黒猫と手紙

 言ノ葉は全力疾走であの家に向かった。日が落ちて暗くなった森の小道を風の様に駆け抜ける。誰よりも、何よりも疾く。雲一つない暗い闇の空には綺麗な星とお月様が輝いていた。


「雪...勝手に飛び出てってごめん、ただいま」


 そっと入口の襖を開けて一歩家に入ってから言ノ葉はうつむいたままそう言った。明かりが灯っていない家で放たれたその言葉は、開いたままの襖から吹き込む冷たい風に攫われた。


「誰も居ないの?」


 言ノ葉の問いかけに返答はなかった。聞こえてくるのは風の音だけ。雪も、昼間いた医者もいなかった。ビュービューとなる風の音に、言ノ葉はどことなく嫌な予感がした。


「雪? ……雪!」


 言ノ葉は急いで雪の寝床に向かう。言ノ葉が家を飛び出すまで雪がいた場所だ。寝てるだけ。ただ寝てて返事ができないだけ。そう頭で思っていてもどうしても嫌な予感が拭えなかった。


 そして、その嫌な予感は的中した。


 そこに雪はおらず、布団も綺麗に畳まれていた。そして、その近くに一枚の白い紙が落ちていた。


《言ノ葉へ

 お手紙でごめんね。

 家族になってくれたこと、ほんとうにうれしかった。

 だいすきだよ、ありがとう》


 言ノ葉がわかる文字だけで書かれた手紙は雪と一緒に勉強した記憶が思い起こされた。三日かけて覚えた「あ」から「ん」までの五十音に簡単な漢字。それを組み合わせて意味のある文として紡がれたその手紙の意味を汲み取るのは容易で、残酷だった。


 猫は感情で涙を流す事ができない。それでも言ノ葉はたしかに泣いていた。嘘だと叫びたくても、声を押し殺し、心の底から後悔し、自責の念に囚われながらも必死で現実を受け止める言ノ葉の姿はまさに、ヒトだった。


 言ノ葉にも、思考や感情はあり、その全てが今の彼を責める。


(なんであの時逃げ出したの?)


(どうして雪の元に最後までいなかったの?)


(最後の会話ってなんだっけ?)


(最後に顔合わせたのは?)


(誰が悪いの?何が悪かったの?)


 労咳という病気? 僕を連れてきた医者? 黒猫が病を治すといった人? 病気にかかった雪や雪の両親? なかなか出て来なかった獣神様?


……ちがう、僕だ。怖くなって、勝手に家を飛び出して、森の奥まで逃げ込んだ僕だ。雪が病なのに無理をさせてしまった僕だ。雪の事を信じられなかった僕だ。雪の病を治せなかった僕が悪いんだ。


 言ノ葉は泣くことのできない自身の目を瞑り、ふらふらとした足取りで開けてあった扉から外へ出た。


 まだ風はビュービューと吹いていて、闇色の空には苦しい位に綺麗な星がひとつ、優しげに言ノ葉の方を向いているだけだった。


 誰とも会話が出来なくなった者の末路は残酷だ。人と話せないのはまだいい。寂しいが「以前」に戻っただけだから。しかし、同族と話せないのはとても辛かった。気味悪がられ、追いやられ、森の中の居場所も狩り場もなくなった。人の町だって「この黒猫は労咳の子の家に居たらしい。近づくと伝染っちまう」という噂が流れて追い出された。生きていくための食料を満足にとれず、日に日に憔悴していく。きっと最後は誰にも看取られることなく一人で死んでゆくのだろう。


「寂しいなぁ」


 誰にも伝わる事のない声が言ノ葉の口から漏れる。もう自分が猫の言葉を話しているのか人の言葉を話しているのかもわからない。でも、誰でもいいから自分の声が届く人がいないかと淡い希望を抱きながら静かに鳴いた。猫は本来自分の死体を誰かに見せることはしない。弱っているところを狙われないよう誰にも気づかれない場所に身を隠すが、その間ご飯も食べれずそのまま憔悴しきって死んでしまうのだ。猫の死は本質的に孤独なのである。しかし、一度温もりを知ってしまったらもう孤独には耐えられない。どうしても一緒に居てくれる誰かを求めてしまう。たとえそれが猫として異端と分かっていても。


 雪の葬儀は知らぬ間に終わっていた。いや、もしかしたら行われてすらいないのかもしれない。しかし、町人たちの話を盗み聞きなんとか雪が眠っている場所を割り出せた。近くの集合墓地に雪や雪の家族が眠っている墓があるらしい。痩せこけた体を引きずりながら言ノ葉は井上家之墓と彫られた墓石の前に辿り着いた。


「雪、ありがとう。最後まで信じてあげられなくてごめん。きっかけはどんなでも今まで過ごした時間は変わらないっていう簡単なことに気づけなくてごめん。他の猫と話せないって知った時あんなに慰めてくれたのに、あんなに一生懸命文字をおしえてくれたのに、怖くなって逃げ出してごめん。

 黒猫が労咳を治すって聞いて黒猫を探していたのに病気なおせなくてごめん。最後まで一緒にいられなくてごめん。まだまだいっぱい謝りたいことはあるけど、続きは後でね。これだけ言わせて。

 大好きだよ。ありがとう」


 その言葉を紡ぐ声はか細く、小さい。それでも確かに伝わった。言ノ葉はなぜかそう思った。根拠も確信もない。でもなぜか自信だけはあった。自分の言葉を拾えるのは雪ただ一人なのだから、伝わらないはずがない。そんな前向きな考えが言ノ葉の脳裏によぎったのだ。


 井上家之墓の前には痩せ細った黒猫が一匹、寄り添うように倒れていた

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言葉を得た猫 十八十三 @zyuzo

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