黒猫と契約

 どれだけ祈っても、願っても獣神の声は聞こえてこなかった。やはり儀式には供物が必要なのだろうか。しかし今は供物を探す時間が惜しいし、狩りをする元気すらも無かった。言ノ葉の声は碧く茂った深い森の中に吸い込まれていく。力尽きた言ノ葉はその場で倒れこみ、気がつけば夜が更けていた。


 暗い暗い森の中、ふと、獣神様の声が聞こえた気がした。眠っていたはずの言ノ葉は飛び起きた。


『我、獣神也。我を呼んだのは貴様か。昼寝を邪魔しおって』


 低く、重くのしかかる獣神様の声は、その雰囲気にそぐわないその言葉で相殺された。それにしても、言ノ葉が気を失ってからどれだけ時間が経ったか正確にはわからないが、日が沈んでいる為最低でも6時間は過ぎている。邪魔どころかばっちり昼寝できただろうというツッコミが言ノ葉の頭の中を過ったが、いちいち構っていられるか! と、なんの前触れも無く本題に入った。


「獣神様。どうして僕の声は他のみんなに届かないのですか? 雪には伝わったのに!」


 言ノ葉が必死の形相で獣神様に問う。また再び獣神様が消えてしまう前に、自分が力尽きる前に言ノ葉は精一杯の声を張り上げた。


 静寂が場を支配した。他の猫達と同じ様に言葉が伝わらないのではと、言ノ葉は一瞬戸惑ったが長い間を開けて漸く獣神様が言葉を発した。


『最初に説明しただろう』


「へ?」


 言ノ葉の腑抜けた声が落ちる。獣神様は聴いていなかったのか?と呆れ声であの夜の契約を語り出した。


 ──あの夜、たしかに言ノ葉と獣神様はある契約を交わした。


『獣神様、獣神様。どうか私の願いを叶えて下さい』


『我、獣神也、貴様は我に何を求める』


『?!...獣神様、どうか私に人の言葉をお与え下さい』


『いいだろう。但し犠牲が伴うぞ』


『構いません』


 言ノ葉の意識はここで途絶えてしまっていたが、この契約には続きがあったのだ。


『ならば貴様に言葉を与えよう。ただ、人の言葉は特殊で我々猫の声帯では言葉にするのは難しい。我の加護では初めにあった人間1人と意思疎通させるのが精一杯だ。しかも、貴様の全てを代償にしても、だ。つまり、貴様が最初に出会った人間にしか言葉が伝えられなくなる。当然、今の仲間と話せなくなるぞ。良いんだな』


 獣神様の何度目かの念押しも気を失っている言ノ葉には届かない。


『……無言は肯定と受け取るぞ。後悔しないことを願っておる』


 しかし、獣神様はお構い無しに無言を肯定と捉え契約は成立した──


 これがあの夜の出来事だと聞かされ、言ノ葉は激怒した。そりゃあそうだろう。そんな大事な所を勝手に決められたのだから。確かに疲れて眠ってしまった言ノ葉にも非はあるだろう。然し、一生を左右するような契約なのに軽い。軽すぎる。しかも当の本人返事してないのに勝手に肯定と捉えられている。巫山戯るなよ……と言ノ葉が怒るのも仕方が無いだろう。


 だが結んでしまったのも仕方が無い。もう死ぬまで外れることのない契約に気を落としつつも向き合うしかないと言ノ葉は悟ったような顔つきであっそうと呟き獣神様を放置して森を抜けた。言葉が伝わらない理由は知った。雪にのみ言葉が伝わる理由も知った。そして言ノ葉はある一つの結論を導き出した。


「帰ろう」


 雪に連れられ、雪と過ごしたあの家へ。勢いのまま飛び出してきてしまったあの家へ。雪がどんな理由で言ノ葉を拾ったかなんてわからない。たしかにきっかけは町で聴いたあの噂からかもしれない。けど、一緒に過ごした時間は変わらない。ほんの少しの間だったが、確かに雪の隣は暖かかった。


 それに言ノ葉はもう雪以外とは話せないのだ。つまり、頼れるのは、寂しさを感じさせないのは、帰る場所は雪しかいないのだ。帰って、飛び出て行ったこと謝って、仲直りして、又いつも通りに戻ろう。病気だとかそんな事関係ない、居たいから一緒にいるし、それで雪の病気を治せるかもしれないならそれでいいじゃないか。いや、寧ろそれが一番良いじゃないか。言ノ葉はそう思うと、自身の内に蔓延っていた黒いナニカがスーッと消えて楽になったような気がした。そして、それに比例する様に自身の脚も速くなっていくように感じた。

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