戦友のある夜

湯煙

戦友のある夜

 二月のある日、長男が我が家を出て行った。

 結婚が決まり、新居……と言っても、我が家から電車で二つ隣駅にある安いアパートへ引っ越していった。


 「じゃぁね」と一言残して玄関の扉を閉めていった長男は嬉しそうだった。

 親から小言を言われなくなるのが嬉しいのか、それとも夫婦水入らずで暮らせるのが嬉しいのか……。

 ま、そんな理由を訊こうとも思わないし、晴れ晴れとした笑顔だったからいいか。

 「おまえの部屋は倉庫代わりになるのは覚悟しておけ」と言っておいたが、夫婦仲良く暮らして戻ってくるなよという意味まで感じ取ってくれたかどうか……。


 子供二人のうち一人が独立し、肩が少し軽くなった。我が家から一人減ったからと寂しいわけじゃない。一つ責任を果たせたと安心する気持ちの方が強い。


 家を出るときの長男の笑顔を思い出しながら、もう一人が独立するのはいつになるのかなどと、夕食後、床に胡座を掻いてTVを見ている次男をチラッと見る。


 同棲時代も含め、一緒に暮らしてからもうじき三十五年になる妻も特に感傷的になっている様子もない。先に入ると言って風呂に向かった。

 

 TVを見終えて次男は自室へ戻る。引っ越しの手伝いしたのでちょっと疲れたと言う。

 どうせ勉強などせずに、PCでゲームなり動画なりを見て寝るまでの時間を過ごすのだろう。まぁそれもいい。大学を卒業し就職してくれればそれでいい。自分の人生は自分で決めればいい。

 最近は、会話も減ったなと思いつつ、おやすみとだけ言い次男を見送る。


 次男も家を出たら、そこで親としての義務は務め終えたと安心するのだろう。妻もきっと同じ気持ちでいる。


 風呂から出てきた妻と入れ替わりに風呂へ入る。

 


 風呂から出ると、妻は芸人が司会のクイズ番組を観ながら赤ワインをグラスに注いでいた。お酒はあまり強くない妻で滅多に飲まないのだが、今夜はそんな気分なのだろう。

 妻に触発されて冷蔵庫からビールを出す。プルトップを引き、グラスになど注がずにそのまま口に含む。喉を刺激する快感を味わって、一気に飲み干した。

 

 妻の前を通るとき「深酒にならないようにね」とだけ言い、居間の端に置いた机の前の椅子に座りPCを立ち上げる。

 メールをチェックし、ネットラジオのサイトへ移る。積ん読状態だった本を一冊机の上から探し、ヘッドフォンを着け妻の邪魔にならないようにした。

 だが、オーディオ端子からヘッドフォンのジャックが外れていたようで、ラジオサイトが流している曲が居間に響いた。


 「あ、ごめん」と言って、ジャックを端子に差し込もうとする。


「あら、アース……懐かしいわね」


 スピーカーから聞こえるアース・ウィンド&ファイアーの「Fantasy(邦題:宇宙のファンタジー)」。この曲がリリースされたのは、まだ中学生だった頃。

 だけど高校時代、親の目を盗んで友達と行ったディスコでは一時間に一度は必ず流れていた当時のダンスミュージックでは定番の曲。

 モーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのツインヴォーカル。高音のヴォーカルがとても懐かしい。


 懐かしいとつぶやいた妻がリモコンでTVを消した。どうやらTVより音楽を聴きたいようだ。

 ワイン片手にソファに深く背を預けている。


 ヘッドフォンを外して、机に置かれた本を開く。

 スピーカからは「September」が流れている。


 ――今日はアースの特集かな?


 意識を半分音楽に寄せながら文字を追う。

 映画「さよならジュピター」で失敗した小松左京のこの小説を古本屋で見かけたとき、一度読んだ記憶はあったが内容を覚えていなかった。どんな話だったかなと買った本。

 ちょうどスピーカーから流れている曲の時代に出版された本だと気付く。


 ――今日は七十年代から八十年代に浸る日かな。


 耳を傾けると、マイケル・ジャクソンの「RockWithYou」。


 ――やはりそのようだな。

 

 当時何度も観たMVミュージックビデオで踊るマイケルを思い出し、足でリズムをとる。


「フフフ、ほんと懐かしいわぁ……」


 背後から妻の嬉しそうな声が聞こえる。

 この曲が流行っていた時期、まだ妻とは出会っていない。どんな青春を送っていたのだろうかと想像する。


 そして、この時期付き合っていた女の子を思い出し、今はどこで何をしているのかなと微笑んだ。


 アイリーンキャラの「What a Feeling」、ボーイズタウンギャングの「 Can't take my eyes off you」、バナナラマの「Venus」、ドゥビーブラザースの「Long Train Running」。


