第7話 実行
数日後の夜、僕は聴診器を壁に当てて密かにタイミングを計っていた。
ずっと兄妹の部屋を盗聴していて分かったことがある。
一つ。継父が夜に帰ってくるときは決まって酷く酔っている。
二つ。継父は帰ってくるなり大声を上げて暴れ、台所の包丁を振り回すことがある。
三つ。継父は酔って帰るため、玄関の鍵をかけ忘れる。
これらを利用するしかない。
息を殺して待つうちに乱暴な足音が外から聞こえてきて、玄関のドアを乱暴に開けた。
ドアは閉まりはしたが鍵をかける音はなかった。
主人の帰りだってのに誰も出迎えねぇのか!
継父が怒鳴る。
お帰りなさいませ。
母親がくぐもった声を出す。
ガキ共はどうした?
寝てます。
起こして出迎えさせろや!
寝てますので・・・・・・
乱暴な足音が響き何か柔らかいものを叩く音がした。
おそらくケントかノゾミを蹴ったのだ。
起きろやガキィ!
痛い。やめて。
うわぁ――――――ん。
ケントの抵抗。ノゾミの悲鳴。僕は興奮を必死で押さえた。
てめぇ、なんだその目つきは!
継父の声がさらなる剣を帯びた。どうやら兄妹のどちらかが継父をにらみ返したようだ。
しつけてやらぁあ、クソガキ!
継父の足音がキッチンに向かう。
流し台の下の収納扉を開ける音、包丁たてから包丁が抜かれる音。
僕は聴診器を捨て、外へ出る。
兄妹の部屋のドアを前にして一瞬立ちすくむ。脚が震えて動かない。土壇場で怖じ気づいたようだ。
だが、後戻りなどできない。
僕は一呼吸置いて準備を整え、ドアを勢いよく開けた。
1DKの部屋にいるのはノゾミを護ろうと覆い被さるケント、隅にうずくまる中年女、そして包丁を振り上げた顔の赤い痩せた男。
全員何事かという表情で僕を見ている。
僕は構わず叫んだ。
「お前、虐待の証拠は全部掴んであるからな。警察にも通報した。もうすぐパトカーが来るぞ!」
「何だ。てめぇは!?」
「包丁を降ろせ。少しでもその子たちに向けたら殺人未遂として警察に証言してやる!」
「人ん家に入ってきて戯れ言ぬかしてんじゃ・・・・・・・・・!」
相手の話は聞かず、僕は男に掴みかかった。包丁を持った手を両手で握りしめ、デタラメに振り回す。
男も抵抗するが、僕と腕力は大して変わらなかった。
「おじちゃん。あぶない!」
「おじちゃん!」
兄妹の叫ぶ声が聞こえる。
だが、僕の計画はヒーローのごとくこの継父をやっつけて兄妹を救出することではない。
僕の両手は包丁を握る継父の右手をがっしりと拘束している。包丁を取り落とされては困るからだ。
意志の異なる二人の力で包丁は縦横無尽に空を切る。僕は包丁のタイミングを見計らい、切っ先を自分の腹に向けた。
そして。
ドスッ!
