朝薙紗凪は夏を待っている

詩一

無くもがなの日々、その独白

 生まれた時から母親はいなかった。

 父親は毎日仕事で私はずっとほっとかれながら育った。

 小学校に行く時分、周りの女の子たちとギャップを感じた。

 皆オシャレで可愛かった。

 私はボロのTシャツにジーンズが多かった。

 こんなのは嫌だと言うと、父親は直ぐに新しい洋服を用意してくれた。嬉しかった。

 中学校に行く時分、初めて父親に母親の事を尋ねた。

「お前が生まれた時に、病気になって死んでしまったんだよ」

 父親に私を傷付ける気などなかっただろう。ただ事実を述べたに過ぎない。それでも私は悲しみに暮れた。

 私が生まれてこなければ。

 そう思った。

 中学生ともなれば、世の中の仕組みもだいたいわかってくる。

 父親が毎日仕事に行かなければいけないのも、ご飯がいつも惣菜なのも、部屋が散らかっているのも、全部自分の所為だと思った。

 私はお手伝いを増やした。

 小学生の時分から皿洗いはしていたけれども、そこから更に洗濯と掃除をするようにして、料理も頑張った。

「ありがとう」

 父親のその一言に全てが救われた。

 お母さんが居ないのは私の所為だ。父親に妻が居ないのも私の所為だ。その欠損を補えるのであれば、そうしよう。お手伝いをする度、心が満たされた。

 お母さんが父親にしてあげられなかった事を、私が代わりにやってあげている気がして。

 そのうち父親はお礼を言わなくなった。

 寂しかった。

 しかしその寂しいと思う気持ちすら罪だと思った。

 私は家事をして当然なのだと思った。

 中学三年生の時、父親は仕事で失敗をしてクビになった。

 あれほど職場に尽くしてきた男が、こうもあっさりクビを切られるものなのか。斯くも残酷な世の中だ。そう思った。

 再就職を目指して面接に行くも、軒並み不合格。

 父親から頑張る気が失せるのが見て取れた。

 私が高校に上がる頃、父親は医者の診断書を貰い、生活保護の恩恵を受ける事になった。

「ダメ人間の証だ」

 そう自嘲した父親の寂しそうな目を、私は一生忘れないだろう。

 高校に入ると、私は働く権利を得た。

 働かなくては。

 必然そういう思いに駆られた。

 恐らく父親はお母さんが居たならば、もっと粘れたであろう。そしてあわよくば再就職も叶ったであろう。

 お母さんの穴埋めを私がしなくてはと思った。

 私はカラオケ屋でバイトをした。

 夕方5時から10時までの5時間。自給は960円。一日4800円。家事もあるので、週4で入るのが限界だった。月平均6~7万円の給料となった。

 私がこの状況でありながら就職をせず高校に入ったのは、周りの入らなければいけない、入らなければ人ではないと言った脅迫めいた価値観に屈したからである。父親は高校に行けとは言わなかった。

 私が稼いだお金を父親に渡すと、喜んでくれた。

「ありがとう」

 久しぶりに聞いた言葉に私は嬉しくなった。

 暫くの間ありがとうは続いたが、3か月目にはもう聞けなかった。

「そろそろ、給料出たんじゃあないか?」

 代わりに聞いたのがその言葉だった。

 この頃にはもう既に、ダメ人間呼ばわりして己を責める事はなくなっていた。陰鬱とした表情もなく、憔悴しきった様子もない。代わりに酒の匂いがいつもしていた。

 私はともすれば怒りのようなものを感じたが、すぐにそれは消え失せた。

 なぜってそれは、母の遺影を目にしたから。

 この部屋は狭い。お母さんの写真は食事をするテーブルの中央に飾ってあるのだから、必ず目に入る。皿洗いをする時も、部屋の掃除をする時も、洗濯機から洗濯物を出して干しに行く時も。ずっと見られている。

 最初は見守られていると感じていた。

 初めて家事をした日や、家事を増やした日、バイト代を父親に渡した日、お母さんは微笑んでいた。「偉いわね」そう言われているように思えた。

 だから頑張れた。

 お母さんの代わりに頑張るからと胸中で約束した。

 しかし父親に対して怒りが込み上げてきたその時に目にした母の表情は悲しみに満ち溢れていた。と同時に、怒りのようなものまで感じられた。

「私を殺した分際で、よくもお父さんを怒れたものね」

 そう、言われている気がして、物怖じして、バイト代をテーブルに置いて目を切った。お母さんからも、父親からも。

 いつの日からか私の愛読書はエミール・ミハイ・シオランの『生誕の災厄』となった。

 彼はルーマニアの思想家で、とても悲観的な人だった。そして誰よりも生まれたことを嘆いていた。生誕の災厄とはそう言う事なのだろう。

「あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて」

 そう彼は語っている。

 逆説的に救われた気がした。

 私が生まれてきたのが悪いんじゃあない。

 私を生もうと決めた二人に罰が当たったんだ。

 そう思い、一瞬救われ、その刹那心は闇に深く沈んだ。日昇前の海辺の昏がりに埋没した。

 憂鬱の波に浚われるよりも一瞬早く、私は目覚めて学校に行く。

 これを幾度か繰り返した。

 そう思ってはいけない。

 親を恨んではいけない。

 生まれてきたことを至上の喜びととらえ、吹きさらしの時代に錨を降ろして、内心で沸き起こる自由解放運動を抑止しなければいけない。

 そう自分に言い聞かせ、学校とバイトと家事をこなしていく内、私の中は空虚で埋め尽くされた。楽しいとも思わない代わりに、悲しいとも思わない。父親に怒りを感じないし、母親の禍々しい双眸に恐れる事もない。

 これが無懊悩アタラクシアでない事は解っていた。しかし心の不動性が、私を精神的な快へと導いていたのは確かだった。

 空虚の周りを、学校とバイトと家事がグルグル回っていく内に、私は口数が減って行った。元よりオシャレにも気を遣わない、可愛くもない私は、決してスクールカーストの上層部に位置するような人間ではないけれど、そのカーストのどこにも存在しないような存在になってしまったような気がした。

 それでも良かった。そのスクールカーストの頂点に立ったところで、私は救われることはないのだから。

 父親は家に帰れば飲んだくれているのが当たり前になっていた。部屋は私が片づけるより早く汚れていく。それでも私は心を動かそうとしなかった。

 痛みを伴うから。

 母親に睨みつけられるから。

 お礼の言葉、よりもそもそも会話それ自体が珍しくなった私は、そのまま春を終え、夏を迎えた。そんな折、一人のクラスメイトに話し掛けられた。

「ありがとう」

「え?」

「消しゴム。助かったよ」

 久しぶりのありがとうに胸が高鳴り、言葉が出なかった。私はまだ私が友達と仲良く話していた時代にまで記憶を遡って言葉を見つけ出して、恭しく彼の前に取り出して見せた。

「は……い」

 私の月並みを一周させて異形とも取れる返事に、目の前の彼は吹き出した。

「なんで敬語!? 同じクラスなんだし仲良く行こうぜ。朝薙あさなぎ

「なんで……私の名前を?」

「いつも点呼取ってるだろ?」

「……ああ」

「まさかお前、俺の名前知らないんじゃあ……」

 大仰に驚いた彼に、私は俯くしかなかった。

「なんてな。比々色燈瓏ひひいろひいろうなんて名前、聞いたら忘れるわけないよな」

「……ヒーロー」

 学校を取り囲む緑が、風に揺れてざざざと揺れた。

 夏の匂いがした。

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