いじこ

安良巻祐介

 

 私は畳の上に転がされて、ずっと放って置かれていた。誰だか知らないけれど、襖を閉めて出ていった者がある。

 随分前から時計が鳴らない、だから、静かにしておいでと言われたのに、我慢が出来なくて、ぴいと啼いた。他に音がないから、天井の高い部屋に、声は鋭く響き渡った。耳を刺すその響きが自分で思っていたよりもずっと異様で、私は総毛立って思わずまたぴいと啼いた。

 誰も返事をしない。私はますます震え、もう声を出さぬと決めて、息を押し殺して畳の間を這い回った。

 抹茶色の畳に半分覆われた視界で部屋の中を動いていると、正面、ほんの幾寸かだけ開いた仏壇の、漆塗りの戸の陰から、りんごのようなものが覗いていた。見ると、未だ毛も生えていない、柔らかなこどもの頭だ。その前には、誰が立てたのか、線香が一本薄い煙をくゆらしている。

 仏壇の下に、誰かの縫ったらしい皮衣が一枚あった。

 這って行ってそれを取ろうとしたら、掴んだ拍子に、童と目が合ってしまった。青白いその顔は、薄く瞳を開けて、なびく線香の煙をうるさそうにしていた。

 私は我知らず口を開けた。童は私を見てはいない。腹の内から鼻の先まで、生冷たい息のすうと抜けるような心地がする。

 口を開け、身を粟立たせたまま、私は逃げだした。皮衣を被り、畳の上を滑り、襖を開いて次の間へ入る。誰かきっと居てくれようと思ったのに、しんとした畳の上には誰も居なかった。

 私は皮衣を被ったまま所在を無くし、ほとぼりを冷ますためにまた畳の上をぐるぐる動き回った。あの童が他人とは思えない気がして恐ろしかった。忘れてしまおうと、狭い部屋の中を、とかくぐるぐると回り続けた。

 そうすると、やがて手足が柔らかい石のように感ぜられだした。そして、皮衣の下で、身がむくむくと痒くなってきた。身をよじると、もう、と声が出た。誰の声かと思えば、自分の声だった。少し口をつぐんだ間に、自分の声は全く聞き覚えのないものに変ってしまっていた。もう、もう、と私は啼き、耳でそれを聞く度にいちいち畳に身体を擦りつけた。そうしているうちに、誰かに呼ばれたような心持がしたので、私はひたりと動きを止めた。丁度目の前に、入ってきたのと同じような襖があり、ぴったり閉じ切られているのであるが、ふと、その向こうに父がいるような気がした。

 私はもうもうと啼きながら襖に向かった。突き当たったと思うとそれは自然にすうと開き、私は皮衣を被ったまま、部屋の中に転がり込んだ。畳の真ん中辺りで身を起こし、父の姿を探したけれど、何処にも見つけられなかった。

 今までの部屋よりも、辺りがいくらか明るい。正面に障子があり、その向こうから、柔らかい光が入っている。障子紙の上に大きな、肩から上の人影が幾つも映って、ゆらゆら揺れていた。その一つがどうやら父の姿らしい。私はむくむく痒い身を蠢かし、障子に向かって這い進んだ。

 その時、障子の向こうから、今度ははっきりと声が聞こえた。

「かんにんかんにん」

 野太い、低い、父の声だった。

 私は皮衣に包まったまま、じっとその言葉を聞いた。そして理解した。父の影が、障子の向こうで小刻みに震える。どうやら私は殺されるのだ。

 私は皮衣を被ったままもうもうと啼きながら前の間へ逃げた。誰もいない畳を、さらに襖を開け、仏間に入った。

 真正面に仏壇が見える。青白い童の顔が覗いている。私はそれが誰なのかを唐突に理解した。

「兄様」

 呼びかけようとして、総身から血が引いていくのがはっきりと意識せられた。目の前で、童が薄笑いをしたように見える。

 線香の火がぷいと消えた。

「かんにんかんにん」

 背後で障子のゆっくりと開く音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いじこ 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