思い切り体をぶつけて体重をかけ、突き刺した。
「て、てめぇ・・・・・・!」
継父が驚愕の表情を浮かべる。そりゃそうだ。刺したのは継父の意志ではない。
しかし、傍目には継父が僕を刺したようにしか見えない。
ざまあみろ。
心の中で毒づきながら僕は崩れ落ちた。
腹から包丁が抜けた。
継父は包丁の血を見るなりそれを放り捨ててみるみる真っ青になった。
「俺じゃない俺じゃない!」
必死で周りに同意を求める継父。だが、母親も兄妹も首肯することはなかった。
「お、おい。手貸せ。死体を隠すんだ」
継父が母親に命じたが母親は怯えて動く様子がない。それにまだ死んでないよ。
・・・・・・・・・・・・もしもし・・・・・・・・・ですか・・・・・・・・・
静まりかえった室内に、どこからかくぐもった声が聞こえる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・もしもし、大丈夫ですか? もしもし・・・・・・・・・
スピーカー越しに必死に呼びかける声。
「何だ?」
継父が僕のズボンのポケットがわずかに光っているのに気付き、すぐに手を突っ込んだ。
取り出されたのは僕のスマホ。すでに画面が起動していて、あるところに電話がつながっている。
「いつの間に・・・・・・・・・」
継父が憎々しげに僕を見下ろした。
電話の相手は110番。この部屋の玄関を開ける直前に電話を発信しておいたのだ。
今のスマホは緊急番号に発信すると自動的に位置情報も送信するようになっている。
わざわざ先ほど継父に大声で啖呵を切ったのは、電話の向こうの警察に事態を知らせるためだ。
ここにはすぐに警察が来る。
僕は残りの力でニヤリと嗤って見せた。
「くそ!」
継父は散らかった室内から財布だけを鷲づかみにして玄関から飛び出ていった。
僕の体からどっと緊張が抜けた。
途端に痛みと寒気が渦になって僕を襲った。全身から冷や汗が出て呼吸が荒くなり、血液が暴れているような感触がした。
包丁は良い具合に深いところまで刺さったようだ。間違いなく死ねるだろう。
これが僕の計画。
兄妹を救い出し、継父を虐待よりもさらに重い罪で刑務所にぶち込み、そして、今後犯罪を起こすと予想される不安因子、つまり僕をもこの世から抹消する。一石三鳥の秘策だ。
恐いくらいにうまく行った。あれかな。イメージトレーニングが良かったのかな。それともほんの少しだけ腕立て伏せをして鍛えたせいかな。笑いたかったが口からは血が溢れ出てきた。
「おじちゃん。大変だ!」
「だいじょうぶおじちゃん!」
ケントとノゾミが駆け寄ってきた。
良かったな。二人とももう打たれなくて済むんだ。悲しい思いも辛い思いもしなくて済むんだ。
兄妹はなぜか視界から消え、またすぐに戻ってきた。
手には傷薬に汚れたぞうきんとセロテープ。
ケントが傷薬を全部僕の傷口に振りかけ、ノゾミがぞうきんを押し当てた。そして二人してセロテープを伸ばして切り、ぞうきんに貼り付けて固定しようとした。
そうか、僕がケントの傷口を手当てしたのを真似ているのか。子供の記憶力とは凄いものだ。
しかし、服は血ぬれで、セロテープはまるで張り付かない。まるでうまく行かないことに兄妹が悔し涙を浮かべた。
いいんだ。上手だ。上手だよ。
二人の頭を撫でたかったが、手がうまく上がらない。
ノゾミが泣きながら僕の手を取り胸に抱きしめた。心臓の鼓動が伝わってくる。暖かい血流が、生命の息吹がそこにあるんだ。これが失われなくて、本当に良かった。
「おじちゃん。ごめんよ!」
ケントがうわっと泣いた。
男の子が泣くなよ。
二人ともごめんよ。おじさんは君たちを騙していたんだ。おじさんは親切でも優しいのでもない。とても汚い欲望を持った、悪い人なんだ。
だから、悲しむ必要なんてどこにもないんだよ。
口で言ったつもりだが、二人に聞こえていたかどうかは分からない。
僕の死は僕が起こす罪の裏返しだ。僕の罪が一足早く僕を断罪してくれたんだ。
僕はもう、この世界で最も大切な“子供”という宝を一つも失わせることなく、この世を去れる。
ケントとノゾミの命を奪わずに済んだことが、何より幸いだった。
まてよ。僕は兄妹を誘拐して、そしてどうしたかったのだ? 性欲の捌け口にするためじゃなかったのか? 本当に性欲を満たした後、命を奪うつもりだったのか?
だが、僕が誘拐した時点で二人は虐待という境遇から解放される。それでは性欲の捌け口にはならない。
そもそも、欲望を満たしたいだけなら、あの公園でトイレに連れ込んで、そのまま犯して、そこで殺せば済むはずだったのでは?
ならばなぜ、僕は兄妹に対して誘拐という選択肢を選んだのだろう。わからない。
だが、誘拐を実行できなかった理由は、死に際の今になってやっと分かった。
事実に目を背けていただけなのだ。職もない、性癖もおかしい僕のような人間一人では、子供を大人になるまで育てられないことなど、はなから分かりきっていた。
遠くからサイレンの音が聞こえる。ケントとノゾミは相変わらず泣いたままだ。
もうすぐだ。もうすぐ全て終わるんだ。長い間辛い思いをさせてごめんよ。
僕みたいな悪の側の人間が言って良いことじゃないけど。でも、一つだけ許されるなら、言わせて欲しい。
ケント、ノゾミ、くじけず、元気で、幸せに。
とある小児性愛者の決意 上月 亀男 @pekko
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