウロスも、悪ノリで唇を指差します。

「でもまた人間が攻めてきたら、キスしなきゃいけないんですよ」

「うぁああああ!」

 真っ青になって身を引くと、魔王様は叫んで部屋を飛び出しました。

 部屋の中では、あたたかい笑い声が続いています。



 こうして、人類は敗北し、魔族は勝利しました。

 誰も死なず。五千人の魔族の兵も、五万人の人間の兵士も、誰も血を流しませんでした。

 流したのは、魔王様の一筋の鼻血。



「くっそー! あいつら、俺の青春を犠牲にしやがって! もう困っても、四天王なんか頼らないぞ。キスだって絶対しない! 次こんなことがあったら、俺ひとりで何とかしてやる!」

 一人で肩をいからせながらバルコニーへ出ると、青空へ向かって魔王様は吠えました。

「見てろ! 四天王を……いや、パパだって超える、最強の魔王になってやる!」

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こーして××は敗北しました。 中梨涼 @ryounakanasi

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