 リリースの時系列はランダムだけど、私と一つ年下の妻にとって青春と言える時代の曲が次々と流れる。

 そして、八十年代後半の曲が多く流れるようになって、マイケル・フォーチュナティの「Give Me Up」がかかった。


 ――うわぁ、これは……。


 妻と出会った頃の曲。この曲が流行っていた時期、社会人二年目でまだまだ慣れない仕事に追われていた。

 今まで忘れていたけれど、確か、この曲が入ったCDを妻に送ったはずだ。

 当時の記憶が次々に蘇る。

 初めてデートに誘ったときの緊張。

 そろそろクラブと呼ばれ始めていた、二人で行ったディスコ。

 一緒に旅行した軽井沢、伊豆、京都……。

 同棲を始めて、二人で選んだ家具。


 そしてプロポーズ……。


 多分、当時の曲が流れていなければ思い出さなかった数々の記憶や想い。

 とうに過ぎたことなのに、とても照れくさい。

 

 ふと見ると、妻も目を閉じてゆったりと身体を揺らしている。

 スピーカからはチークタイムに流れた曲へ移っている。


 シャーリーン「It Ain't Easy Comin' Down」、モーリス・ホワイト「I Need You」、ジョージ・ベンソン「Nothing's Gonna Change My Love For You」、リチャード・サンダーソン「Reality」、クール&ザ・ギャング「Cherish」、そして、チャカ・カーン「Through the fire」。


「この曲好きだったわ」


 まだ目を閉じたままの妻がつぶやいた。

 ああ、よく知っている。ラジオや街角で流れると口ずさんでいたよな。


 ヴァネッサ・ウィリアムスの「Save The Best For Last」が流れると、クスッと笑い。


「あなたが大好きだったヴァネッサね」


 そうだ。TVのCMに流れると彼女の美しさに魅入ったものだ。そしてそんな様子を妻はいつもからかっていた。

 クスクスと笑い続ける妻に訊く。


「そんなにおかしかったか?」

「ううん、別のことを思い出したの」

「何を?」


 机を立って妻の横に座る。


「あの頃、あなたが私に約束してくれたことよ」

「どれだ?」


 いろんなことを約束した覚えはあるけれど、一つ一つは覚えていない。

 いや、言われれば思い出す。でもあまり聞きたくない。


 妻の口からあの頃の言葉を聞かずに済むように、


「踊ろうか?」


 そう言って妻の手を引っ張る。


「いい歳して恥ずかしいでしょ」

「二人だけだし、いいじゃないか」


 妻を立たせて腰に手を回す。

 特に抵抗もせず背に手を回すところをみると、妻も嫌ではないようだ。 

 今流れているのは、ディオンヌ・ワーウィック「That's What Friends Are For」。

 身体を寄せて、ゆったりと二人で揺れる。


「これもチークタイムに流れていたけれど、これってずっと友達でいようという曲だよな」

「そうね。チークには合わない内容よね」

「ま、曲さえ良ければ何でも良かったんだけどね」

「失恋や別れの曲でもね」

「そうだな」


 妻の髪に増えた白髪を見つける。息子達を育てていく中、そして二人で苦労して歩んできた証拠。そこに頬を寄せる。


「あら、急にどうしたのかしら? 若かりし頃に気持ちが戻っちゃった?」


 フフフと笑う妻の髪を撫でながら踊る。


「そうかもしれないね」

「じゃあ、……今でも愛してる?」

「うん、もちろん」

「狡い。ちゃんと愛してるって言いなさい」

「もちろん愛していますとも」

「そうやってふざけていると、老後に困るかもよ?」

「ムード壊すねぇ」

「いいのよ、ほら、流れてる曲も変わったでしょ?」


 レジーナ・ベルの「After The Love Has Lost It's Shine」。

 愛が輝きを失ったあとの長さ……か……。

 ムーディなメロディなのに、なかなかシビアな内容の曲。


「若いときのような輝きはなくてもいい。でも愛してると言えなきゃダメね」

「んじゃ失格?」

「育児に明け暮れた戦友としては合格だからいいわ」

「そう、良かった」


 その後曲が終わるまで黙って、妻の温もりを感じながら踊り、離れる間際におでこにチュッとキスをした。


「明日は天気崩れるかもね」


 ワインのせいか、照れているのか、少し頬が赤い妻が微笑んだ。

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戦友のある夜 湯煙 @jackassbark

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